ラストシーンから始めよう






 鈍っていた勘が取り戻されつつあった。
 アキラの棋聖獲得記念パーティーに出席した翌日から、否が応でも気持ちが昂ぶっていくのが分かった。
 碁石を挟む指先は冷たくとも、その内側に燃える血潮は焦げ付きそうに熱い。
 心の葛藤を、ひたすらにぶつけられる場所がある自分は幸せだと思う。
 強くなりたい。心も、身体も。彼のライバルとして称されるに相応しい強さが欲しい。
 朝も昼も夜も。碁を打ち続けられる環境が自分には用意されている。――有難かった。気持ちさえ怯まなければ打ち筋は迷わない。アキラの背を追って、いずれ戦いの場で堂々と隣に並べるように。
 だから、もう逃げないから。
 目も逸らさない。表情にも出さない。誰にも気づかれないように、この想いは胸の奥底に閉じ込めて墓まで抱えていく。
 それが辛いことだなんて思わない。だって、碁を打ち続けている限り、一番近くでアキラの幸せを願っていられるのだから……




 その数日後、一通の招待状がヒカルの元に届いた。
 毛筆で書かれた自分の名前は意外に仰々しく見えるものだと苦笑を零す。
 厚みのある封筒を丁寧に開くと、中から披露宴の案内と、挙式への参列を誘うカードがはらりと落ちた。
 日時をチェックしてみると、アキラの誕生日に入籍と聞いていたが、挙式はその十日後の土曜日だった。
 ――イブに結婚式だなんて、案外ロマンチックなことするんだな。
 勿論イブに予定などない。地図つきのホテルの場所に目を通し、問題なく出席できることを確認して、返信ハガキを取り出した。
 思えば親戚以外の結婚式に出席するのは初めてだった。誰か知り合いは来るだろうか。塔矢門下の面々は当然出席するだろうが、ヒカルと親しい人間というと特には思い当たらない。
 居心地はよくないかもしれないな――そう思いながらも、ヒカルはしっかりと「出席」に○をつけた。
 きっとこれが、アキラなりの答えなのだから。
 帰国してからあのことに一度も触れなかったアキラが、ヒカルに示す彼の新しい道。
 何も言わずに逃げた自分に、こうして受け止める機会をくれただけでも有難いと思わなければ――ヒカルはじんわり痛む胸をそっと摩り、恭しい招待状を見下ろした。
 ――もう、逃げないよ。塔矢。
 彼が世界で一番幸せになりますように……そんなことを呟いて、世界に浸る自分にほろ苦い笑みを浮かべながら、返信ハガキにメッセージを書き込んだ。
 震える指を奮い立たせ、しっかりと。一文字一文字心を込めて。


『結婚おめでとう! 幸せな家庭を築いてください』――













 それから何度もアキラを棋院で見かけたけれど、言葉を交わすことはなかった。
 思わず彼の姿を目で追ってしまいそうな自分を叱咤して、アキラの噂話にひっそり耳を傾ける。
 棋戦は順調。式の準備で少し仕事をセーブしているらしい。仲人を交えて会食を何度か開いているとか。
 時折婚約者が棋院を見学に来ていることもあるようで、門脇から姿を見たと話を聞いた。
 着々と過ぎる時の中で、一年前のあの夏の全てが夢だったのではないかと思うこともある。
 たった一度の口付け――青臭い、そのくせ砂糖菓子みたいに甘かった初めてのキス。
 きっとあれが人生最初で最後のキス。
 そう思ったら、心がふわりと暖かくなった。
 大好きな人と初めてのキスをして、それが最後のキスだなんて素敵なシチュエーション、願ったってそうそうあるものじゃない。
 俺って、幸せなやつだ――微笑むと胸の真ん中がずくんと音を立てるけれど。
 この疼きが消えないといい。ずっと。いつまでも。死ぬまで。
 ずっとずっと、覚えていたい。たった一度のキスと見つめあった瞳の強い力で、お互いの気持ちを確かめ合ったあの一瞬を。
(お前が忘れてしまっても、俺が抱えて行くから)
 ほんの一瞬の、燃え上がる前に消えてしまった炎だけれど、俺が……俺が忘れずに抱えていくから。
 大切に大切に、抱えていくから。






