ラストシーンから始めよう






 祝賀会は都内のホテルで開かれていた。
 久しぶりにきっちり着込んだスーツが窮屈そうに、ヒカルは身体をもぞもぞと小さく動かしながらホテルを見上げた。
 迷いに迷った結果、来てしまった。
 顔を合わせることに躊躇いがないわけではない。
 しかし韓国に渡る前はしょっちゅうつるんでいた自分たちだ。おめでとうの一言も言わないのは周囲から不自然に思われるかもしれない。
 何より、ヒカル自身がアキラの快挙を祝いたいと思っていた。
 直接言葉を伝えられなくてもいい。遠くから、晴れ姿を見守るだけでも……
(……なんか俺、センチになったなあ)
 感傷的になるなんて我ながら気味が悪いと苦笑しながら、ヒカルはネクタイの結び目をもう一度確認し、ホテルへと足を踏み入れた。
 本当は一年半前、緒方の名人獲得パーティーで着てきたスーツを着るつもりだった。が、ふと思い立って数日前に袖を通してみると、幾分丈が足りなくなっていたことに気づいて慌てて新しいものを買いそろえた。
 もう二十歳を迎えたというのに、まだ少し背が伸びていたことに驚いた。何やらほろ苦い気分だった。
 そういえば、アキラは自分よりもちょっとだけ背が高かったっけ――
 追いついたのだろうか。追い越しただろうか。
 そんなことを考えながら、エレベーターで二十五階を目指す。
 今日は晴れているから、窓があれば夜景が綺麗だろうななんて思うのは逃避の一種なのだろうか。


 会場は煌びやかだった。
 シャンデリアの光がそう見せるのか、ヒカルは扉の向こうの眩しい空間に目を細める。
 独特の華やかな雰囲気は嫌いではないが、今はどうも気後れする。
 誰かと一緒に来るべきだっただろうか? ――いや、やはり一人で来るのが正解だったのだろう。
 アキラの姿を目で探している自分は、その視界に彼を映した途端に周りの全てが見えなくなってしまいそうだから。
 できればあまり目立ちたくない。アキラの祝賀会なのだから、後援会の面々も張り切って会場内を闊歩していることだろう。――中にはあまり会いたくない人だっている。
「よう」
 軽く頭を小突かれて振り向くと、煙草片手の緒方が立っていた。
 知った顔を見つけてほっとすると共に、塔矢門下の筆頭である緒方が誰より目立つ存在だということに気づいて内心気まずさを感じる。
「来たな。なかなか姿が見えないから逃げたかと思ったぞ」
「緒方先生直々に声かけてもらって、すっぽかすなんてことしないよ」
 ヒカルの言葉に表情を和らげた緒方は、傍にいたボーイを呼び止めて飲み物をヒカルに選ばせる。
「成人済みだったな?」
 ウーロン茶に手を伸ばそうとしたヒカルに釘を刺すように、緒方が意地悪くそんなことを言う。
 ヒカルは苦笑しながら、渋々白ワインを受け取った。
 グラスを傾け、口唇を濡らす程度にワインを舐める。飲み慣れない味だが、良い香りだと思った。
「塔矢は?」
「スポンサーの間で引っ張りだこだ。呼んでくるか?」
 ヒカルは黙って首を横に振る。
「忙しいだろうからいいよ。俺、ホントに今日はちらっと顔見に来ただけだし」
「なんだ、声もかけないつもりか? 折角来たんだから一言くらい祝っていったらどうだ」
「いいってば。俺が来てたことも知らせないでいいから」
 仄かな黄金色の液体を見つめながら、ヒカルは早口でそう告げた。
 緒方がふいに黙る。
 予期していた沈黙とはいえ、居心地の悪さにヒカルはワインを多めに口に含んだ。酸味が喉を刺激し、思わず顔を渋くする。
「……、随分長い冷戦期間じゃないか?」
「そんなんじゃないよ。今までと変わらない」
「俺にはそうは見えないがな」
「緒方先生は勘ぐり過ぎ」
 グラスに口唇をつけたまま、微かにヒカルは笑った。
 そう、今までと変わらない――お互いを意識する前の二人の関係に戻っただけ。
 緒方が首を捻っている気配がする。
「俺の勘は当たるんだが」
「鈍ってきたんじゃない?」
 からかうように呟くと、明らかに緒方はむっとしたようだった。
「鈍ってるかどうか試してみるか?」
「試すって、どうや……って……」
