LOVE & GAME






「大丈夫か? もっと体重かけてもいいよ」
「うん、大丈夫……ありがとう」
 ヒカルの肩を借りながらタクシーを降り、その温かみを噛み締めつつアキラは我家を見上げた。
 もう松葉杖は必要ないというアキラに、ヒカルが家まで杖の代わりを買って出てくれた。右肩にアキラ、左手に入院の荷物まで持って、明子も大助かりだとすっかり気を許している。
 ただの怪我なら、ヒカルがここまで親切にアキラの世話をしてくれることはなかったかもしれない。
 記憶喪失万歳! アキラは空に向かって叫びたい欲求を押さえながら、ヒカルに支えられて我家の門を潜った。
「本当に助かったわ、進藤くん。お茶でも飲んで行ってくださいね。今用意してきますから」
「あ、お構いなく……」
 アキラの部屋で荷物を下ろしたヒカルは、きょろきょろと部屋の中を見渡していた。そんなヒカルをアキラは感慨深げに見つめる。
 ヒカルが自宅にやってきたのは北斗杯の合宿以来。おまけにあの時は特に自分の部屋に招いたりもしなかった。
 こんな形で部屋に呼ぶとは不本意だったが、家に招待するきっかけなんて滅多に作れるものではない。これはチャンスだと、アキラはヒカルを見つめながら作戦を考える。
 ふと、ヒカルと目が合った。その目が不安げに歪んだのを見て、あれ? とアキラも釣られたように眉を垂らす。
 ヒカルは心配そうな表情でアキラに尋ねた。
「どう……? なんか、思い出しそう……?」
 アキラははっとした。
 そうだ、今の自分は記憶喪失なのだ。自宅に帰ってきたのだから、記憶を取り戻すきっかけにならないかとヒカルは尋ねているのだろう。
 慌てて目線を四方八方に巡らせたアキラは、わざとらしく首を横に振ってみせた。
「い、いや、まだ……。」
 ヒカルの肩ががっくりと落ちる。そうか、と呟いたヒカルは、しかし部屋の隅に置かれた碁盤を引っ張り出して、アキラの前にどんと置いた。
「塔矢、碁は? お前、碁は覚えてる?」
 その必死な目が痛々しく、申し訳ないと思いながらもアキラは思案する。
 ――ここで碁まで忘れてしまった設定にすると、仕事にも支障が出る。後々面倒になるかもしれないから、碁は打てるほうが都合がいいだろう……
 決断したアキラは、一芝居を打つべく碁盤をじっと見下ろした。そうして不自由ながらも床に膝をつき、右足は伸ばしたまま座り込むと、そっと碁盤に触れてみる。
「うん……なんだか懐かしい感じがする」
「ほ、ホント!? ちょ、ちょっと待って……!」
 ヒカルは碁笥をいそいそと持って来て、蓋を開いてアキラに差し出した。アキラは黒石をひとつ掴み、指に挟んでぱちりと打って見せた。
 ヒカルの表情が輝いた。
「お前、碁は覚えてんだな!?」
「ああ……そうみたいだ」
「ルールは? 定石覚えてるか? えっと……めんどくさい、打とうぜ! 打ってみりゃ分かる!」
 ヒカルはそのまま黒石の碁笥をアキラの傍らに置き、対面に回って白石を手に取った。そうして今しがたアキラが置いた黒石に対し、二手目となる白石を打つ。
 喜々とした様子に、思わずアキラの表情も綻んだ。
 まさか自分の部屋でヒカルと対局できるなんて……碁会所のように余計なギャラリーもなく、二人きりで……
 広がる夢も束の間、「入りますよ」と柔らかい声が聞こえ、障子がすっと開いた。盆に紅茶とケーキを乗せた明子が現れ、碁を打っていた二人を見てあらと目を大きくする。
「おばさん、塔矢、碁は覚えてるって!」
 喜びを顔一杯にして報告するヒカルに、明子の表情も晴れやかになった。そんな二人の喜びようを見ていると、アキラの胸もちくちくと痛む。
 本気で自分のことを心配してくれている人たちに、嘘をつき続けている。罪悪感がないはずがない。たった一言、「記憶が戻った」と言えば、この二人はもっと大喜びするに違いないのだ。
 ――でも!
 記憶を失った、なんてことがなければ、ヒカルがこんなに心配してくれることもない。着替えだって手伝ってくれるはずがない! やはりこんなチャンスを逃すわけにはいかない――!
 アキラは心の中でヒカルと母に深く謝罪を繰り返しながらも、久しぶりのヒカルとの対局を楽しんだ。
 ヒカルも、対局の内容に満足してくれたようだった。碁盤を見て頷きながら、実に嬉しそうな笑顔をアキラに向けてくる。
「お前、碁は本当に覚えてるんだな。良かった……」
「ああ、とても楽しかったよ」
「……俺のこと……思い出さない……?」
 笑顔を若干曇らせながら、躊躇いがちにヒカルが囁いた。
 アキラは言葉に詰まる。
 それを悪い意味に受け取ったらしいヒカルは、落胆したように小さなため息をついた。アキラは慌てて両手を振る。
「で、でも! キミと一緒にいるのはとても落ち着くんだ……! その、良かったらキミのことをいろいろ聞かせて欲しい」
「塔矢……」
「それから、……ボクのことも、いろいろ教えてくれないか?」
 ヒカルの大きな瞳がじっとアキラを見る。その澄み切った色にアキラの良心がぎくぎくと嫌な音を立てたが、背中に汗を掻きつつもアキラは耐えた。
 やがて、ヒカルは何かを決意したように大きく頷き、
「分かった」
 と一言きっぱりアキラに告げたのだった。




