ラストシーンから始めよう






 鹿威しの音が乾いた空気に響き渡る、塔矢邸にて。
「これが先週の乃木先生と進藤の一局か」
 ぱちぱちと音を立てて芦原が並べる碁石のせめぎ合いを、緒方は目を細めて覗き込んだ。
「ええ、ここで……こう。で、ここを押さえた後にこっち、ですよ。やりますねえ」
「進藤くんってこの前韓国から帰ってきたばっかりだっけ。ちょっと打ち方新しくなったね。」
「いい手ですね。守らざるを得ない」
「巧い攻め方だな。韓国で揉まれた結果かね」
 塔矢門下の棋士たちが唸る中、緒方は目を細めて碁盤を睨み、それから微かに口角を吊り上げた。
 そしておもむろに顔を上げ、隣の碁盤で岩田六段と検討をしていたアキラを振り返る。
「アキラ、どうだ?」
 ヒカルと乃木の一局を見つめていた全員がアキラを振り向いた。
 アキラは表情を変えずに顔を上げ、「何の話です?」と小首を傾げる。
「見ていないのか? これだ。乃木先生対進藤」
 緒方に顎でしゃくられ、アキラは岩田にすまなさそうな笑みを見せてから隣の碁盤へと目を向けた。
 伏せがちの目でしばし盤面を見下ろしていたアキラは、軽く肩を竦めて見せる。
「攻め方は悪くないですが、穴も多いですね」
「穴? どこに?」
 聞き返す芦原に答えず、アキラは碁石の一角を崩して素早く新たな石を並べ始める。ぱちぱちと小気味良い音が響く間、碁盤を見守っていた面々からほお、へえ、と声が漏れた。
「……これで白に逃げ場はなくなります」
「……確かに……」
「さすがアキラくん。目のつけどころが違うな」
「まだまだ敵ではないって感じか? アキラ」
 芦原がからかうような口調でそう尋ねると、アキラは僅かに苦笑した。
「少なくとも怖い存在ではないです」
「言ってくれるねえ。俺なんかビビりまくってるのに」
 芦原の言葉に周囲からどっと笑いが起こる。
 アキラも穏やかに笑った。緒方だけは何も言わず、アキラが並べた碁石の流れを目で追っている。
 笑いが収まる頃を見計らって、緒方は静かに口を開いた。
「どうだ? ……ライバルの成長ぶりは?」
 アキラはちらりと緒方を見て、それから碁盤に目を落とした。
「……韓国へ行く前と何かが著しく変わった気はしませんね。行った意味があったのかどうか」
「採点辛いな〜アキラ。さすが棋聖に大手かかってるだけあるよな。俺は進藤くんに勝てる気しないよ」
「ボクだって芦原さんに負ける気がしませんよ」
「こいつ〜」
 再び和やかな笑いが広がり、アキラは芦原たちに軽く頭を下げて岩田の元へと戻っていった。
 そんなアキラに、弘田が声をかける。
「アキラくん、式の準備進んでるの?」
 アキラは照れ臭そうに微笑み、ええ、と頷く。
「ボクはほとんど任せっきりですけど。順調みたいです」
「あと二ヶ月かあ。もう結納は済んだんだっけ?」
「はい、七月に」
「いいねえ。仲良くやってるのかい?」
「ええ、良いお付き合いをさせて頂いています」
 柔らかな笑顔を見せるアキラに、芦原がぴゅうと口笛を吹く。
「この前も仲良くデートしてたもんなあ。くそう、アキラに先越されるとは思わなかった!」
「芦原くんはまず彼女見つけないと」
「誰か紹介してくださいよ〜」
 弘田に泣きつく芦原の大袈裟な様子に場がどっと沸く。
 アキラもはにかむように笑っていた。
 その日の研究会は終始穏やかに時が過ぎ、日暮れ頃に兄弟子たちは塔矢邸より帰路についた。
 門の前で彼らを見送ったアキラが玄関に戻ると、電話の音が聞こえてくる。慌てて中へ入り、廊下に据えられた電話の受話器をとった。
「はい、塔矢です」
『もしもし? アキラさん?』
「お母さん」
 耳に馴染む声にほっと肩の力を抜く。
『今日はお仕事は?』
「午前中で終わったよ。午後からさっきまでうちで研究会をしてたんだ」
『あら、そうだったの。お邪魔じゃなかったかしら?』
「平気だよ、もうみんな帰ったから。どうかした?」
 一旦受話器を右耳から離し、左手に持ち替える。素早く行ったが、母の声が少しだけ途切れた。
『……よかったわ。ねえ、来月の前撮りなんだけど、八日だったかしら? 九日だったかしら?』
「八日だよ。本当に帰って来る気?」
『当たり前でしょう! 華奈さんのドレス姿、綺麗でしょうねえ。和装も楽しみにしてるのよ。アキラさんを見るために帰るんじゃないんだから』
 母の浮かれた声にアキラは苦笑した。
 軽く目を伏せて薄ら微笑み、「時間が詳しく決まったらこっちから連絡するよ」と告げる。母に絶対だと念押しされ、困ったように笑いながらも電話を切った。
 広い家に一人取り残されたアキラは、通話が終わった後のシンとした廊下でしばらく電話を見つめていた。
 あと二ヶ月。――口の中で呟き、ふっと小さく息をついたアキラは、何事もなかったかのような表情で自室へと足を向けた。







