LOVE & GAME






 予定よりも三十分ほど遅れて棋院に到着し、二人はロビーで息をついた。
 これから対局だというヒカルは、すでに時間がギリギリになっているのに事務局の前までアキラに付き添ってくれた。
「大丈夫だよ、ちょっと遅れてもぱぱっと勝つから」
 頼もしく歯を見せるヒカルにアキラも微笑を浮かべる。
「じゃあ、後でな!」
 手を振って廊下を駆け出すヒカルを見送り、アキラはふいに真顔になった。
 簡単に事情は説明してあるとは言え、記憶喪失だなんて棋院側も半信半疑だろう。
 これはうまくやらなければ……アキラは軽く深呼吸をし、いざ、と事務局のドアノブに手をかけた。




「でも良かったな、対局出られることになって」
 朝、棋院に向かった時と同じく地下鉄に揺られ、アキラの隣でヒカルが笑う。アキラもああ、と頷いた。
 棋院側としても、記憶を失ってしまったというアキラをこれまでと同様に棋士として扱うべきか苦慮したらしい。すなわち、記憶のない棋士の戦績を公式に採用しても良いものかという問題だった。
 しかし記憶がないとはいえアキラ本人が打つことには代わりがないし、本人が棋士活動をしたいとはっきり意思表示をしている。碁を打つことには支障がないようなので、休職扱いとせずに手合いに出ることを許された。
 その代わり、イベントや指導碁といった体外的な活動はしばらく休み、落ち着いてから再開ということになった。落ち着いてから、という表現は、アキラの記憶が戻るかどうか分からないところから来ているのだろう。
 何とか最低限の現状維持を死守できて、アキラは肩の力を抜く。――とうとう棋院まで巻き込んでしまった。バレたらただ事ではないだろう。
「なあ、棋院見てなんか思い出さなかった……?」
 ヒカルは無垢な顔で健気にアキラを心配し続ける。
 この顔を見るたび、様々な感情が渦巻いてなんともいえない気持ちになってしまう。嬉しくて苦しい。これは早めに作戦を決行せねば、長引けばそれだけ自分も周りも辛くなってしまう。
 アキラは申し訳なさそうに微笑んで、黙って首を横に振る。ヒカルの顔が曇った。
 アキラとヒカルは朝の約束通り、碁会所へ向かっていた。恐らく猛スピードで対局を終わらせてきたのだろう、ヒカルはアキラが考えていたよりもずっと早く待ち合わせ場所にやってきた。
 心底アキラを心配しているヒカルをこれ以上哀しませたくない。アキラは、決戦の場に碁会所を選んだのだった。




