LOVE & GAME






 驚いたのはアキラだった。
 碁盤を片付けることもせず、不自由な右足を引きずりながら急いでカウンターで「荷物を!」と叫ぶ。アキラに同じく驚いた顔をしている市河が、少し困った顔をしてアキラとヒカル二人分の荷物を両手にぶら下げてみせた。
「進藤くん、鞄置いていっちゃった……」
「届けますから貸して!」
「でも、アキラくん、足が」
「大丈夫です! 早く!」
 剣幕に押されて荷物を差し出した市河の手からそれを奪い取り、ヒカルのリュックを勢いよく背中に背負って自分の鞄を脇に抱えると、ひょこひょこと右足を庇いながらアキラは碁会所を出た。
 運良くエレベーターが同じ階に停まっていて、乗り込んだアキラは下まで降りる間に苛々と奥歯を噛み合わせる。
 ヒカルが出て行ってから数分は経った。彼は足も遅くない……捻挫した足で追いつけるかどうか、そもそもヒカルが何処に飛び出していったのかも分からない。
 一階に下りたエレベーターから可能な限りの最高速度で駆け出したアキラは、碁会所のあるビルの外できょろきょろと左右を確認した。すでにヒカルの影も見えなくなっている。どちらに向かったのか見当もつかない。
 舌打ちしながら、仕方がなくカンを頼りに右へ向かう。

 何故あんなに思いつめた表情を見せたのだろう。
 何故突然飛び出してしまったのだろう。
 何故、……「初めての対局」だなんて……

 アキラは口唇を噛む。
 ヒカルは傷ついた顔をしていた。
 あの一局は二人にとって様々な思いが巡る、とても大事なひとときだったはずだ。
 それをあんな顔で思い出させてしまった。……ヒカルの中に眠る、何らかの秘密が彼を苦しめた……
 アキラが嘘さえつかなければ、ヒカルに辛い思いをさせることもなかったはずだ。
 ヒカルの気持ちを試すなんて、そんな薄汚いことを考えたりしなければ。
(進藤……)
 ごめん、と何度も何度も心の中で叫びながら、アキラは必死でヒカルの姿を探して走り回った。




 もう日も暮れようというのに、ヒカルの姿は見つからない。闇雲に探しているのだから当然とは言え、案外すぐに出逢えるのではと楽観していたアキラは途方にくれた。
 右足の痛みのせいで額には脂汗が浮いている。無理に走り回って酷使しすぎたらしい。
 おまけに荷物も重い。ヒカルのリュックには何が入っているのか随分と重みがあって、アキラの背中にずっしりと覆い被さっている。
 もう駄目だ、と一度足を止めてしまうと、これまでは動かさなければ痛みを感じなかった右足が、何もしなくても疼くように鈍痛を訴えているのが分かった。
 少し休憩しよう、とアキラは目についた公園へ痛む足を引きずっていった。

