リリス






 一方なんとか自宅に帰りついたヒカルといえば。
 せめて道端でだけは、と堪えに堪えた吐き気についに屈服し、部屋に飛び込むなりトイレに駆け込んだ。
 便器の蓋を開ける動作が一秒遅れていたら間に合わなかったかもしれない。顔を突っ込む勢いで胃の中のものを吐き出して、胸から喉を刺激する苦痛に半泣きになる。
 ここまで酔っ払ったのは久しぶりだった。今までも何度か仲間と馬鹿騒ぎして同じ経験をしたことはあるが、何度やっても後悔するのはその時だけだと自分の学習能力の低さを恨む。
 記憶を飛ばすまで飲んだことはこれまでもあった。が、大抵誰か一人はまとめ役が残っていて、顛末の後始末をしてくれたりするものだ。
 それが今回はどうだ。たった二人で飲んだくれて、どうやら二人で記憶を無くしたらしいだなんて。
 夕べ何があったのか、いくら鈍い自分だって察しがつく。それはとんでもない予想だったけれど、身体中に残る痕跡を前にしてシラをきり続けるほど図太くはない。
 脚の付け根が痛いのだ。まるで念入りに脚を開いてストレッチをした後のように、……要するに大股開いて筋肉痛になった時のように。
 服を着た時だって、胸や腹に虫に食われたような小さな斑点が散らばっているのを見つけてしまった。飲む前はなかったはずのこの痣がなんなのか、分からないほど子供ではない。
 何よりも、……尻が痛い。入口の擦れるような痛みと、更に内部に感じる妙な圧迫感。何かが挟まっているような妙な感覚だが、何も挟まっていないことはわかっている――「今」は!
 ひとしきり吐き続け、いよいよ出すものがなくなって、ヒカルは便器に掴まりながら体力の回復をはかった。臭いが再び胃を刺激しそうだったので、よろよろと手を伸ばして水を流す。
 情けなさに涙が滲んでくる。
 ――なんでこんなことになっちゃったんだろう。
 これはもちろん二日酔いに対してではない。身体の処々に残る違和感に対してだ。
 信じられないことだが、どう考えても、そうとしか思えない。

 ……俺、塔矢に食われた……?

 頭ではありえないと否定するのに、身体がしっかりと肯定している。
 それ以外に考えられないではないか。これだけ身体に証拠が残っていて、二人でベッドで全裸で寝ていたのだ。他の誰が乱入するはずもない。相手はアキラしか考えられないのだ。
 何故そんなことになったのか、さっぱり思い出せない泥酔ぶりに腹が立つ。アキラの様子を見る限り、彼もまた覚えていないようだから、このまま無かったことにしてしまおうとあんなことを言ってはみたけれど。
(……ヤッちまったんだよな……)
 何も無かった、忘れましょうでは済まされない。
 とんでもないことをしてしまった、と心は罪悪感でいっぱいだ。
 何故掘られた自分が罪の意識を感じなければならないのだとも思うが、正体不明になるまで酔わせたのは自分にも責任がある。しかも、こっちも酔っ払って何一つ覚えていないのだから、合意だったのか、そうでなかったのかさえ分からずに、一方的にアキラばかり責められない。
(まさか、俺が……誘ったとか、ないよな……)
 ヒカルは青ざめた。覚えていないが、かつて酔って和谷にキスを迫ったことがあるらしい。後から伊角に聞かされてうげっとなったものだったが、そのノリでアキラをベッドに引っ張り込んだのだとしたら……
 考えたくない、と口唇を噛む。吐瀉物の感触が残る口内は気持ちが悪く、まだ身体はフラついたが、水を求めてヒカルはようやく便器から離れた。




 ***




 ようやく地下鉄を降りて地上に上がると、太陽の眩しさが憎らしいくらいに目に染みた。
 アキラは自然と皺が寄る眉間を何とか気力で伸ばし、さあ仕事だと胸を張る。……が、やはり胃の不快感は残っていて、すぐに背中を丸めてしまうことになった。早く薬が効いて欲しいと切に願いながら、アキラは棋院までの決して遠くない道のりを恨めし気に歩き出す。
 酷い自己嫌悪だ。酔ってただ記憶をなくしただけならともかく、考えるのも困難なことをしでかしてしまったなんて。
 一体どういう流れであんなことになったのだろうか? そもそも、ヒカルは納得していたのだろうか? 朝の様子では彼もまた覚えていないようだったから納得もくそもないが、夕べ……肌を重ねただろうその時はどうだったのだろう。
(……身体は痛むが、目立った傷があるわけではない)
 出かける前に、怠い身体を引き摺って飛び込んだバスルームで見た自分の身体には、何の外傷もなかった。
 つまり、力任せにヒカルを押し倒して無理矢理事に及んだと言う訳では無さそうだ。彼だって男性なのだから、本気で嫌がったら傷のひとつやふたつでは済まない乱闘になっているだろう。
(……でも、もし前後不覚になるまで酩酊した彼をボクがいいようにしたのだとしたら……)
 アキラは何とも言えない渋い表情になった。
 それだけは本当にないと信じたい。覚えていないのだから否定もできないが、そんな人としてやってはいけないことを自分がしただなんて思いたくない。
 ああ、せめて記憶が少しでもあれば……。アキラは痛む頭を堪えて、なんとか昨夜の事を思い出そうと努めた。
 いくらお互い無かったことにしようと戸惑いに蓋をしても、しっかり根付いた気まずさはもう決して引っこ抜くことができない。これから顔を合わせる度に何とも言えない気分になるのは辛い。
 アキラにとってヒカルは唯一無二のライバルであり、彼と真摯な気持ちで打ち合えないことは今後の自分の囲碁人生にとってかなりのマイナスになると、大袈裟ではなくそう思っていた。
 何故あんなことになったのか、そのきっかけが分かるだけでもこれからのヒカルとのつきあいに多少のクッションを敷いてくれるのではないだろうか? そんなささやかな期待を胸に、アキラはもう一度昨日の出来事を順に整理し始めた。そう、棋院でヒカルと会った時から順番に。




