そうっと指を忍ばせる。ととと、とベンチを歩いていった指は、ここだと睨んだ場所を手前に少し怯んだ。 しかしえいと自分に気合を込めたアキラは、思い切ってもう一歩指を進ませた。 無機質なベンチの固い感触から一転、暖かい肌に指が触れる。触れたヒカルの左手がびくりと揺れた。その反応に思わずアキラは驚いて手を引っ込めそうになってしまったが、ここで退いたら二度目を狙うことは難しい。 そのままきゅっとヒカルの手を握り締めた。二十センチ向こうのヒカルの肩がまた少し跳ねる。それでも、振り解こうとする素振りは見られなかった。 アキラは少し安堵し、手の甲から包むようにヒカルの左手を握っていた手を移動させ、手のひらを重ね合わせた。そのまま緩く繋ぐと、お互いほんのり汗ばんでいる皮膚が吸い付くように落ち着いた。 ふう、と吐息がアキラの口から漏れる。まずは第一段階……しかしこんなふうに意図的に触れ合うのは本当に久しぶりで、胸のドキドキは収まらない。 柔らかい手のひら。緊張しているせいで汗がまたじわじわと染み出してきている。 ヒカルは嫌がらないだろうか? ところがアキラの不安は、嫌がるどころか軽くアキラの手を握り返してきたヒカルの行動によって解消された。 繋いだ手が熱い。爽やかな風の中、そこだけが変に熱を持ってその周りの空気の温度を上げている。 アキラもヒカルも無言だった。黙って手を繋ぎ、ぼんやりベンチに座っていた。 アキラはヒカルの顔を見ることができなかった。万が一ヒカルが少しでも嫌そうな表情を見せていたら、すっかりくじけてしまうに違いないから。 手のひら越しに伝わる熱が、そんなことはないよと勇気付けてはくれているのだけれど。 手を繋いだまま二人、ベンチに座り込んで風景に混じる。 少し前に犬を連れた女性が通ったのを最後に、人通りがなくて幸いだった。誰にも邪魔されず、風に揺られて、アキラとヒカルは黙って手を繋ぐ。 最初こそ乱れていたアキラの脈拍も、そうしているうちにだんだん緩やかなペースを取り戻してきた。 繋いだ手の暖かさがこんなに落ち着くものだったとは。確かに触れ合っている部分から、ヒカルの呼吸や鼓動が伝わってくるようで、重なっている面積は小さいのに心がひとつになっていくような気がした。 あの夜無理矢理にヒカルの身体を開かせた時とは明らかに違うときめき。 それはとても優しい感情だった。 二人でいられることの喜びを改めて噛み締める、静かだけれど力強い想いが溢れてくる。 アキラは無意識に指に力を込めていた。ヒカルの指もまた、応えるようにぎゅっとアキラの手を握り返してくる。 幸せだ、とアキラは思った。手を繋いで二人で同じ景色を見ている。たったそれだけでこんなに心が満たされるなんて…… ふと、アキラはそれまで見ないようにしていたヒカルのほうに顔を向けた。アキラの動作に気づいたのだろう、ヒカルは少し俯き気味だった顎を持ち上げる。 目が合って、ヒカルははにかむように微笑んだ。その小さな笑顔がびっくりするほど可愛らしく見えて、アキラはきゅうっと胸を締め付けられる。 思わず伸ばしてしまいそうだった左腕をぐっと押し留め、繋いだ右手の指でヒカルの手の甲をそっと撫でる。ヒカルはくすぐったそうに軽く口角を吊り上げた。 アキラも目を細め、微笑を浮かべてヒカルを見つめた。相変わらず二人とも無言だったけれど、ただ手を繋いでいるだけで幸せを共有できたことは間違いなかった。 日暮れ直前まで、アキラとヒカルはベンチに並んで手を繋いでいた。 その夜アキラはなかなか寝付けなかった。 目を閉じてもヒカルの顔ばかりが浮かぶ。今日の別れ際、今までに見たことがないくらい優しい微笑みをくれたヒカル……無邪気な笑顔なら何度も見てきたが、ヒカルがあんなに穏やかに微笑するのを目にしたのは初めてだった。 寝返りを打ちながら、アキラはこれまでの自分の行動を深く反省する。 ヒカルが想いを受け入れてくれてからというもの、キスしたい抱き締めたいと短絡的な行動ばかりに走り、そのどれもが勢いそのままの乱暴なもので、じっくり肌を触れ合わせようだなんて真剣に考えたこともなかった。 とにかくヒカルの全てを手に入れたいと、焦って本質を見失っていた。 触れ合うことって素敵なことだったんだ……公園でずっと握り締めていたヒカルの暖かい手のひらを思い出し、胸がじんと熱くなる。 改めてヒカルを愛しく思った。彼が好きだ。怖がらせたくない。幸せにしてあげたい。 ヒカルもアキラと同じように思ってくれただろうか……アキラは甘ったるいため息をついて再びごろんと寝返りを打った。 今夜はしばらく眠れそうになかった。 *** それから五日、何かと予定が詰まっていたアキラはヒカルと逢うことが叶わなかった。 逢えない時ほど想いは募る……息苦しいまでのときめきが胸を打つが、決して嫌な感覚ではない。 ヒカルもアキラと逢える日を待ち遠しく想ってくれているのではないか。そんな自信がアキラを支えていた。あの日、アキラと手を繋いで嬉しそうに微笑んでいたヒカルの横顔を思い出すと、それは決して過信ではないと頷けるのだ。 その日もよく晴れていた。日中は暑くてたまらなかった空気も、午後を過ぎて夕方に近づくにつれて徐々に涼しさを含み始める。 開け放たれた事務室の窓から流れてくる風に軽く目を閉じたアキラが、予定していた書類を提出して今日の仕事はこれで終わり、と事務室を出たところ。 今まさに事務室に入ろうとドアに手を伸ばした格好で、ヒカルが驚いたように固まっていた。 アキラも驚きに目を丸くしたが、その後のヒカルの反応にもっと驚いた。 ヒカルはアキラを見るなり、ぱっと頬を染めたのだ。 事務室の入口で見つめ合ったまま立ち止まってしまった二人は、その脇を通り抜けた職員が不思議そうに振り返ったのに気づいて慌てて視線を泳がせた。 「……久しぶり」 少し喉に声を引っかからせながらもアキラが挨拶をすると、ヒカルも口ごもりながら「う、うん」と頷いた。 僅かとはいえ言葉を交わしたことでふいうちのダメージが大分和らいだアキラは、肩の力を抜いてヒカルを見つめる。 ヒカルは手に何か書類を持っている。どうやらアキラと同じくそれの提出に立ち寄ったようだ。 ひょっとしてその後は空いているのだろうかとアキラが期待に胸を鳴らした時、ヒカルがどこか照れ臭そうにぽつりと呟いた。 「お前、この後なんかある?」 「え? ……い、いや、何も」 「俺、これ出したらヒマだから。ちょっと待っててくんねえ?」 一緒に帰ろ、と続けられた言葉に、アキラは目を輝かせた。 「も、もちろん。待ってるよ」 「うん」 はにかむように笑ったヒカルは、足早に事務室に入っていった。アキラは逆に事務室の外へ出て、ドアの前でヒカルを待つ。 ――進藤があんな顔するなんて…… これまでにない反応だった。頬を赤らめた後の、なんともいえない気恥ずかしそうな目…… 拝み倒して付き合い始めた時だって、あんな顔はしてくれなかった。その上初めての夜の後はあんな顔どころか鬼の形相で睨みつけられた。何と言う進歩だろう! アキラは自然と緩む頬をどうしても引き締め切れず、その後事務室から出てきたヒカルに「何、ニヤニヤしてるんだよ」とこれまた恥ずかしそうにツッコまれてしまった。 なんでもないよとごまかしながら、アキラはヒカルと並んで仲良く棋院を出たのだった。 特にどこに行こう、という打ち合わせもせずに向かっていた先は、何となく足を向けやすかった碁会所方面だった。 日暮れ近く、すでに太陽は沈みかかっていて、空はほんのりオレンジ色に染まりつつある。 もう少ししたら暗くなる……アキラがぼんやり空に目を向けた時、ヒカルがふいに口を開いた。 「あの、さ。公園行かねえ?」 「え?」 振り向いたアキラは、恐る恐るといった様子で上目遣いにアキラを見ているヒカルについつい見惚れそうになった。 しかしヒカルを戸惑わせないようにすぐに大きく頷くと、自ら先導するように早足になって公園を目指した。もうすぐ日が暮れる。昼間は緑鮮やかな公園もすっかり薄暗くなってしまうだろう。 そんな時間にも関わらず、ヒカルが誘ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。逸る足そのままにほとんど小走りになっていたアキラの後ろを、ヒカルも急ぎ足でぴったりとついてきた。 二人が公園に着いた頃には空はすっかり真っ赤になっていて、見渡す限り人影もない。 さて公園に来てどうしよう、とまごついたアキラだが、ヒカルがすたすたとこの前二人で歩いた木漏れ日の道を歩き出したのに気づいて、慌てて後を追った。 木々の影がくっきり地面に黒を落として、以前のような爽やかで明るい雰囲気からはかけ離れている。それでも葉の隙間からちらちらと覗く赤い空は案外綺麗だとアキラが見上げた時、ふとアキラの左手に何かが触れた。 はた、と立ち止まりかけたのを何とか堪えた。 ヒカルがアキラの手を握ってきたのだ。 指先で控えめに、アキラの手のひらにほんの少し引っ掛けるだけの手繋ぎが、アキラの胸をどうしようもなく刺激した。 アキラはぎゅっとヒカルの手を握り返した。少しヒカルの肩が強張ったのが腕を伝って感じられたが、嫌がる素振りはない。 ヒカルの指の間に自分の指を絡めるように手を握ったアキラは、同じように握り返してくるヒカルの手の感触にハアと小さく吐息をつく。 