 ***




 翌朝、アキラが家を出ようとする少し前にヒカルが家を尋ねてきた。
『俺、明日棋院行く時付き添うよ。お前、まだ足痛いだろうし……』
 確かに昨日ヒカルはそう言っていたが、本当に来てくれるなんて――アキラはこれまで何度も碁会所で待ち合わせしてはヒカルの遅刻で大喧嘩をしたことを思い起こし、感動で胸をいっぱいにした。
 朝が弱いと聞いていたが、アキラのために早起きをして迎えに来てくれた。これはアキラのことを大切に想ってくれているからこそではないだろうか?
 ――いや、まだだ。まだ決定的な証拠にはならない。はっきり進藤の口から聞くまでは……!
 にこやかな表情の裏でアキラが考えていることなど知る由もなく、ヒカルは少し照れくさそうに「オハヨ」と挨拶をした。
「おはよう。来てくれてありがとう……嬉しいよ」
「う、うん、お前、棋院の場所とかちゃんと分かるか心配だったからさ……」
 軽く口唇を尖らせているのは恐らく照れ隠しだろう。
 こんな可愛らしい仕草を間近で見られるだなんて……アキラはゆるゆると力が抜けそうになる頬をヒカルに見つからないよう軽く叩き、鉄壁のスマイルを造ってみせた。