 ***






 碁石を片付ける時にふいに肌寒さに気づき、アキラは座ったまま碁会所の窓から外の景色を見下ろす。
 すっかり陽の落ちた夜色の空は分厚い雲に覆われ月も星も見えず、商店街の灯りに照らされた道を行く人々は肩を竦めて風に向かっている。
 明日からいよいよ師走を向かえ、寒さも冬のそれに変わっていたようだ。棋譜を並べている間は集中していて気づかなかったものの、窓際の席であるから寒さを感じるのも無理はない。
「すっかり寒くなったわね〜。アキラくん、大事な時期なんだから風邪引いたりしないでよ。」
 壁のカレンダーをめくりながら、市河がアキラを振り返る。
 アキラは碁笥の蓋を閉めながら微笑を浮かべた。
「気をつけます」
「そうよ〜、二週間後には入籍、月末には結婚式なんだから! ああん、でもとうとうアキラくんが人妻……じゃない、旦那様になっちゃうなんて淋しいわあ」
 アキラは苦笑し、碁笥を碁盤の上に置いて立ち上がる。
 碁会所はすでに受付嬢の市河とアキラ、それから常連客でもあり、父・塔矢行洋の後援会にも所属する藤田がにこやかに二人の話を聞いているのみとなっていた。そのアキラも、碁盤を元通りに片付けて帰宅の準備を進めている。
「でも、特に生活は変わりませんよ。今まで通り碁会所にもちゃんと顔を出しますから」
「それは嬉しいけど、でもうちに来る暇があるなら奥様の傍にいてあげたほうがいいわよ〜。ただでさえ忙しい人なんだから、アキラくんは」
「……そうですね」
 アキラは静かに頷き、立ち上がった。
「じゃあ、今日はそろそろ帰ります。遅くまですいません」
「もうちょっと待っててもらえるなら車で送るわよ?」
「いえ、地下鉄で帰りますから。有難うございます」
 市河はカウンターへ戻り、アキラのコートとバッグを用意した。
「若先生、お式楽しみにしてますよ。」
 藤田の声に、アキラは顔を向けて微笑んだ。
「藤田さんにも随分お世話になりました。当日もよろしくお願いします」
「いいえ、もう私は若先生のために何かできるだけで嬉しくてね。この年寄りでよければ使ってやってください。若先生の晴れ姿を見られれば、もういつ死んでも悔いはないですよ」
「縁起でもないこと言わないでください、藤田さん」
 アキラは苦笑しつつ、薄い頭を撫でている藤田に柔らかい眼差しを向ける。
 アキラはもう一度藤田に頭を下げ、市河にも笑顔を見せた。
「それじゃあまた。しばらく来れないかもしれないけど」
「暇が出来た時でいいわよ。当日まで準備大変だろうけど、頑張って」
「有難う、市河さん」
 市河から受け取ったコートを纏い、アキラはバッグを手にする。
 藤田も立ち上がって、何故か小さなため息をついた後、アキラに目礼して応接室へと続く奥の扉へ身体を向けた。どうやら帰る前に一服していくらしい。藤田はよく応接室の皮張りのソファに身体を沈めて煙草を吹かすのを好んでいた。
 藤田の背中を見送ってから、アキラは出口へと足を向けた。自動ドアが静かに開き、ドアが閉じてから碁会所内を振り返ると市河が手を振っている。
 軽く手を振り返したアキラは、エレベーターのボタンへと指を伸ばした。

 ゆっくりと下がるエレベーターの中で、何の気なしにポケットへと手を入れたアキラは、声こそ出さなかったもののあっと口を開けた。
 手に触れた紙を取り出し、そこに少し縒れた時刻表を認めると、困ったように眉根を寄せる。
 少し前に、市河からついでがあったら地下鉄の時刻表をもらって来て欲しいと頼まれていたのだった。忘れずに取って来たのはいいが、おざなりにポケットに突っ込んだせいか渡すことを忘れてしまった。
 次にいつ碁会所に来られるか分からない。アキラは仕方なく、一度一階に下りたエレベーターから降りずに再び碁会所がある階のボタンを押した。

