ラストシーンから始めよう






 夢でも見ているのではないかと、自分の意識を疑った。
 やけに冷え冷えとした頭の中で、あらゆる可能性を考える。アキラのことを考えすぎて幻まで見えるようになったのだろうか……
 コール音は鳴り止まない。
 躊躇って、携帯電話を拾えずにいるヒカルは耳障りな着信メロディーを聴き続けていた。
 ――だってかけてくるはずがない。
 最後にかかってきたのはあの日。アキラが自分を待っていたあの日の夜、一度だけかかってきた電話は、数回のコール音を残して途切れた。
 あの日以来、アキラと連絡を取り合うことはなかった。アキラもそれでヒカルの意図を理解したはずだ。おまけにその後逃げるように韓国まで飛んだのだから。
 ――かけてくるはずがない。
 だってアキラは帰国したヒカルの存在を気に留めていなかった。
 棋院で会っても会話もなく、目が合えば逸らすどころか軽い会釈を返してくる。意識していない証拠だろう。
 ごく自然に、婚約者を紹介してくれたりもした。
 だから、ヒカルはもうアキラの特別でもなんでもないのだ――
 まだコール音は鳴り止まない。
 何か重要な用事でもあるのだろうか。
 ひょっとしたら、こんな自惚れた考えとは全く別の事務的な用件を伝えたいのかもしれない。
 それならば合点がいく。棋院から言付けを頼まれたとか、いくらでも理由はある。真面目なアキラはそういったことを他人任せにはしないだろうから……
 せめて留守電をセットしておけばよかった――ヒカルは舌打ちする。
 声に動揺を表さない自信がないのだ。ひょっとしたら少し上擦ってしまうかもしれない。それをアキラに悟られるのは辛い。
 まだコール音は鳴り止まない。
 仕方ないとヒカルは腹を括った。深呼吸して、なるべく平静を装って、そっと携帯を手に取る。
 ――大丈夫。顔を見ている訳ではないから、大丈夫だ……
 自分に言い聞かせて、震える指で通話ボタンに触れた。
 その指に力を込める寸前、あることに気がついた。

 ――塔矢、俺の携帯番号消してなかったんだ……

 咄嗟にボタンを押すのを留まろうとした、しかしすでに親指は通話ボタンを押し込んでいて。
 けたたましいメロディがようやく途切れた。



『――……』

 騒音から解放された途端、受話器からは無音が広がる。
 ヒカルは恐る恐る声をかけた。
「……、……もしもし?」
 すぐに返事は返ってこなかった。
 電波が悪いのかと携帯を耳から外し、画面のアンテナ表示を見ようとした時――

『何故?』

 低い囁きにどきんと心臓が跳ねる。
 アキラの声。

「……、……え……?」
『何故、何も言ってくれなかった?』
 アキラの言葉の意味が飲み込めず、ヒカルは再び「え?」と呟くことしかできなかった。
 様子がおかしい。事務的な用事ではない。押し殺した吐息混じりの苦しそうな声は、とても普段の冷静なアキラのものとは――