 ***







 打ちかけの盤面を睨み、ヒカルは僅かに眉間に皺を寄せていた。
 昼時を迎えた対局室はすでに人もまばらになり、ヒカルもようやく頭の中に区切りをつけたのか、小さく息をついて立ち上がろうとする。
「進藤」
 腰を上げながら自分を呼ぶ声に振り返ると、倉田がよ、と片手を上げていた。
「倉田さん」
「飯行くのか? 俺もつきあってやるよ。奢らないけど」
「倉田さんに奢りは期待してないよ」
 ヒカルは笑いながら倉田の誘いを受け、倉田のゆったりした身体から半歩下がって対局室を出た。


「まだ本調子じゃないみたいだな」
 ラーメンを啜りながら、何でもないことのようにそんなことをつらっと口にした倉田を見やり、ヒカルは苦笑した。
「やっぱバレてる?」
「まあね。まー、まだ帰国したばっかりだから疲れもあんのかなと思ってたけど」
 ヒカルは曖昧に笑い、そうかも、と小さく呟いた。
 それからしばらく、二人の間にラーメンを啜る音だけが響いた。
 どうやら倉田には感づかれていたらしい。つい先ほどの打ちかけの盤面を見られたのか、それともそれ以前の棋譜を見られたのか。
 いまいち波に乗り切れていないヒカルを見かねて誘い出してくれたのかもしれない。勿論、傍目には分からないよう気を張ってはいるが、レベルが上の棋士にはごまかしきれなかったのだろう。
 帰国してから、いろいろな情報が耳に届くようになった。
 囲碁だけに集中していられた一年間の猶予はすでに終わってしまったことを思い知らされる。
 聞きたかったことも、聞きたくないことも受け止めなければならない環境で生きていくことを選んだ。
 ならばこれ以上不甲斐ない碁を打つことは許されない。
「調子。……すぐに取り戻すから」
 ヒカルは油の浮いたスープをじっと睨んできっぱりと告げた。呟きというには大きな声だった。
 倉田はスープを飲み干した後に軽く頷き、腹が満たされたのか、満足げにため息をつく。
「よし。じゃあしょうがないから景気付けに奢ってやるか!」
「え、さっき奢んないって言ってたじゃん」
「まあ、たまにだよたまに」
「ちえ、そんなら大盛頼めばよかった〜」
 残念そうに声をあげたヒカルを見て、倉田がむっと口唇を尖らせる。
「感謝の気持ちがないなら奢ってやらないぞー」
「うそうそ、超感謝してまっす! ごちそうさまーっす!」
 パンと手を合わせて頭上に掲げ、へらっと笑いながら恭しく倉田にお辞儀をする。
 倉田は憮然としつつも財布を取り出してくれた。
「そろそろ行くか。昼休みが終わる」
「うん。……いい気合入れになったよ。ありがと、倉田さん」
 倉田は何も言わずに肩を竦めた。
 彼らしい仕草にヒカルは笑って、気持ちも新たにラーメン屋を後にする。
 午後からは一気にケリをつける。
 そろそろ心を切り替えなければいけない。
 すでに棋聖に王手をかけたアキラの話題は望まずとも耳に飛び込んでくる。三勝一敗で挑戦手合を進めるアキラがあと一勝をもぎ取れば、十代のタイトル保持者が誕生する。
 もっとも、その翌月にはアキラは二十歳の誕生日を向かえ、婚約者との入籍を果たし、家庭を持つことになるのだが。
 アキラは立ち止まらず、更に上へと駆け上ろうとしている。
 いちいちショックを受けている暇などないのだ。
(――せめてお前に笑われないように)
 ライバルと呼ばれるに相応しい碁を打ってみせる。
 それが今の自分に出来る唯一の償い。
(……償いなんて言ったら怒られちまうかもな……)
 がっかりさせたくない。
 棋士としては、隣に並んでいたいから……






ホントに同じような調子で続きました……
次も同じような感じです……