リリス






 まだ吐き気の残る胃を押さえながら、このベタつく不愉快な身体を何とかしなければとバスルーム目指して足を引き摺って、脱衣所でヒカルはよれよれになった衣服を再び脱ぎ捨てた。迷わず洗濯機の中へ放り込む。
 皺々になったシャツを忌々しく見下ろしたヒカルは、朝からずっと変わらない冴えない顔のまま、のろのろとバスルームの扉に手を伸ばした。中に入ってシャワーノズルを捻り、飛び上がりそうに冷たい水が徐々に熱を帯びていくことへの安堵で身体の緊張を緩ませて、ヒカルはほっと息をつく。
 頭から湯を浴びると、汗と酒の不快な臭いが洗い流されて行くようで、少しだけ気持ちが軽くなる。
 だが、少しだけだ。残りの大部分は未だとんでもない現実に慌てふためき、おろおろと取り乱している。
 ――なんか、浮かれてたのかなあ、俺……
 がしがしと髪を洗いながら、ヒカルは物悲しい溜め息を漏らしてそんなことを考えた。
 アキラと飲みに行くことなんて滅多になかったし、おまけに駄目元で持ちかけた誘いに応えてくれたどころかアキラ自ら店を提案してくれて、こいつ結構ノリいいじゃんなんて嬉しくなってしまったのだ。
 そうだ、きっとあの時からすでに自分はハメを外してしまっていたのだ……



『うわ、マジ洒落てんじゃん。俺、もっとちゃんとしたカッコしてりゃよかった』
『大丈夫だよ。客層は案外くだけてるんだ。座席が区切られていて気兼ねがいらないから、気に入ってるんだよ』
 塔矢は慣れた様子で俺を先導して、席に着いた後もまるで店の人みたいにメニューを寄越して「何がいい?」なんて尋ねてきた。俺はずらっと並んだメニューの前でうんうん悩むのは面倒だったから、
『じゃ、最初はビールで』
 適当なことを言ったら、
『それじゃあボクも』
 意外にも俺に合わせてくれた塔矢が何だかすっげえイイヤツに見えちゃって。
 二人分のビールといくつかつまみを注文して、ビールが運ばれて来た後は柄にもなくカンパイなんかしたりした。
『何に乾杯?』
『敗北記念』
 大分今日の負けを茶化せるようになってきた俺の言葉に、アイツは苦笑した。
 それからぐいっと二人でビールを煽って、喉を通って行く冷たい炭酸の刺激が気持ち良くて……一杯目を空けるのはどっちも早かったな。で、またメニュー見るのも面倒だからビールを追加した。
 最初は飲んで飲んで喋って、みたいな一定周期があったけど、やがてそれが飲んで喋って飲んで喋って、に変わっていった。
 まずはお互い負けたことはすっかりバレてるんだからと、その日の対局の様子を話し合って。
 俺は倉田さんの誘いに不用意にノッたせいであっさり罠にかかったけど、塔矢は最後まで辛抱強く粘ったのに芹澤先生に押し切られてしまったらしい。
 俺の負け方も情けねえけど、コイツの負け方も結構辛いななんてしみじみしてしまった。
 どっちかというと俺も塔矢も、そういう流れには強いはずなんだ。自信のあるフィールドで負けた時のダメージって案外ずっしりくる。
 普段一緒に飲むことは滅多にないから、塔矢のペースがどんなもんかは分からなかったけど、たぶんちょっと早かったんじゃないかな。俺もそこそこザルのつもりだけど、ほとんど俺と変わらないタイミングで次々ビールを頼んでたから。
 で、まあ当たり障りのないことをぺらぺら離しているうちに、どんどん気分が良くなっちまったんだ。イイ具合に酔ったっつうか。要するに楽しくなってきた。
 それで、つい甘ったれた気持ちになってぽろっと愚痴っちまったんだ。
『あーあ、これでまた来期は予選からかあ。なんかこの前も森下先生にツメが甘いんだよ、油断すんなってどやされてさ。そんなつもりねえんだけどなあ』
 言ってから、咄嗟にしまったと思った。
 実は、俺にしては珍しく気にしていたことだったから。
 世話になってる森下先生に、真顔で諭された。俺にそのつもりがなくても、先生は熟練の目で俺の弱さを見抜いていたのかもしれない。
 ――進藤。お前、どっかで自分の力を過信してんじゃねえのか?
 そんなことはないと思いながら、すぐに否定できなかった。
 予選を通過するのが当たり前、各棋戦のリーグ戦にはとっくに常連になっていて、メディアにも結構な頻度で露出してる。
 勝って当然と思い込んで、少し調子に乗ってた部分は確かにあったかもしれない。
 碁には真摯に向き合ってきたつもりだった。でも、そう思い込んでるだけで実際はどうだったかと振り返ると、いちいち耳の痛いことばかりが浮かんできて、そんな自分のダメっぷりに結構凹んだんだ。
 だから、森下先生に言われた言葉は誰にも言わずに胸の中にしまってた。
 人に言っちゃうと思った以上に自分が気にしてたことを実感しちゃって、なんか惨めになるからさ。
 誰にも言うつもりなかったのに。
 ぽろっと出てきた。それも、相手は塔矢だ。
 甘えるなって言われると思ってた。コイツも碁馬鹿だからな。碁にかける情熱は人一倍強くて、きっと森下先生と同意見だと思ったから。
 まずいなあ、コイツにまで諭されて俺また凹むかなって肩を落とした時、
『ボクだって、よく言われるよ。気持ちばかりが前を向いて力が伴っていないってね』
 そんなことを自嘲気味に呟いたもんだから、驚いてつい目を丸くしちまった。
『だ、誰がお前にそんなこと?』
『兄弟子や、……父にね。自分ではタイトルを取って当然と思っているだろうが、そんなに甘いもんじゃないと』
 そこまで言って塔矢ははっとし、口を噤んでしまった。
 ……たぶん、コイツも俺と同じで相当言われた言葉を気にしていて、人に愚痴るつもりなんてさらさらなかったんだろう。
 酒のマジックってすげえな、とか思いながら、俺は塔矢が気まずい思いをしないように店員を呼んだ。
 なんかすげえコイツの気持ちがよく分かったんだ。
 そうだよ、俺らって棋界では並んで取り上げられることも多いように、立場は違っても同じような境遇に立たされてることだって多いんだ。
 きっと今の俺の気持ちは塔矢にしか分からなくて、今の塔矢の気持ちは俺にしか分からない。
 その時はっきりそう思った。それで、とことん飲もう、俺がつきあうからお前もつきあえ、なんて気分になったんだ。
 店員がやってきてオーダーを取りにくる。
『そろそろビール以外にするか? お前、何がいい?』
 俺の意図を分かってくれたんだろう。塔矢は少し躊躇ってから軽い苦笑いを見せ、じゃあ、とメニューを指差した。
『ワイン。赤で』
『んじゃ、俺も』
 顔を見合わせて笑った。
 なんだか、凄く心が通じ合ったような、……酒のせいもあったかもしれないけど……ホワホワした優しい気持ちになったんだ……




