恋をしようよ






 帰宅したアキラは真っ先にパソコンの電源を入れた。
 先ほどの幸せいっぱいな陶酔の表情とは裏腹に、余裕のない血走った目で。
『……俺、帰りたくない』
 大きな瞳を揺らしてアキラを見上げるヒカルの心細げな表情を思い出す。
 そんなヒカルの肩を抱き寄せるどころか、自分は……自分は……
『前みたいに、キミに辛い思いをさせたくない。ボクは本当にキミのことを大切に思ってるんだ。だから……』
 ヒカルの健気な誘いを紳士ぶって断わってしまった――何故なら、あの続きをどうしたら良いのか分からなかったから。
 ――キスの次の段階までは聞いていない……!
 まさかあんなに上手くいってしまうなんて自分でも思っていなかったアキラは、何とか頭の中のパニック状態だけは悟られまいと涼しい顔を装って、物足りなさそうにしているヒカルを帰してしまったのだ。
 ひょっとしたらあそこで帰してしまったのは失敗だったのかもしれないが、この余裕のない状態でもしその先に雪崩れ込んだとしても、前回の二の舞で終わってしまった気がする。
 メールソフトを立ち上げて、アキラは手早くメールを打った。


『オーちゃん、キラです。
 彼がキスを許してくれました。おまけに、その先もどうやら期待してくれたみたいなのですが、ボクはどうしたらよいか分からずに彼を帰してしまいました。
 キスの続きを教えてください。一刻も早く。よろしくお願いします』


 早く返事が来ますようにと今回も祈りを捧げ、その後は何度もメールチェックを行った。
 しかし真夜中になっても、オーちゃんからの返事は来なかった。





 やきもきとメールの返事を待ち続けて二時間、その間に食事もとらずにずっとパソコンの傍から離れなかったアキラもだんだん待機状態が耐えられなくなってきて、洗い物をしてはパソコンの前に戻ってきたり、風呂を沸かしてはまたパソコンを覗いたりと発情期の獣のようにうろつくようになった。
 あまりものを適当に口にして、ちらちら目を向けるパソコンは相変わらず沈黙を保ち、仕方なくアキラはパソコンをつけっぱなしにしたまま風呂に入った。
 湯舟の中で、夕方のヒカルとのやりとりを思い出し、しっとり濡れたため息をつく。
 オレンジ、赤、紫と色を変えていったヒカルの肌。初めての晩はヒカルがアキラに触れられることを本当に嫌がっているのがよく分かったのに、今日はヒカル自ら手を握ってきた。
 なんて目をしていたんだろう……あんなにうっとりと、まるで強請るような目をして。
 ……そんな目をしたヒカルを帰してしまったのだ……
「……」
 やはりアドバイスなどに頼らず、あのまま家に連れてくるべきだっただろうか? 手順は分かっているのだから、今更アドバイスなんてあってもなくても……
『男同士のセックスって大変なのよ』
 アキラはふとオーちゃんとのチャットでの会話を思い出した。
 無機質な文字から伝わったオーちゃんの真剣な言葉。オーちゃんはオカマなのだからきっと何度か男性を受け入れているのだろう。文字からも凄みを感じた。
 アキラは眉間に皺を寄せたままう〜んと唸り、そうして何を思ったのか、恐々自分の尻に手を伸ばしてみた。
 人さし指の関節を少し曲げて。軽〜く、のつもりで指をそっと潜らせてみて……
「いっ!!」
 ばちゃんと湯が跳ねる。
 思いがけない痛みに湯船の中で派手に身を竦ませてしまったのだ。
 軽くやったつもりだったのに、案外加減が難しかったようだ。自分の尻だからと油断していたのが敗因だろうか。
 とろみのない湯の中だったのも悪かったのかもしれないが、それにしてもこんな些細な指先一本でこうまで激痛が走ろうとは。
 アキラは自己嫌悪した。――ダメだ、やっぱりこのままではまたヒカルに辛い思いをさせて終わってしまう。
 早くオーちゃんに話を聞いてもらいたい……切々と願いながらアキラは火照った身体を湯船から引き揚げた。

 しかし風呂上りにパソコンをチェックしてもメールは着ておらず、それからしばらく待ちつづけたが、日付が変わっても返信は届かなかった。
 明日の仕事を思うとそろそろ眠らなければならない。アキラは渋々パソコンを落とした。直前にもう一度だけメールチェックをし、落胆して。
 布団に包まってもそうそう寝付けるものではなかったが、無理に目を閉じて羊を数える。
 羊が一匹、羊が二匹、三匹……四人……進藤が五人……ああダメだ、眠れない……
 若い身体を持て余したアキラはまんじりともしない夜を過ごした。