 昨日は……そう、十段戦の最終予選決勝で芹澤先生と対局した。
 ボクにとっては苦手な相手だった。これまで公式戦での勝率は五割、ひょっとしたら四割くらいかもしれない。隙らしい隙を見せない芹澤先生の懐に飛び込むきっかけがなく、今回も終始ペースを奪えずにやられてしまった。
 何度となく芹澤先生への対策を研究して来たボクにとって、この敗北はかなりこたえた。ちっとも成長していない自分の棋力に情けなささえ感じて、どうしようもなく腹立たしく、半ば自棄になりながら対局室を出た。誰も声をかけてこなかったから、苛立ちはすっかり顔に出てしまっていたのだろう。もっとも、声をかけられても振り向く余裕はなかっただろうけど。
 エレベーターを降りてロビーに出ると、階段で上から降りて来たらしい進藤とはち合わせた。彼の顔もなかなか酷かった。不貞腐れたような、悔しさをありありと滲ませた口元の歪みっぷりは、彼もまた今日の勝負に負けたのだろうことを容易に想像させた。
 ボクだって人のことを言えた表情じゃなかったから、お互いすぐにピンと来た。そうして気まずげに視線を合わせていると、彼のほうから声をかけてきたんだ。
『……よう。久しぶり』
 そうだ、確かに久しぶりだった。ここのところお互い忙しくて、一緒に打つ機会も少なかった。
 時折メールをやりとりする程度で、きちんと口を聞いたのは数カ月ぶりだろうか? 公式戦でもしばらく当たっていなかったから、全くだと思ってボクも答えた。不思議と、声をかけられて鬱陶しいと思うような気持ちは見当たらなかった。
『ああ、久しぶりだな。……今日は?』
 彼は下口唇を突き出すように尖らせて、ぼそっと呟いた。
『棋聖戦の最終予選決勝。……倉田さんが相手だった』
『そうか。……ボクは十段戦。芹澤先生とだった』
 勝敗は聞かなかった。暗黙の了解だ。分かり切っていることを確かめるほどボクにも彼にも気持ちの余裕はなかっただろう。
 ボクも進藤も、若手の中ではリーグ戦の常連と言われて持ち上げられることが多かったから、慢心ではなくその期待に応えたいという意識はあったはずだ。他の棋戦ではそれなりに上位に食い込んだり、それぞれ挑戦者の椅子に座ったこともある。残念ながら、まだタイトルを手にするまでには至っていないのだが。
 そんなボクらだから、顔を見た時に自分たちが抱えている微妙なプレッシャーのようなものの存在も敏感に嗅ぎ取ってしまって、今日の敗北にどれだけ気持ちがさざめいているか、心底よく分かる気がしたのだ。進藤だってきっとそんな気持ちだったのだろう。
 だから彼から誘ってきたのだ。
『なあ……今日ってこの後なんかある?』
『この後? ……いや、別に……』
『なら、メシでも食いに行かね? 軽く飲みっつうか……お前と顔合わすのも久しぶりだしな』
 少し気恥ずかしそうな表情で、言い訳するみたいにボクを誘う進藤の心情が手に取るように理解できた。
 彼が誘わなかったら、ボクから声をかけていたかもしれないのだ。「これから時間はないか?」と。
 なんだか、少し飲みたい気分だったのだ。それも、普段二人だけで遊びに出かけることなどほとんどない進藤と。
 だからボクは彼を安堵させるためにも、穏やかにこう返した。
『いいね。門下の人間とよく行く店があるんだけど、落ち着いていてなかなかいいところだよ。どうだ?』
『お前のオススメなら間違いないな。んじゃ、そこ連れてって』
『了解』
 まるでごくごく親しい友人同士のような会話だっただろう。
 実際、並んで歩いている時はそんな気分だった。
 口を開けば碁の話題ばかりだったけれど、たまには進藤とこんなふうに出かけるのも悪く無いなんて思った。彼も同じようなことを考えていたのか、
『お前と二人で飲みに行くのってなんか新鮮だよなあ。まあ、俺らも酒飲めるようになって何年も経つんだから、たまにはいいよな』
 まるで二人で飲むことへの弁解みたいなことを言って、ボクは思わず苦笑してしまった。
 そう、ボクらと言えば出逢ってから相当な年月が経つのに、いつまで経っても囲碁、囲碁で。
 お互いのプライベートどころか、せいぜい知っているのは携帯電話の番号とメールアドレスくらいで、それも頻繁にやりとりしている訳じゃない。
 新鮮だ、というのは全く同感だった。
 目的地が碁とは関係ない場所へ、二人で一緒に向かっている。
 その真新しさが知らず気持ちを浮かれさせていたのかもしれない。
 自分の酒量も弁えず、あんな馬鹿みたいな飲み方をしたのは本当に初めてだった。
 ……でも、それだけ楽しい酒だったんだ。






大体こんな感じで二人の回想がこれから続くのですが、
あらかじめ内容を考えずに彼らが喋るままに任せて
出来事を書き出して行ったので、無計画に長くなりました……