 ヒカルは言葉をうまく続けることができなかった。
 会場の中央付近、周囲の人々に笑顔で会釈をするアキラの姿が目に飛び込んできたから。
 アキラの歩調に合わせて人込みが割り開かれるように道が出来ていく。時折道を遮る招待客と何事か挨拶を交わし、穏やかな表情のアキラは年よりもずっと大人びて見えた。
 チャコールグレーのスーツがアキラの長身を際立たせている。伸びた背筋に柔らかな笑顔。さり気ない仕種のひとつひとつに、アキラの落ち着きが見て取れる。
 ――ああ、追いつけない――ヒカルは目を細めた。
 黙って逃げただけの自分が、追いついているはずがなかったのだ。
 心も身体もアキラは昔よりずっと大人になっている。
 眩しくて目を開けていられないのに、瞼を閉じることもできやしない。
 震える睫毛が邪魔だなんて、どうでもいいことを思いながら視線を逸らせずにいた。
 ふと、そんなヒカルの肩に緒方の大きな手が触れた。びくりと身体を竦ませて緒方を振り返ると、緒方もまたじっとアキラを見据えている。
 緒方先生、と声をかけるより早く、緒方がアキラに視線を向けたまま口を開いた。
「アキラ」
 ヒカルの胸が縮む。
 ざわめく会場でひときわよく通った緒方の呼び掛けは、呆気無くアキラを振り向かせた。
 ふいに呼ばれたことへの驚きか、それともヒカルの姿を見たためか。アキラは少し目を丸くしたようだった。しかしそれも一瞬のこと、すぐに周囲に見せているものと同じ微笑をたたえて会釈を返して来た。
 緒方はヒカルの肩に手を置いたまま、アキラに向かって手招きをした。ヒカルは思わず身じろぎしたが、すぐに緒方の言っていた「試す」とはこのことなのだと気付いて覚悟を決める。
 ヒカルとアキラを対峙させ、反応を見るつもりなのだ。――ただの野次馬根性なのか、それともかなりのおせっかいなのか。
 どちらにせよ、アキラのためにも狼狽えてはいけないのだと、ヒカルも背筋に力を込める。
 アキラは緒方の手招きに誘われるように、ゆっくりと近付いて来る。その表情は変わらずに優しいままで、ヒカルの存在に特別な意味などないように自然だった。
 かつてとは違うアキラの雰囲気に、ヒカルは淋しさを感じつつ、何処か安堵する。
「珍しい組み合わせですね。ようこそ、進藤」
 帰国してから初めて耳にするアキラの声に、ヒカルは言葉を返せなかった。それをごまかすために、口唇だけで微笑んで頷いてみせる。
「もう食傷気味かもしれんが、お前のライバルが一言祝いたいそうだ。受け取ってやれ」
「食傷気味だなんて……。わざわざ来てくれて有難う。いつからここに? もっと早く声をかけてくれればよかったのに」
 穏やかかつ淡々と告げるアキラは緒方とヒカルを交互に眺めていた。
 ヒカルの肩に置かれていた緒方の手が、微かにヒカルを押し出すように力を込めてからそっと離れて行った。ヒカルは顎を軽く持ち上げ、やはり自分より少しだけ背の高いアキラを見上げた。
「……棋聖獲得おめでとう。最終局、見たよ。いい碁だった」
 声が震えていなかったことにほっと息をつく。
 ヒカルの言葉に、アキラがにっこり微笑んだ。
「有難う。君にそう言ってもらえると嬉しいよ。最終局は、自分でも良い出来だったと思っている」
「本当に良かったよ。右辺の攻防は見ごたえあった」
「あそこは思った通りに打てたから。珍しく緒方さんも褒めてくれたしね」
「珍しくは余計だろう」
 緒方がむっとしたように目を細め、低い声で横槍を入れた。
 アキラがふわりと笑う。そんなアキラに見愡れてしまわないよう、ヒカルも自分をごまかすために笑った。
 感情の変化の乏しい落ち着いた表情。憂いや翳り、怒りも興奮も見られないアキラは、全ての気持ちの整理がついたのだろう。
 やはり、あれで良かったのだ。
 あの時の決断が正しかったのだ。
 今はもう、憎んですらもらえない。自分の存在がアキラの心を動かすことはなくなってしまったけれど、目の前にいる穏やかなアキラを見ていると、あるべき姿に戻っただけだとほろ苦い微笑が漏れる。
 会場にざわめきが揺れた。振り返るアキラの黒髪が揺れて、ヒカルの胸も寂しく震えた。