 ***




 翌日の仕事は午前と午後に指導碁が一件ずつで、ヒカルと逢うことはなかった。
 どんな反応をして良いか分からなかったアキラは顔を合わせずに済んだことにほっとしつつ、やはり淋しさも感じていた。
 早くオーちゃんと連絡を取って、あの続きを果たしたい……タイミングを完全に見失ってヒカルが愛想をつかしたりしませんように……
 その日の帰宅後のメールチェックでも、オーちゃんからの返信はなかった。一体何をやっているのだと自己中心的な憤りそのままにアキラは催促のメールを送る。
 オーちゃんだって一日中パソコンに張り付いているわけではないだろうし、おまけに恐らく日常的な仕事もしているだろうから、そうしょっちゅうボランティアの相談事につきっきりでいるわけにもいかないだろう。
 そういえば自分はオーちゃんのことを何も知らないな……とアキラはパソコンを睨みながら考えた。
 オカマということしか情報がない。年齢も、住んでいる場所も、職業も何も。
 もっともネット越しのつきあいなのだからそれでよいのかもしれない。相手を知りすぎれば、相談もしにくくなるだろう……見ず知らずの相手だからこそこんなに突っ込んだ相談ができたのだ、とアキラは思い知る。
 その見ず知らずの相手を、こんなに頼り切ってしまっている。彼……いや、彼女からのアドバイスがなければ好きな人への想いも果たせないだなんて何と情けない話だろう。
 アキラが肩を落とした時、ふいにパソコンがメール着信を知らせる音を鳴らした。弾かれたように顔を上げたアキラは、新着メールの差出人がオーちゃんであるのを確認して慌ててマウスを走らせる。


『ハロー★ オカマのオーちゃんよ。
 キラちゃんお返事遅くなってごめんなさいね。ちょっとお仕事で名古屋に行ってたのよ。さっき帰ってきたとこ。
 早速だけど、随分切羽つまってるわねえ〜。
 今なら少し時間があるから、もし見てたらこの前のチャットに来て頂戴。
 明日はまたちょっとバタバタしちゃってパソコン開けないと思うの。
 一時間くらい待ってキラちゃんが来なかったら、今日は諦めるわ』


 オーちゃんからの返信に願ってもない!と目を輝かせたアキラは、早速前回オーちゃんと言葉を交わしたチャット画面に飛んだ。
 オーちゃんはすでに入室していて、アキラを待っている。
 躊躇することなくアキラも入室した。


 キラ>こんばんは。お返事ありがとうございました。
 キラ>すいません、何度もメールして

 オーちゃん>あらキラちゃんいらっしゃい!メール見てくれたのね〜よかったわ。
 オーちゃん>こっちこそごめんなさいね。昨日まで数日留守にしてたのよ。泊まりの仕事だったもんだからメールチェックできなくて。

 キラ>いいえ、ご連絡いただけてありがたいです。それで……本題なんですが……


 逸る心のままにオーちゃんを促す。
 もし有益なアドバイスがもらえたら、今すぐヒカルを呼び出してしまいたいくらいに気持ちが焦っているのだ。もちろんそんなことしてはいけないと分かっているけれど。
 そんなアキラの苛立ちを読み取っているのか、オーちゃんは実にのんびりした調子で返事を寄越してきた。


 オーちゃん>キラちゃん、また焦ってるわね。ダメよ、落ち着いて。
 オーちゃん>大丈夫、彼は逃げたりしないわ。


 アキラはモニタを前に顔を赤らめる。


 キラ>すいません、つい気が急いて……

 オーちゃん>彼から素敵な反応をもらえたんですものね、仕方ないわよ。
 オーちゃん>でも焦ってまた前みたいになったら今までの努力がムダになっちゃうわ。
 オーちゃん>落ち着いて、ゆっくり優しく彼をリードしてあげるのよ。恐い思いさせないようにね。

 キラ>分かりました。で、具体的にどうしたら良いでしょう?


 アキラは息を呑んで核心を尋ねた。
 リロードを繰り返した数十秒後、表示されたオーちゃんの言葉は次のようなものだった。


 オーちゃん>セックスだって、基本は今までと同じよ。
 オーちゃん>触れるときはソフトタッチ。決して乱暴にしないこと。
 オーちゃん>セックスは技でも力でもサイズでもないわ、愛情よ。
 オーちゃん>男って基本的に痛みに弱い生き物なのよ。それに甘ったれ。優しくされるほうが嬉しいのは当たり前だわ。
 オーちゃん>そして直接的な快楽が大好き。だからゲイ同士でついフリーセックスに走っちゃう気持ちも分かるんだけどね……
 オーちゃん>でもね、愛に満たされると快楽って自然とついてくるものよ。
 オーちゃん>だから、小手先の技はいらないわ。彼のことうんと愛してあげて。セックスって思うんじゃなくて、愛し合うの。
 オーちゃん>特にキラちゃんは若いんだから、うまくしようなんて思わなくていいの。
 オーちゃん>たくさん彼に触れてあげて。優しくね。いっぱいキスして、うんと抱きしめてあげて。
 オーちゃん>彼が怯えたら最後までしなくたっていいのよ。肌を合わせるだけでも幸せって思えたらそれって素敵なことじゃない?
 オーちゃん>キラちゃんは彼のことをとっても愛してるから、本当はもうアタシのアドバイスなんていらないんだけどね。
 オーちゃん>力いっぱい彼のことを愛してあげればそれでいいのよ。


