ラストシーンから始めよう






 記者室の扉を開くと、予想していた顔がヒカルを振り向いた。
 緒方、芹澤、芦原、伊角、越智。緒方と芹澤、そして芦原はモニタに近い位置に、少し離れたところで伊角と越智が碁盤を挟んでいる。
「進藤」
「進藤くん」
 ヒカルは彼らに軽く会釈をして、静かに扉を閉めた。
 それからモニタにちらりと視線をやり、伊角と越智の元へと近づいていく。
「どう? 塔矢」
「危なげないよ。一柳先生の常に一歩先を見ている感じだ」
 伊角が答えながら、黒石と白石が並ぶ盤面を一度崩した。そして初手から並べてヒカルにこれまでの内容を再現してくれようとする。
 ヒカルは椅子を引き、腰を据えて伊角の並べる石の流れを追った。
 棋聖戦挑戦手合い第五局。
 幽玄の間にて対峙する一柳棋聖と挑戦者塔矢アキラ五段。
 七番勝負のうちアキラはすでに三勝を手にしており、この一局に勝利すれば棋聖のタイトルはアキラのものとなる。
 ヒカルは伊角の並べる碁盤から一度目を離し、モニタに目を向ける。
 ふと、白石を指先に挟んだ手が伸びて来て、ヒカルは胸が小さく音を立てたことに気付いた。
 ――アキラの手だ。
「落ち着いてるな、アキラ。一柳先生の怒涛の踏み込みにも臆してない」
「地合の優位に気を抜かずよく攻めている。塔矢くんらしいいい碁だ」
 唸る芦原と芹澤の声を耳にしながら、ヒカルは再び伊角が並べ終えた盤面を静かに見下ろした。
 冷静でありながら、ここぞという時の力強さはアキラならでは。惚れ惚れするような白石の揺さぶりにヒカルは薄ら微笑む。
 ――アキラらしい。芹澤の言う通りだ。
「完全に押さえましたね。一柳先生の投了で終わりでしょう」
 芦原がモニタを見つめながら深く頷いた。
 煙草を口に咥えていた緒方が、ため息混じりに紫煙を吐き出す。
「やれやれ、早めにホテルを押さえておいて正解だったな。芦原、しばらく忙しくなるぞ」
「祝賀会かあ。後援会のみんな張り切るだろうなあ。来月には披露宴もあるし、もうお祭り騒ぎですね」
 ヒカルは身じろぎせずに大人たちの言葉を背中で受け止めていた。軽く目を閉じて、そっと開く。
 余計なことを考えず、アキラの紡いだ石の並びに心を委ねよう。
 アキラの碁は、他の誰よりも自分がよく知っている。
 迷いのない、揺るぎない美しい石の並び。
 昔と変わらない、いや、昔よりもずっと確かな強さを誇示する素晴らしい一局。
 なんて心地よいのだろう。アキラならきっと、次はあそこに打つはずだ。そうしてこの美しい棋譜にピリオドを打つ――
「……投了だ!」
「塔矢アキラ、初タイトルか。悪くない内容だった」
 ガタガタと椅子から立ち上がる音が部屋に響く。
 どうやら緒方、芹澤、芦原はすぐにでも幽玄の間へ向かうらしい。伊角と越智も立ち上がる。
 ヒカルは座ったまま、黙って碁盤を見つめていた。
「進藤、行かないのか?」
 伊角に声をかけられて、ヒカルは穏やかに微笑みながら軽く首を横に振った。
 すると、扉に向かいかけていた緒方が踵を返し、ヒカルに近づいてその肩にぽんと手を置く。ヒカルが少し驚いた顔をして振り返ると、緒方がにやりと笑ってヒカルを見下ろしていた。
「お前も出るだろ? アキラの棋聖獲得記念パーティー」
「俺が……?」
「ああ。ライバルの出世を祝わないのか?」
 ヒカルはじっと緒方の瞳を見返した。
 ひょっとしたら、緒方は何事か感づいてヒカルにこんなことをけしかけているのだろうか。――眼鏡の奥の切れ長の瞳からは何も読み取れない。
 ヒカルは肩の力を抜いて、ふっと目を逸らす。
「……俺なんかが行ってもいいのかな」
「当たり前だろう。去年俺の名人獲得パーティーにも顔を出していたくせに」
「……そうだったね」
 ヒカルは微笑を浮かべた。
 緒方はその笑みをヒカルが出席することへの了解と受け取ったのか、表情を和らげて肩に置いた手を下ろす。
「まったく、お前が韓国なんぞに行ってる間にアキラが調子付いて困ってる。早いとこ上がって来て潰しあってくれ」
「緒方先生、ぼやぼやしてたら名人位取られちゃうかもね」
「こいつ」