 アキラの振り返った先に、周囲の人々からにこやかに押し出されるようにして一歩こちらへ近付いて来た振り袖姿の女性を見て、ヒカルは口唇を薄く開いた。
「華奈さん」
 ヒカルに背を向けたままのアキラが彼女の名前を口にするのが聞こえた。
 淑やかな女性は控えめに頬を染めて微笑む。
「アキラの婚約者だ」
 ぼそりと、緒方がヒカルの耳元で囁く。
 ヒカルは瞬きを繰り返しながら、清楚な藍色の振り袖を身に纏う美人をぼんやり眺めた。
 アキラは彼女に向かって手を伸ばし、こちらへ来るように促した。少し恥じらうような女性らしい仕種を見せた彼女は、小さな歩幅でゆっくりとアキラに向かって歩いて来る。
 アキラの手のひらに重なる細い指先を見て、ヒカルは一瞬瞼を閉じた。
「遅かったね。待っていたんだよ」
「ごめんなさい。道が渋滞していて……」
 向かい合って優しく言葉を交わしてから、アキラは婚約者の肩にそっと手を添えてヒカルと緒方へ向き直った。
「紹介するよ。婚約者の西宮華奈さん。華奈さん、こちらは進藤ヒカルさん。彼も日本棋院に所属する棋士だ。お祝いに来て下さったんだよ」
 華奈はヒカルに向かってしっとりと頭を下げた。ヒカルも少し堅めに頭を下げ返す。
 アキラは柔らかい笑みを浮かべてヒカルに顔を向け、ゆったりとした口調で告げた。
「来月の末に挙式予定なんだ。忙しい時期ですまないが、良かったらキミも出席してもらえないか?」
 ヒカルは表情を崩さないために、そっと口角を吊り上げた。
「俺で良ければ、喜んで」
 声を上擦らせなかった自分を褒めてやりたい、とひっそり思う。
 アキラは華奈の背中に触れたまま、ヒカルの答えににっこり笑顔を見せた。
「後日招待状を送らせてもらうよ。じゃあ、ボクは他にも彼女を紹介して回らないといけないから。ゆっくりしていってくれ」
 アキラはそう告げてヒカルに微笑み、そうして華奈を伴って人込みへと歩き出した。華奈が軽くヒカルと緒方を振り返り、小さく会釈をする。
 残されたヒカルは、彼女に見せた微笑を浮かべたままで二人の背中を見送った。
「日本人形のようだな」
 緒方がぽつりと呟く。
「綺麗な人だね」
「ああ、血統も御墨付きだ」
「緒方先生の言い方ってなんかヤラシイ」
 からかうように口にすると、こつりと頭を小突かれた。
 ヒカルは手にしていたワイングラスを、丁度傍を通りかかったボーイへ渡す。
「なんだ、もういいのか?」
「うん、お祝いも言えたし。俺、もう帰るよ」
「この後アキラの挨拶もあるぞ。聞いて行かないのか」
「いいよ。長ったらしい話聞いてたら俺寝ちゃうもん」
 ヒカルの言葉に緒方は軽く肩を震わせ、そうか、と引き下がってくれた。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん、塔矢によろしく。先生も飲み過ぎないでね」
「余計なお世話だ」
 ヒカルは笑って、緒方に小さく手を振った。
 それから脇目も振らずに出口へと向かい、廊下に出ると深く息を吐き出す。
 華やかな喧噪から解放された身体に、どっと熱が戻って来る。今まで血液が流れることを止めていたかのように。
 アキラの優しい目。愛しいものを見る、細められた目。似合いだった二人の姿。
 ――お前、今度は間違わずに見つけられたんだ。
 幸せそうな二人の姿を、心から祝福したい気持ちは嘘じゃない。
 そうなることを望んだのは他でもない自分なのだから。アキラの幸せを誰より願っているのは自分なのだから。
 だから、嬉しかった。アキラが淡々と自分を見て、社交辞令の挨拶を交わしてくれたことも。
 婚約者を優しくエスコートし、当然のように紹介してくれたことも。
 幸せそうで良かった。強がりじゃない、本当にそう思っている。


 ……たとえこの胸が潰れてしまったとしても。






ホントに同じような感じばっかり!
もーありがちもいいとこですけど、たぶんこれも
一度やってみたかったんだろうなあ……
この話は「一度はやりたいありがちベタなメロドラマ集」です。
この後もお約束を突っ走ります〜