ラストシーンから始めよう






 階段の中央部分で固まったまま、表情だけはぼんやりと階下を見下ろしていた。
 消えたアキラのシルエットが瞳に焼きついて離れない。
 先ほど口唇に感じた柔らかい感触は幻だろうかと、指先で口唇に触れてみる。
 まだ、アキラの熱が残っているかのように熱かった。
 それが合図だったかのように、それまで冷たかった指先にどっと血液が流れ始める。ばくばくと心臓が音を立て、服の上からでも分かるほど胸が揺れていた。ヒカルは思わず胸を押さえ、はあっと苦しげに息をつく。
 胸が、頬が、手のひらが熱い。
 ――塔矢にキスされた。
 荒い呼吸のせいで口唇が渇いてしまったことは分かっているが、ついさっきアキラが触れた場所だと思うと気恥ずかしくて舌を伸ばせなかった。
 ――俺、塔矢とキスしたんだ……
 お互いの気持ちなんて分かりきっていたけれど。
 それでも、こうして直に触れたのは初めてだったから、心が追いついていかない。
 微かに身体を動かすと、足が震えているのに気がついた。
 胸の奥に、ひたすらな熱さとは別にじんわり暖かいものが広がっている。
 ――明日、塔矢が待ってる。
 この足が震えていなければ、明日といわず今すぐアキラを追いかけたって良かった。明日までなんて待てない。今から一緒に海を見に行こう――
 そうアキラに告げるために。
 震える足で一歩階段を下りようとしたその時。
「進藤くん」
 背中に声がかかった。
 ぎくりと身体が強張り、そろそろと振り向く。
 階段の一番高いところから、青ざめた藤田がじっとヒカルを見下ろしていた。
 ヒカルは、それまで熱く脈打っていた全身からざっと血の気が引いていく音を聞いたような気がした。
 ――見られた。
 咄嗟にそう思った。
 藤田の表情は暗く、口唇を真一文字に結んで厳しい視線をヒカルに向けている。
 ヒカルはごくりと喉を上下させた。
 ヒカルを見下ろしたまま身じろぎしない藤田に、形容しがたい恐ろしさを感じたのだ。
「進藤くん」
 低い呟きで、藤田は再びヒカルの名を呼んだ。
 いつもは穏やかな藤田の様子ががらりと変わっていて、ヒカルは返事ができなかった。
「……来てくれ。こっちへ」
 藤田の呼びかけに少し身を竦ませながらも、逆らえない迫力を感じてヒカルは強張った足を動かす。
 一段一段、ゆっくりと階段を上がって行った。そんなヒカルを藤田が黙って見下ろす。処刑台へと続く道――そんな物騒な想像がヒカルの頭を掠めた。
 藤田のところまで階段を昇りきると、藤田は相変わらず黙ったままヒカルに背を向け歩き出した。ついて来いという意味なのだろう。ヒカルは拒みきれず、藤田に続いて再び碁会所の中へと入ることになった。
 数人の客が振り返る。カウンターから市河が「忘れ物?」と不思議そうに声をかけてきたが、ヒカルは曖昧に笑ってごまかした。
 藤田は真っ直ぐ奥の応接室へと向かっている。部屋の存在は知っていたが、入るのは初めてだった。先ほどアキラにキスされた時とは違った緊張が、ヒカルにじっとりと嫌な汗を掻かせた。
 応接室の扉を開け、藤田はヒカルに先に中へ入るよう促した。ヒカルが恐々足を踏み入れると、その後に続いた藤田が静かに扉を閉めた。
 藤田に手のひらで指し示されて、ヒカルはそっと皮張りのソファに腰を下ろす。肩を縮めたまま上目遣いに藤田を伺った。
 何を言われるのだろう。怒られるのだろうか。アキラに妙なちょっかいを出したとカン違いされたのかもしれない……
 居心地の悪い沈黙が苦しくて、ヒカルは何度も瞬きした。
 突然、藤田が床にがばっと手をついた。
 土下座の体勢をとった藤田に、最初こそ呆気にとられたヒカルは、すぐに立ち上がって手を差し出す。
「ふ、藤田さん、何してんですか!」
「……この通りだ!」
 藤田は頭を深く下げたまま、搾り出すような声で告げた。
「この通りだ、進藤くん。若先生とのことはなかったことにして欲しい。酷いことを言っているのは分かっている。それを承知で、頼みたい」
「……藤田さん」
「君たちがお互いを意識し合っているのは分かっていた。図々しくも若先生の第二の親だと思っているんだよ。小さい頃から見てきたんだ。あの子の考えていることくらい分かる……」
 ヒカルは息を呑んだ。
 土下座したままの藤田の肩が震えだしたから。
 目の前の光景が信じられず、ヒカルは口唇を戦慄かせた。
 大の大人が、それも自分よりずっと年上の藤田が、恥を忍んで頭を下げているだなんて。
 その姿には迷いも惑いも薙ぎ払い、鬼気迫るような緊迫感だけが溢れ出ていた。本気の土下座などこれまで見たこともなかったヒカルを圧倒させるには充分だった。
 ましてや、藤田が問題にしているのは自分とアキラとのこと。おまけに藤田の口振りでは、以前から自分たちの特別な空気に気づいていたようである。
 周りに悟られるほど自分たちは分かりやすかったのだろうかと思うと、恥ずかしさが沸き起こる。と、同時に哀しくなった。
 この人は、そんな自分たちを引き離そうとしているのだ……
 言葉が出ずにただ立ち尽くすヒカルの前で、藤田は僅かに身体を起こした。そうしてヒカルを見上げたその目には、追い詰められた男の苦渋が滲み出ている。
 そんな目を見てしまえば、ヒカルはますます言葉を失うのみだった。
「進藤くん。頼む。……若先生を突き放してほしい」
「え……」
「無茶を承知で頼みたい。君には本当に申し訳ないと思う。……若先生に見合いの話が出ているんだ。このままでは若先生はきっと承諾するまい……」
「見、合い?」
 たどたどしく聞き返すヒカルに、藤田は渋い表情のままで再び俯く。
「……いいお嬢さんだ。若先生の将来を思えばこれ以上の相手はいない。……塔矢先生もきっと喜んでくださるだろう」
 行洋の名前にヒカルはビクリと身を竦ませた。
 心臓に持病を持つ行洋は、大事には至っていないものの時折発作を起こしている。行洋の身体を思うと、自分たちの感情が酷く後ろめたいものに感じてきた。
「塔矢行洋という棋士がいるだけでどれだけ素晴らしいことか知れないのに、その上若先生が産まれた。若先生の存在そのものが奇跡だったんだよ。あれだけ偉大な父を持ちながら、その父親に勝るとも劣らない器の持ち主だ。進藤くん、私はね。若先生が棋士の道を志した時から、この身に変えても彼の将来を守り抜こうと決心したんだよ。手前勝手だと蔑んでくれても構わない。卑怯な言い方をしているという自覚はある。それでも、私は」
「藤田さん」
「この通りだ、進藤くん!」
 ヒカルの呼び声を掻き消すように、藤田は大きく声をあげて床に鼻が擦りそうなほど頭を下げた。
 ヒカルはぎゅっと口唇を結び、哀しみとも怒りともつかない胸のうねりを握り締めるように、拳を固くする。
「藤田さん……もうやめて」
 藤田を刺激しないよう、なるべく小さな声で囁きかけた。
「頭、上げてください。……俺と塔矢は、なんでもないから」
 藤田の肩が揺れた。
 はっとしたように顔を上げた藤田の顔面は蒼白だった。
 切羽詰った表情を目の当たりにして、ヒカルは胸の痛みを隠し切れずに顔を歪めかけ――無理やり強張った笑顔を作った。
 理不尽な要求を突きつけられたということは理解している。しかしそれ以上に、藤田に土下座までさせた彼のひたむきな思いが理解できたから、せめて藤田の自責の念を軽くしてやりたいと思ったのだ。