 ベンチはどこかと入口で首を回した時。
 ジャングルジムの傍でぼんやり佇んでいる見慣れた後姿をようやく見つけた。
 アキラは目を見開き、足の痛みを忘れて走り出す。街の中を走り回っても見つからないはずだ――実は案外近いところでじっとしていたらしいヒカルの元へ足を引きずりながら近づいていくと、うっかり支点にしていた左足で大きめの石を踏んでしまった。
「うわっ……」
 思わず漏れた悲鳴にヒカルが振り返る。どんな顔をしていたかは見えなかった。アキラの身体は見事にすっ転んでいたからだ。
「塔矢!」
 ヒカルの駆け寄る足音が聞こえて、顔を上げる前にぐいっと腕を掴まれた。
「大丈夫か!? 足!」
 やや乱暴に揺さぶられながらも身体を起こされ、正面に見えたヒカルの心配そうな顔にどきんと心臓が震える。
「悪い、俺、リュック……! 歩けるか? ごめん、お前足痛いのに」
 ヒカルはひょいとアキラの腕を自分の首に回して、アキラの身体を浮かさん勢いで支えた。少し離れた場所にあるベンチまで運ばれたアキラは、まるで荷物を下ろすようにどさっと腰掛けさせられて目をチカチカさせる。
 背負ったままのリュックがごつごつして背中に当たるのを気にしていると、ヒカルが腕を伸ばしてリュックを外してくれた。そのまま肩に引っ掛けた動作を見て、まさか帰ってしまうのではとアキラは不安げにヒカルを見上げたが、ヒカルはまだ少し浮かない表情をしつつも静かにアキラの隣に腰を下ろした。
 並んでベンチに座る二人を夕陽が照らす。
 アキラはこの予定外のシチュエーションに戸惑いながら、体重の支えから解放された右足がずくずくと痛むことに眉を顰めていた。
 ヒカルは項垂れたように視線を落としたまま何も言わない。
 何と声をかけるべきかアキラは迷った。
 ヒカルが飛び出した理由は分からない。でも、自ら並べたあの一局に思うところがあったということだけは分かる。
 「始まりの碁」だと言った……その言葉をヒカルに追求するのが怖い。
 何だか、聞いてはいけないことまで聞かなければならなくなりそうで。
(……キミの本当の気持ちを知りたいだけだったのに……)
 ヒカルを苦しめたかった訳ではない。アキラのことをどう思っているのか、ただそれが知りたかっただけだ。
 しかしそんなアキラの我が儘のせいで、結果的にヒカルは辛い思いをしている。
 病室に飛び込んできたときのあの血相の変わった顔……記憶を失ったと聞いてショックを受けた時の青い顔……甲斐甲斐しく身の回りの世話を手伝っている時の一生懸命な顔……そして、何かを思い出させてしまった先ほどのヒカルの傷ついた顔。
 どれもこれも、アキラがヒカルに記憶喪失だなどと嘘をつかなければさせることのなかった顔だ。
 ごめん、とアキラは口の中で呟いた。もう何度心の中で謝罪したか分からない。
 謝るようなことをしている自分が情けない――アキラは決意し、ヒカルに本当のことを告げようと顔を上げた、その時。
「……俺、酷いヤツなんだ……」
 ヒカルがぽつりと口にした。
 アキラは驚いて隣のヒカルに顔を向ける。
 ヒカルは小さな石ころが散らばった地面を睨みながら、力のない小さな声で続けた。
「お前が記憶なくしたって聞いたとき、すげえショックだったけど。でも俺、心のどこかで、お前とやり直せるかもって思ったんだ」
 やり直す、という言葉の違和感にアキラは眉を寄せる。そんなアキラの訝しげな表情に気付かず、ヒカルはまるで独り言のような呟きを止めなかった。
「お前の中の「アイツ」が消えちゃったのなら、今度こそ本当に……俺だけを見てくれるかもしれないって……最初から、俺のことだけ追っかけてきてくれるかもって……」
 アキラは息を呑む。
 「アイツ」とは、まさか。
「でも、俺の碁にははっきりアイツが生きてるのに。アイツが遺してくれたもの、独り占めしてるみたいで……俺、全然反省してない。最悪。俺、最低だ……」
 首をかくんと垂らしたまま手のひらで顔を被うヒカルの隣で、アキラは愕然と口を開ける。
 もしも本当にアキラが記憶を失っていたとしたら、ヒカルの言葉は意味不明な独り言でしかなかっただろう。
 しかしアキラは記憶を失ってなどいない。そして、ヒカルの言う「アイツ」が誰のことなのか、何となく察してしまう。
 このままではいけない、とアキラはヒカルを止めようとした。手を肩に伸ばしかけて、ふいに顔を上げてアキラを見たヒカルに目が潤んでいることに気付き、どきっと身を竦ませる。
「……俺、お前の一番になりたかったんだ」
 濡れたヒカルの目尻からは今にも雫が零れてしまいそうで、赤い太陽の光を受けてきらきらとオレンジ色に輝く瞳にアキラは魅入られた。
 目を離せない。言い出しかけていた言葉が喉に引っ掛かってしまう。
「俺と、お前と、アイツがいてやっとここまで来れたのに。俺、お前を独り占めしようとした。塔矢、俺、お前が記憶を失う前に、いっぱい嘘ついてたんだ。お前と初めて会った時、あの時打ったのは――」
「よせ!」
 アキラはヒカルの両肩をきつく掴み、自分でも驚くほどの大声を上げていた。
「いつか……いつか話すと言ってくれただろう! こんな、感情に任せて口走ることではないはずだ! 今ボクにそれを伝えたら、キミはきっと後悔する……!」
 ヒカルの目が極限まで大きくなった。
 丸い目で肩を掴んでいるアキラを凝視したヒカルは、薄く開いた口唇からぽつんと呟きを落とす。
「……、お前、なんでそんなこと……」
 アキラははっとした。
 咄嗟にヒカルの肩から離した手を口に当ててしまい、ヒカルは動揺から表れたその仕草を見逃さなかった。
「お前……記憶、戻ってる……?」
 アキラは答えられなかった。そのことが他でもない、ヒカルの問いかけを肯定していることになると分かっていながら、取り繕う言葉さえ見つからなかった。






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