『――藤田さんから全て聞いた』
「!」

 ヒカルは思わず取り落としそうになった携帯を、ギリギリの精神を奮い立たせて握り締める。
 アキラの言葉の意味を全て理解した。
 ――藤田さん、隠しきれなかったんだ……
 ヒカルは眉を顰め、目を閉じた。
 うっかり口をついたのか、アキラが何か感づいたのか。
 ヒカルは時計を見る。すでに時刻は午前零時を過ぎていた。――あと二週間だったのに。
『何故キミは何も言ってくれなかったんだ。ボクは……、ボクは、てっきりキミが』
「塔矢」
『キミがボクを拒否したのだと……』
 苦しげな囁きにヒカルは口唇を噛んだ。
『キミは姿を現さなかったどころか、ボクから逃げるように韓国へ行ってしまったじゃないか! ボクはそれがキミの答えだと思っていた! だから、だからボクは、キミを忘れて違う道を進もうと』
「お前の言う通りだ、俺はお前から逃げた。それが現実だよ。だからお前は今のままでいいんだ」
『でもキミの意志じゃなかった!』
 ヒカルの言葉に被さるように叫んだアキラの声が耳に響く。
 ヒカルは立っていられなくなって、力なくベッドに腰を下ろした。
 スプリングに揺られながら、膝に肘を立ててぐしゃりと前髪を潰す。
「……だとしてももう終わった話だ。何も変わらないよ」
『ボクは終わらせたくない』
「……塔矢!」
 ヒカルは咎めるような声でアキラの言葉を留め、天を仰いだ。
「ムチャクチャ言うな。俺らの間には元々何にもなかっただろ。大体お前、もう少しで嫁さんもらうんじゃねえか。今更……」
『やめる。結婚はしない』
 アキラの言葉にヒカルはぎょっとして目を剥いた。
「ば……か言ってんじゃねえっ! ふざけんな、お前、周りの人がどれだけお前のために骨折ってると思ってんだ! やめる、しないってガキの遊びじゃねえんだぞ!!」
『キミを忘れようと思った! でも出来なかった、今のまま結婚したって彼女を不幸にするだけだ、それがよく分かった!』
「馬鹿野郎、もっともらしいこと言ってんじゃねえよ! お前幸せなんだろ、幸せそうに笑ってたじゃねえか! お前は自分がどんだけ勝手なこと言ってんのか分かってんのかっ!」
『分かってる、ボクは最低だ! キミを信じられなかった、おかげで関係ない人を傷つけることになった……何もかもボクが悪い』
「待てこの馬鹿、一人で結論出してんじゃねえっ! 大丈夫だ、お前はあの人を幸せにできる! お前も幸せになれる……」
『もう無理だ!』
 言葉を遮られ、ヒカルの頭にカッと血が昇って行く。
 ついこの前、パーティーでアキラと交わした当たり障りのない会話が遠い昔のようだった。
 あの時のアキラと今のアキラが結びつかなくて、そのもどかしさに口唇が震える。
 ――今更何を言い出すんだ。
 それが本音だった。
「お……前、訳の分からないこと言うな! 何一人で突っ走ってんだよ。もう俺は関係ねえだろ! お、俺だってもうお前のことなんかどうでもいいんだ! 今頃昔の話を蒸し返されても……!」
 旨く続きを繋げることができなかった。口唇がどうしようもなく震えてしまって情けなさに舌打ちする。
 ところが、ヒカルが話の展開を倦ねていると、アキラから思い掛けない声が飛んで来た。
『なら何故ボクをあんな目で見ていた!』
 アキラの言葉に、ヒカルはひゅっと息を吸い込んだまま声を出せなくなった。
 ――あんな目……?
 ゆらゆらと視界が揺れるのは、熱が頭に昇ったせいだろうか。それとも怒鳴りすぎて酸欠になっただけだろうか。
 気づかれていないと思っていたのに。
 ひっそりアキラに送る視線を、周りの誰にも悟られないようにしようとしていたのに。
 ――隠しきれなかったのは、俺も同じだったのか……
 当の本人が気づいていては意味がない……
『キミだってまだ』
「やめろ」
『まだ、ボクのことを』
「やめろ! やめろやめろ!」
 喚き散らした自分の声でアキラの声を掻き消した。
「オ……レはお前のことなんかなんとも思ってないっ! 大体、お前だって藤田さんから話聞くまでは俺のことなんか考えちゃいなかっただろ!? お、お前なんか信じらんねーんだよ、今更適当なこと言いやがって!」
『キミの心がボクにないなら、誰と一緒にいたって同じだと思っていたんだ! でも違った!』
「違わないっ! 俺の心は俺のもんだッ!」
 息も絶え絶えに大声を張り上げると、無性に鼻の奥がツンとした。
 どうして今になって、こんなことになってしまったんだろう。
 ――自分ひとりで抱えて生きていくって決めたのに!
 こんな形を望んでいたわけじゃなかった。本気でアキラに幸せになって欲しいと思っていたのに、最悪のタイミングでアキラが気づいてしまった。
 アキラが自分を忘れたからこそ抱えられるものだったのに。
『……進藤』
 びく、と身体が震える。
 熱のこもった囁きで名前を呼ばれるのは久方ぶりだった。
 揺らぐ気持ちを必死で抑え、呼吸を整える。
 駄目だ。毅然としていなくては。ここで踏ん張らなければアキラのためにならない。
 今のアキラは冷静さを欠いていて、感情に任せて口を開いているにすぎない。
 落ち着けば、きっと気がつくはずだ。
 自分たちの関係に、始まりなどないのだと。
『進藤。……待ってる』
「……なに?」
『待ってる。あの場所で、待ってるから。キミに時間が必要なら、それも待つ。――二週間後に、あの場所に』
 ――二週間後。
「ば……か、馬鹿! 馬鹿野郎! お前、その日に入籍すんだろ!」
『待ってる』
「行かねえ、俺は行かねえぞ! 絶対に行かねえ!」
『待ってるから』
「行かねえっつってんだろ、頭冷やせ馬鹿! お前は何にも分かっちゃいねえっ!」
『――待ってる』
「塔――」
 ぷつりと声が途切れた。
 ツー、ツーと無機質な音が耳を刺し、ヒカルは通話も切らずに携帯電話を部屋の隅へ投げ捨てた。
「馬鹿野郎……!」
 なんて馬鹿なことを言い出すんだろう。
 一年前、人がどんな思いで諦めたのかも知らないで。
「そんな簡単なことじゃねんだよ……」
 ベッドに腰掛けたまま横向きに倒れ、顔を覆うように蹲った。
 アキラは逃げたヒカルに失望して新しいパートナーを得たのではなかったのか。
 あんなに幸せそうに彼女をエスコートしていたというのに、あっさり気持ちを変えてしまえるものなのだろうか?
 ――それとも本当は、あの日からもずっと自分のことを……
(――いや!)
 そんなはずがない。
 だって、アキラは帰国した自分を見ても顔色ひとつ変えなかった。
 驚いた様子も、嬉しそうな様子も、怒りや憎しみさえ見られなかった
 無関心の表情が、どれだけ胸に堪えたか。
(昔のことを思い出して、一時的に動揺しただけだ)
 少し時間が経てばきっと冷静になる。何より、周囲が許すまい。
 入籍は二週間後。挙式は約三週間後。
 今更何を血迷ったところで、どうにかなるものではない。
(そんな中途半端な覚悟じゃなかったんだ、俺は)
 ――今でも胸が張り裂けそうに苦しいっていうのに!
「……馬鹿やろお……」


『――進藤』


 久しぶりに聞いた、アキラのあの声。
 言葉の出だしが少し掠れた、低く耳に残る声。
 ……かつてよく聞いていた、自分のためだけの特別なあの響き。







うわっ情けなっ!開き直りやがりました。
ここでもう一度パーティーの様子を読み返すと、
痩せ我慢かよダセエと思わずにいられません。