 傍にいられるだけで、幸せだった。
 向かい合って碁を打って、時折視線が合うたびに微笑み合う、そんな淡い関係で充分だった。
 その気持ちは今も変わらない。
 だから、「それ以上」がなくたって我満できる――

「俺、塔矢とは会わないよ。明日も、……これからも」
「進藤くん」
「やだな、藤田さんカン違いしないでよ。俺らただのライバルだって! 気持ちわりーじゃん、俺ら男同士だよ? 藤田さんが思ってるようなこと、何にもないってば……」
「……進藤くん」
 ヒカルは身を屈めて、まだ少し引き攣った笑顔で藤田を見下ろした。
「だから土下座なんてやめてよ。……そんなことしなくていいから」
「……っ」
 床についた両手のひらをきつく握り締めた藤田は、鼻を中心に顔を引っ張ったようにぐしゃっと顔を顰めた。
「すまない。進藤くん……ありがとう」
「礼は言わないで!」
 不自然な笑顔が荒げた声と共に悲痛に歪んだ。
「……藤田さんの言うこと聞いたわけじゃないから」
 ヒカルはぶるぶる震える口唇で、鼻の奥から込み上げてくるものだけは必死で堪え、ヒカルなりのプライドで言葉を紡いだ。
「俺ら、最初から何もなかったから。礼なんか聞かないから。だから、だから」

 だから、始まる前に終わらせるんだ――








 ……今思えば、僅か一年と少し前のことだけれど、若かったのだなと自嘲する。
 子供の戯れに、あれだけ本気で向き合ってくれた藤田は、心底アキラのことを考えていたのだろう。
 始まらないでよかった。負け惜しみじゃなく、心からそう思う。
 綺麗なお嫁さんをもらって、たくさんの人に祝福されて、きっと可愛い子供も産まれて――その瞬間瞬間を、力いっぱい自分のことのように喜ぼう。
 やっぱり今でも大切な人だから。
 ほんの一瞬の触れ合いだったけど、その思い出のおかげで心が暖かくなるほど幸せなひとときだったから。
 だから――



 ヒカルは自室の壁掛け時計を何気なく見上げた。
 もうすぐ日付が変わる。
 一年で最後の月。十二月を迎えて二週間経てば、アキラの二十歳の誕生日がやってくる。
 誕生日おめでとうと言うべきか、結婚おめでとうと言うべきか。
 どちらにせよ、直接伝えることはもう出来ないのだろうけれど。
 ――招待状の返信はもう届いた頃だろうか……
 そんなことを考えてヒカルが一人ほろ苦い笑みを浮かべると、ふいにベッドに投げ出してあった携帯電話が鳴り響いた。
 こんな夜中に一体誰がと携帯を拾い上げて――ヒカルは身体を凍らせた。


 あの夏の日以来、一度として表示されなかった名前。
 消去するには忍びなくて、女々しくそのままメモリに残しておいた名前……
 ヒカルは確かに液晶画面に浮かび上がる『塔矢アキラ』の文字を認めて、呆然と声を失ったまま身じろぎできずにいた。







後はもう一気に坂を転がり落ちようかと……
修羅場っていうほどのものでもないし、おまけに
実際書いてみたらなんか凄く恥ずかしいですね。
しかしこの話、凄く好き嫌い別れそうだなあ。