 ヒカルに伴われて訪れた碁会所では、すでにアキラ記憶喪失の情報が行き渡っていたのだろう、受付の市河も常連客たちも酷く神妙な顔つきでアキラを迎えてくれた。
 市河は曇った顔でカウンターから出てきて、心配そうにアキラを見上げる。
「アキラくん……記憶がなくなったって、本当?」
 アキラは答える代わりに戸惑った表情をしてみせた。記憶がないのだから、目の前の女性が誰かも分からないはずなのだ。うっかりボロを出さないように気をつけなければ。
 代わりに隣のヒカルが市河に説明し始めた。
「塔矢、みんな忘れちゃったんだ……先生やおばさんのことも、たぶん、みんなのことも……」
「そんな……」
 市河の目が潤む。見られまいとしてかアキラから顔を逸らし、そっと瞼に手を添えた市河の肩に、労わるように広瀬が触れた。
 周囲で見守る常連客の連中も、皆一様に暗い面持ちになった。空気が一瞬で濁る――あまりにどんよりとした雰囲気にさすがのアキラも怯みそうになったが、ヒカルが彼らを勇気付けるような明るい声でそれを打開した。
「で、でも、塔矢、碁は覚えてんだぜ! だから、対局とかも今まで通り出られるようになったんだ。脳とかに異常はないって言ってたから、何かの弾みで思い出す可能性は充分あるって!」
 ヒカルの言葉に僅かに空気が和らぐ。それは良かった、とか早く思い出すといいですね、なんて声をかけられながら、ヒカルに案内されるがままにアキラはいつもの定位置に腰を下ろした。
 まだ少し目の赤い市河が無理をして笑顔を作り、コーヒーを傍らに運んでくれる。向かいにはヒカル。全くいつも通りの風景だった……アキラが記憶を失っている、という設定以外は。
 アキラはどうやってヒカルにカマをかけるか、物珍しそうに碁会所を眺めるフリをしながら必死で考えていた。
 記憶を失っているからこそ、「ボクのことをどう思っている?」なんてストレートに聞いても許されるかもしれない。いや、それはあまりに強引すぎるだろうか?
 「ボクがどんな人間だったのか教えて欲しい」→「碁ばかりで面白味のない男なんだな、きっと誰からも好かれていなかったんだろう」と引っ張って、そんなことないと否定してもらうのを待ってみるか……これもちょっと唐突かもしれない。おまけに否定されなかった時の精神的ダメージを思うと冒険しにくい。
 どうしたものかと考え込むアキラの向かい、ヒカルはおもむろに碁笥に手を伸ばした。
 打つのか、と顔を上げたアキラの前で、ヒカルは一人で碁石を並べ始める。
 一体何を、と碁盤を瞠っていたアキラだったが、やがてヒカルが何の棋譜を並べているのかに気付き、はっと目を見開いてしまった。
 これは、昨年の。……名人戦の一次予選で二年四ヶ月ぶりにヒカルと対局した、あの時の嵐のような感動が胸に甦ってくる……
 並べ終えたヒカルは、慎重に顔を上げた。アキラの様子を伺い、確かに顔色が変わっていることを察したのだろう、ヒカルもまた目を見開いてぐっと身を乗り出してきた。
「塔矢、お前……この対局、覚えてるのか……?」
 アキラは答えられなかった。うまくごまかす術が見つからなかった――胸が締め付けられて、素知らぬフリでやり過ごす事ができなかった。
 アキラの記憶を取り戻すために、ヒカルが選んでくれたのがこの一局だということが、アキラの心をどうしようもなく揺さぶる。
『いつか、お前には話すかもしれない』
 ヒカルと二人で作った大切な秘密。
 あの日、アキラとヒカルは二人だけしか知らない夢のような時間を共有したのだ。
 それなのに、今の自分はどうだろう。
 全てを忘れたフリをして、ヒカルを試している。あんなに真摯な気持ちで臨んだ対局から産まれた二人だけの時間を冒涜しているも同じではないか――
 アキラの動揺は完全に表情として表れ、ヒカルもそれを確信したらしい。
「塔矢、……覚えてるんだな? お前、この一局……覚えててくれた……?」
 最早知らないとごまかすことは不可能だった。
 アキラは躊躇いながらも、微かに表情を歪ませて軽く頷いてみせる。
「見た……ことがあるような、気がする」
 歯切れ悪く答えると、ヒカルの表情が少し輝きかけて――しかしやや垂らした眉尻に、一度は喜びに開こうとした口唇をきゅっと閉じてしまったために、その顔はどこか淋しげなものに変わってしまった。
 思いがけない表情の変化にアキラが瞬きをする前で、ヒカルは少し目を伏せながらぽつり、と言葉を漏らした。
「この碁……、俺と、お前の、始まりの碁なんだ……」
 注意して耳を傾けなければ聞き落としてしまいそうな声で、ヒカルがぽつぽつと口を開く。
 アキラは高鳴る心臓の音さえ耳障りに感じながら、ヒカルの声を逃すまいと耳を澄まし続けた。
「凄え……大事な一局だったんだ。俺とお前が、初めて打った大事な一局……」
(えっ……?)
 思わず聞き返しかけた言葉をぐっと飲み込む。
(今……なんて?)
 ヒカルは今、「初めて打った」と言った。そんなはずはない。この碁会所で二度、ヒカルはアキラを打ちのめしたではないか。
 ヒカルだって今日の朝、棋院に向かう途中の地下鉄で知り合ったきっかけを「碁会所で打った」と説明したのだ。まさか忘れているはずもない。あの対局がなければ、アキラがヒカルを追うことは恐らくなかったのだから。
 呆然とヒカルを見つめているアキラから顔を伏せたまま、ヒカルは碁盤をじっと見下ろして――ふいにぎゅっと目をきつく瞑った。
 次の瞬間にはガタンと椅子が大きな音を立てて、ヒカルは立ち上がっていた。突然のヒカルの行動にアキラは咄嗟に反応できず、すでに走り出しているヒカルを止めることができなかった。
「進藤!」
 声をかけると、碁会所を飛び出そうとしていたヒカルの身体が一瞬留まる。が、アキラを振り返ることなく、開いた自動ドアの向こうへヒカルの姿は消えてしまった。






本気でこんな状態になったらやっぱり休業かなあ……
そりゃ棋院側も困るでしょうよ。
本当ならいくらプロでも未成年のアキラさんなんだから
保護者がついていろいろ話し合いしなきゃダメだと思うんですが
ぐだぐだやってると終わらないのでさくっと行きました……