 たった今出て行ったアキラがすぐに戻ってきたのだから、きっと市河が驚いた顔を見せるだろうと思ったのだが。
 自動ドアを潜った碁会所には誰の姿も見えなかった。
 アキラは首を左右に回しながら、応接室へ向かった藤田の背中を思い出す。
 ひょっとしたら、市河とゆっくりお茶でも楽しんでいるのかもしれない。
 ごく自然にそんな考えを頭に思い浮かべたアキラは、迷うことなく応接室へと足を向けた。
 ドアノブに手を伸ばしかけて、薄ら開いたドアの隙間から漏れる光につい目を留めた時――
「……よかったよ。全てが順調に進んでいて……」
「藤田さん、アキラくんのこと本当の孫みたいに思ってるもんね。嬉しいわよね、赤ん坊の頃から見守ってきたんだから。大人になった姿見てたらちょっと泣けてきちゃった?」
 藤田と市河の声が灯りと一緒に漏れてきて、アキラは思わず手を止めた。
 自分のいないところで名前を呼ばれると無性に照れくさい、そんな気持ちがあったのかもしれない。おまけに話の内容からして、彼らもアキラに聞かれるのは気恥ずかしいだろう。
 そっとその場を後にし、時刻表はカウンターに置いて帰ろうかと後ずさりかけた、アキラの耳に藤田の絞り出すような低い声が届いた。
「……孫だなんて。恐れ多い。若先生は塔矢先生の大事な一粒種だ。幸せになってもらわなきゃ……何としても若先生には幸せになってもらわなきゃならないんだよ」
「……藤田さん?」
「晴美ちゃん……。私はね、人から罵られたって仕方ないことをしてきたんだ。でも、それも全部若先生のためだと思ってやってきたんだよ。後少しだ。後少しで、その願いが叶う。」
「……藤田さん、何言ってるの……?」
 声色の変わった藤田の様子を伺うような市河の辿々しい声。
 アキラも様子がおかしい藤田の言葉に眉を寄せて、一度は離れかけたドアにもう一歩近付いた。そしてもっとよく会話を聞こうと身を乗り出した――
「晴美ちゃん。後少しなんだ。後少しなんだよ。私は何としても、若先生を幸せにしなくちゃならない。でなければ、何のために――進藤くんに悪者になってもらったのか――……」
「……進藤、くん……?」
 市河が聞き返す声は、乱暴に開け放たれたドアの音で掻き消された。
 市河と藤田ははっと顔を上げ、ドアを振り向く。市河の表情には驚きが、藤田にはそれに加えて戦慄が浮かんでいた。
 アキラは呆然と目を見開いたまま、ドアを開け放した格好で驚愕に青ざめる藤田を見据えていた。
「……藤田さん……」
 アキラの低い呼び掛けに、藤田は口唇を震わせる。
「今、何とおっしゃいました」
「……若先生」
「……『進藤』が……何ですって?」
 藤田がぐっと口唇を噛む。そうしてアキラから目を逸らす藤田に、アキラは大股で距離を詰めた。
「藤田さん!」
 アキラの剣幕に市河が身を竦める。
 構わずにアキラは藤田へと詰め寄った。
「答えてください! 『進藤に悪者になってもらった』とは……どういう意味ですか……!」
「……っ!」
 藤田は毛髪の薄い頭を抱えた。焦れたアキラは藤田の肩に手をかける。
「答えてくれッ!」
「アキラくん、乱暴はやめて!」
「藤田さん!!」
 市河の制止も聞かず、今にも掴みかからん勢いでアキラは藤田の肩を握る手に力を込めた。
 藤田は低い呻き声を漏らし、両手で顔を覆って顔を伏せる。
 睨み合いの沈黙。
 長い長い夜が始まろうとしていた。







やっぱりこうきたか……!という感じです。
こういう修羅場?も一度やってみたかったらしい。
次は回想から始まります。<注意書き入れないと
分かりにくい出だしという腑甲斐無さ