 ゆっくり歩けばそれほど痛みはないとはいえ、やはり右足は不自由だった。ひょこひょこと不自然に引きずってしまうのを、隣でヒカルが甲斐甲斐しく支えてくれる。
 母はタクシーで行ったほうが、と心配そうに指先を顎に当てて見送ってくれたが、身体が鈍りますからと振り切って正解だった。
 こんなに密着して移動することが許されるのだ、チャンスを棒に振るわけにいくまい。
 しかしアキラを支えながら歩くヒカルにはそれなりの負担がかかっていたようで、二人で地下鉄に乗り込んだ後、空いている座席に腰をおろしたヒカルはフウとため息をついた。
 その疲労を感じる様子にアキラも慌てて頭を下げる。
「ごめん、疲れただろう?」
「え? う、ううん、大丈夫。お前のほうが大変だから……」
 ヒカルの労わりの言葉が身に沁みる。同時にまたも罪悪感がむずむず膨らみかけるが、アキラはそれを欲望で押し込んだ。
 地下鉄に二人並んで座る。向かう場所が棋院でなければ、まるでデートのようだ……アキラは夢見がちに目を細め、隣のヒカルをちらりと伺った。
 するとヒカルも横目でアキラに視線を向けたところで、思いがけなく目が合った二人は顔を赤く染める。ぎこちなく顔を逸らし、気まずい雰囲気が流れた。
 アキラは明らかに自分を意識しているヒカルに、少しずつ探りを入れてみることにした。
「その……、キミは、ボクと同じ歳だったよね。中学も、同じだった?」
 アキラの問いかけに少し緊張の解れた顔で、ヒカルは首を横に振った。
「いや、俺は葉瀬中ってとこで、お前は海王中。海王は頭良くないと無理なんだよ、名門だもん」
「へえ……じゃあボクは頭は悪くなかったのかな」
「お前超頭いいよ。最近は韓国語と北京語だって習ってたんだぜ。北斗杯でも中国の人とかとなんか訳分かんねえ言葉で喋っててさ……あ、北斗杯ってのは……」
 何か話している方が気が楽なのか、ヒカルは途端に饒舌になった。
 日本の代表として参加したという北斗杯。その国際棋戦の意義の解釈の仕方は若干ずれているような気もしたが、ヒカルなりに丁寧に説明してくれようとする。
 同じ歳で関西にいる社のこと、ヒカルと社は予選を通過したけれど、アキラはシードで代表選手にすでに決定していたこと。
 北斗杯では、アキラだけが二勝を収めたこと。
 時々懐かしそうに、どこか淋しそうに目を伏せながら、ヒカルは一生懸命に話してくれた。
 そんなヒカルを見ていると、アキラもだんだん胸が苦しくなってくる。
 ――北斗杯で、ヒカルが何かを抱えていたのは間違いがなかった。
 未だに謎は解けぬままだけれど、あの大会でヒカルは泣くほどの辛い経験を経て、痛みを越えて今も頑張っている。それだけは、ずっと傍でヒカルを見ていたアキラには誰よりも理解できた。
 進藤ヒカルという人間は実に不思議な存在だった。
 ある日突然アキラの前に現れて、心を乱して風のように通り過ぎようとした、その指先を掴もうとアキラはいつも必死だった。
 秘密だらけの二人の軌跡……
 アキラはごくりと生唾を飲み込む。
「……ボクとキミは、仲が良かったのかな?」
「え……、よ、良かったというか……、け、喧嘩ばっかだったけど……」
 口篭もるヒカルに僅かに微笑み、アキラは内心の動揺を悟られないように穏やかな声色で尋ねた。
「ボクらは、何処で知り合ったの?」
 ヒカルが小さく息を呑んだのが、隣のアキラにも充分伝わってきた。
「えーと……」
 ヒカルの歯切れが極端に悪くなる。
「……ご、碁会所で打ったんだ。塔矢先生……お前の親父さんだけどさ、碁会所持ってんだよ。そこで」
「へえ。どっちが勝ったの?」
「……、……俺」
「……そうなんだ。キミ、強いんだね」
「……、いや、その……」
 ヒカルは困ったように口を噤んでしまう。
 こんな聞き方は卑怯だ、とアキラの中で警鐘が鳴り響いている。
 このやり方で聞き出していけば、ひょっとしたら……ヒカルが「いつか話す」と言っていたことさえも口を開かせることができるかもしれない。知りたくてやまなかった真実を、解き明かすことができるかも――
(……でも!)
 やはりダメだ、とアキラはヒカルから顔を背けるようにして口唇を噛んだ。
 こんなやり方で聞き出しても、嬉しくもなんともない。
 今知りたいのはヒカルの本当の気持ち――それだけでいい。余計なことは聞いてはいけない。ただでさえ、ヒカルに嘘をつき続けているというのに……
 アキラはきゅっと口元を引き締めると、顔を上げて顎を引いた。そしてヒカルに笑顔を向ける。
「キミとボクは、よく打つの?」
「え? あ、う、うん。最近は、時間があったらしょっちゅう……」
「そうか。……今日は、棋院に行った後の予定は? 時間があるのなら、ボクにつきあってくれないかな。その碁会所に行ってみたいんだ」
 ヒカルがほっと顔を綻ばせた。
「いいよ。つきあう。どうせならそのまま打とうぜ」
「ああ、喜んで」
 それからの時間は他愛もない話をして過ごした。
 いつもの快活そうな表情を取り戻したヒカルに、アキラもほっと胸を撫で下ろす。
 ヒカルとの会話の中で、アキラは自分の記憶喪失という症状の状態を少しずつ設定していった。
 忘れてしまったのは、身の回りの人のことと、自分のこと。日常生活は問題がなく、碁も打てる。
 今分かっているのは、両親と、芦原という兄弟子のこと。そして、ヒカルのこと。
 随分と都合の良い内容だが、ヒカルは信じて疑っていない。それどころか、何か分からなかったら聞けよ、困ったことがあったら俺が相談に乗るから、と親身になってアキラを励ましてくれる。
 その気遣いが嬉しく、少しだけ辛かった。
 ヒカルを騙している。ヒカルの気持ちが知りたいと言う自分勝手な理由のためだけに。
 その罪悪感も、地下鉄を降りるために肩を貸し、アキラの足元を気遣うヒカルを見ていると情けなくも影を潜めてしまう。
 もう少し、もう少しだけ。ささやかな幸せに浸らせてくれてもバチは当たらないだろうか……






アキラさんにとって都合の良い設定は
私にとっての都合の良い設定でもあります……