 アキラは夢見心地でオーちゃんの言葉を追った。
 ちょっとした暗示のようだった。
 初めての夜だってアキラはヒカルを力いっぱい愛したつもりだった。……しかし結果として、自己満足に欲望を満たしただけで終わってしまった。
 それはセックスと下半身が直結してしまっていたからだ。欲を吐き出すことがセックスなのだという青い考えが、ヒカルを傷つけてしまった。
 セックスは技でも力でもサイズでもない――愛情。
 触れ合うだけでも、幸せ。それはこの前手を繋いだ時に心から実感した。
 あんなふうに優しい気持ちでヒカルを愛してあげられたら、きっと恐がらずに身体を開いてくれる……アキラはモニタに向かって大きく頷いた。


 キラ>オーちゃんの言葉の意味、ボク、分かったような気がします。
 キラ>やってみます!彼をうんと愛します!


 力強くキーボードを叩いた。
 そうだ、オーちゃんの教えはすでに胸に刻まれている。理性を手放しかけた時でさえ、踏みとどまって優しいキスを交わすことができたではないか。
 今更小手先の技やとってつけたようなマニュアルなど必要ないのだ。優しくヒカルを愛してあげよう!
 しかしひとつ心配なことと言えば……


 キラ>あの、ひとつだけいいでしょうか?
 キラ>実は、前の時に彼が物凄く痛がって……何か痛くないコツなんか……

 オーちゃん>ちゃんと慣らしてあげた?

 キラ>う〜ん……

 オーちゃん>アソコはとってもデリケートなんだから、もう充分ってくらいにほぐしてあげないとダメよ〜。
 オーちゃん>アタシもキツかったのよ〜。ダーリンが優しかったからなんとかなったけど。
 オーちゃん>初めての時は指一本でもホントに痛いんだから。
 オーちゃん>もう痛くて泣いちゃったわ。ダーリンのがまた太くて立派だったのよ〜。
 オーちゃん>逞しくって男らしくってねえ……


 アキラは昨夜風呂場で試みた冒険を思い出し、顔を顰めた。
 確かに痛かった……もう二度とごめんだと思ってしまうような行為を、しかしアキラはヒカルに受け入れてもらおうと思っているのだ。ますます不安が募る。


 オーちゃん>だから本当は最初から本番は勧めないんだけどねえ。

 キラ>そ、そうなんですか……

 オーちゃん>できるならゼリーとかもあると楽なんだけど……キラちゃん高校生よね?
 オーちゃん>アダルトグッズを買うのも難しいでしょうから……
 オーちゃん>サラダ油ってのも色気無いわね。ベビーオイルくらいなら用意できるかしら?
 オーちゃん>なるべく身体に優しいぬるっとしたもので代用してみて。
 オーちゃん>それでも痛みは絶対にあるんだから、ゆっくりよ。時間かけて大切にしてあげて。痛がったら絶対無理させないこと!
 オーちゃん>そうそう、ちゃんとコンドームも用意してあげるのよ。
 オーちゃん>中出しなんてしたらお腹壊しちゃうし、病気の感染を防ぐためにも大切なことよ。
 オーちゃん>それから、爪はきちんと短く切ってね!引っ掻いたりしちゃダメよ。
 オーちゃん>アタシ、この前派手にネコ娘に引っ掻かれちゃって。アタシの綺麗な顔が台無しよ〜。だから女は嫌いなのよ。


 アキラはオーちゃんのコメントを黙々とメモした。
 オイルとコンドーム。そのどちらも初夜では用意していなかった。ヒカルの身体の負担を和らげるためには必須アイテムだと二重丸をつける。


 オーちゃん>でも、くれぐれも無理強いしちゃダメよ。彼が恐がったらやめてあげるのも愛情なんですからね。

 キラ>分かりました。肝に銘じます。

 オーちゃん>頑張って! 素敵な夜が過ごせるよう祈ってるわ!

 キラ>ありがとうございます、頑張ります!


 チャットを終えたアキラはメモを読み返し、拳を握る。
 やるぞ。今度こそ幸せな夜にするのだ。もう二度と嫌われたりしないように、優しく優しく愛してあげよう。
 その夜、アキラは何度も何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。あくまで優しく、紳士的に……いつしか眠りに落ちていたアキラは、夢の中で優しくヒカルを抱きしめていた。






アキラさんさりげなく暴挙に出てます。
人の痛みが分かる良い男になるがいい。