 軽くヒカルを小突く真似をした緒方は、気が済んだのかヒカルに背を向けて芹澤と芦原の後を追っていった。
「進藤、俺たちも行くけど……」
 立ち上がったままの伊角がヒカルの様子を伺うように話しかける。越智はすでに扉に足を向けていて、ヒカルは二人に笑顔を見せて再び首を横に振った。
「俺、今日寄るとこあるから。碁盤片付けとくから行ってきていいよ」
「そうか? じゃあ、悪いけど頼むな」
 伊角は立てた手のひらを軽く顔の前に掲げて、すでに記者室を出た越智の後を足早に追う。
 誰もいなくなった記者室で、ヒカルは座ったまま碁盤を睨み続けていた。
 ――いい手だ。あそこのスミも、このツケも。
 アキラはまた強くなった。ヒカルなどに目もくれず、前だけ突き進むかのごとく。
(……でも、追いつかなくちゃ……)
 繋がっていられるのはここしかない。
 その時、ばたばたと騒がしい足音が廊下から聞こえてきて、扉が乱暴に開いた。驚いて振り向いたヒカルの目に、息を切らせて飛び込んできた和谷の姿が映る。
「和谷」
「対局どうなった? ……って、もう終わったのかよ」
 ヒカルの他に誰もいない室内を眺めて、和谷はぐったりと肩を落とした。
 ヒカルは項垂れる和谷をからかうように笑った。
「残念。ついさっき終局したぜ」
「間に合わなかったか〜。……どっち勝った?」
「塔矢の中押し勝ち」
 ヒカルの言葉に和谷はピュウと口笛を吹き、それから大きなため息をついた。
「遂に棋聖持ってったかあ。まあ、あの勢いじゃ取るだろうなと思ってたけどさ」
「……みんな幽玄の間に検討に行ったぜ。和谷も行ってくれば?」
「お前は?」
「俺、用事あるから。ここ片付けたら帰る」
 ヒカルは先ほどまで穴が開くほど見つめていた盤面を躊躇いなく崩した。
 ――棋譜はすでに頭に入った。
「そんじゃ幽玄の間行ってくっかな。ちえ、アイツどんどん駆け上ってっちまうなあ。タイトルは取るは、嫁さんはもらうは、俺より年下のくせしてよ」
 ヒカルは黒石と白石をより分けながら黙って微笑む。
 和谷には僅かに背を向けたまま。
「じゃな、進藤。あ、そうだ、お前今度の金曜の夜空けとけよ」
「金曜?」
 ヒカルは顔を上げた。
 和谷がにんまりと笑った顔のままヒカルに一歩近づき、耳元でそっと囁く。
「合コンだよ、合コン」
「……合コン?」
 聞き返すヒカルが鈍く瞬きをする。反応の薄いヒカルに焦れたのか、和谷は「だから合コンだって!」と喚いた。
「なんで俺?」
 ヒカルはさして嬉しくもなさそうに尋ねた。
「なんでって、お前彼女いないだろ? 女子大生だぜ、女子大。池下さんとかのツテで話きたんだけどさあ、お前もきっと行くと思って……」
「俺、いいよ。興味ねーや」
 ヒカルは碁石を碁笥にしまいながら素っ気無く告げた。
 視界の端に驚いた和谷のリアクションが映る。
「マジで!? なんだよ〜、絶対お前も喜ぶと思ったのに!」
「めんどいからさ、そういうの。和谷、そんなことより早く行かないと検討終わっちまうぞ」
「あ、ああ……、おい、マジで行かないの?」
「行かないの」
 きっぱりしたヒカルの口調にようやく和谷も諦めたのか、分かったよと面白くなさそうな呟きが聞こえ、それから扉が閉まる音がした。
 ヒカルが振り返ると、和谷の姿はすでになく、部屋にはヒカル一人が取り残されている。
 ヒカルは碁石を片付けた十九路の碁盤をじっと見下ろした。
 ――何もいらない。
 余計なことに気を取られたくない。
 心を捧げた人がいるから。
 今はもう、碁でしか繋がっていられない人。
 くだらないことに現を抜かしていないで、少しでも彼に恥じない碁打ちであるように――
(もっと強くなりたい)
 もっと。もっと強く。
 今しがた行われた対局のように、魂が震えるような碁を打てるほどに。







ここで具体的に懺悔。タイトル戦の対局って、直近のものを調べた限り
幽玄の間ではやってないんですよね。ほとんど地方ばっかりで。
いろいろと捏造が見苦しかったらもーホントすいません……!
そしてやっぱりラストは同じような感じなんだ。あああ。