夕暮れの並木道を二人並んで歩く。誰かに見られたら大変なことになったかもしれないけれど、そんなことどうでも良いと思えるくらいに繋いだ手が暖かで幸せだった。 何も言わずに歩き続けた二人は、この前腰掛けたベンチの傍までたどり着く。軽く顔を見合わせて、もうすぐ暗くなるだろう時間だというのにアキラもヒカルもそこで休憩することを迷わなかった。 手を繋いだまま座り、赤い空が紫がかっていくのをぼんやりと見上げる。直に月が昇るだろう。 それでも手を離せなかったアキラが少し力を込めてヒカルの手を握り締めると、ヒカルは掠れた声で呟いた。 「……俺、……最初お前に好きだって言われた時、よく分かんなかった」 アキラは思わずヒカルを振り返る。 ヒカルもその視線に気づいただろうけれど、顔を上げずに自分のスニーカーの足先を見つめて続けた。 「お前と一緒にいるのは楽しいけど。でも、好きとか考えたことなくて……付き合ってからも、ホントはよく分かんなくて……。だから、すげえ怖かったんだ。お前、どんどん迫ってくるし……俺に考える時間くれねえし……」 アキラは慌てて言い訳をしようとした。キミが好きすぎてあまりに盲目だったんだ――しかしそれが言葉になる前に、ヒカルは尚も恥ずかしそうに告げた。 「でも、最近のお前、なんかすげえ優しくて。ちゃんと俺のこと見ててくれるし、……嫌なことしないし、でも一緒にいてくれるし。なんかさ、俺、お前と一緒にいるのが当たり前になっちゃって、一人でいるの……最近、すげえ寂しいんだ……」 ヒカルがそっと顔を上げる。紫色に染まった頬がやけに色気づいて見えて、アキラはごくりと喉を鳴らした。 「……俺も、お前がスキ」 蚊の泣くような声で囁いたヒカルは、それだけ言ってぱっとまた俯いてしまう。そして、言い訳のように続けた。 「ちゃ、ちゃんと言ったことなかったから……だから……」 アキラはヒカルの口唇から告げられた言葉を頭の中で繰り返し再生し、くらくらと甘い眩暈を感じて僅かに眉を寄せた。 握っていた左手に力を込める。そして、右手を伸ばしてヒカルの左肩を優しく掴んだ。 ベンチに座ったまま向き合った二人は、近づく闇のために影が落ちかかったお互いの顔に、甘い期待が表れていることを敏感に感じ取った。 ヒカルが目を閉じる。 アキラは一瞬全ての理性を手放してその口唇を塞ごうとして――ふいにオーちゃんの言葉が脳裏に閃いた。 ――あくまでソフトタッチ。いいわね? しばらくはなんでもソフトタッチよ。触れるだけの優しいキス―― バズーカよろしく口唇を突き出していたアキラは、ヒカルに触れるギリギリ数ミリ前で押し留まった。 ソフト、ソフト、と呪文のように頭の中で唱えてから、意識して力を抜く。そうして、目を閉じたまま不安げにアキラを待っているヒカルの震える口唇に、そっと口付けをするというよりは皮膚を優しく押し当てた。 数週間ぶりのキスだった。 無意識に力を込めそうになるのを、アキラの中の理性総動員でぐっと堪える。お互いに少し乾いた粘膜の薄い皮膚が、実に浅くくっついているだけという状態はやはりというか物足りなさを感じた。 しかし、久しぶりのキスに緊張していたのだろう、ヒカルの若干強張っていた肩がふいにすとんと下がった。その途端、まるでふわふわのホイップに口付けているようにヒカルの口唇が柔らかくなったのである。 アキラはあまりの柔らかさに逆に戸惑った。ふにゃ、と頼りない音を立ててこのまま溶けていってしまいそうだ。 柔らかさと共に、小さな火が点ったような確かな熱が伝わって来る。 薄い皮膚を隔てて分け合う微かな熱。そのささやかな暖かさがとても心地よい。 口唇が、こんなに暖かで柔らかいものだったなんて! ――アキラは未知の感触にうっとりと酔いしれた。 微かに瞼を開いてみると、ヒカルはじっと目を閉じてアキラと口唇を合わせていた。 すっかり辺りは暗くなり、ヒカルの顔も闇が落ちてどんな色をしているのか見えなかったけれど、ヒカルもまたアキラとのキスに喜びを感じているといいなと素直に思う。 至近距離で震える睫毛がとてもいじらしい。愛しくてたまらない。でも、そろそろ息が苦しくなってきた…… 名残惜しくアキラは口唇を離すと、ヒカルもまた息苦しかったのだろう、はあ、と熱っぽい吐息が薄く開いた口唇から漏れる。 二人は見つめ合い、はにかみ合った。 闇の中でも、ヒカルがどこか恥ずかしそうに、でも嬉しそうに口元を緩めているのが分かる。 アキラは「優しいキス」が成功し、そしてかなり有効であったことを身を持って理解したのだった。 |
すいませんこの回ろくに見直しも出来ていません……
こっ恥ずかしくて。