 ***




「具合、悪そうだね。……昨日結構いっちゃったのかな?」
 意外そうな苦笑いを見せて、出版部の担当者は小声で尋ねてきた。
 アキラは困ったような笑みを浮かべてごまかすことしかできなかった。
 顔色は悪く、まだ胸がすっきりしていないせいで呼吸も浅くて、何より僅かに酒の臭いが残っているだろう。ごまかしようもないが、そうなんです、と砕けてしまえるほど得な性格もしていない。
 「塔矢アキラ」が二日酔いで仕事に現れただなんて、我ながら恥ずかしい話だと頭を抱えたくなる。
 それでも担当者はアキラの意図を汲んでくれたのか、それ以上昨夜のことを尋ねるようなことはせず、あまり頭に響かないよう配慮してか、優しい声で仕事の話に入り始めた。
 週間碁に載せる短いコラムについての簡単な打ち合わせは、恐らくアキラの体調を気遣ってか、予定よりもずっと早い時間に切り上げられた。

 情けない、とロビーで購入したブラックコーヒーを口にしながら、アキラは寝起きよりはずっと身体が楽になってきていることを実感する。
 しかし胸に居座るむかつきは完全にはなくならず、アキラは怠い身体の要求にしたがってベンチへと腰を下ろした。
 はあ、とため息に混じって酒の臭いが逃げていく。
 夕べはあんなに楽しかったのに。一晩経ってこの有様はどうだろう。
(……そう、楽しかったんだ)
 ヒカルとあんなふうに分かり合える気になれるなんて、思ってもみなかったから。
 つい調子に乗ってワインなんて頼んでしまって……



『大体さあ、俺らだってひょいひょいっと今の位置まで来れたわけじゃないじゃん? それなりに努力してさ、毎日勉強してさ、それでも周りにそんなこと言うわけいかないから余裕ですって顔作ってさあ』
『全くだ。出来て当たり前だと思い込まれているからな。その当たり前を保つためにどれだけの時間と苦労が必要なのか、彼らはみんな誤解している』
『そうだよ、そのくせちょっとしたことでぶつぶつ文句言ってさ、俺なんかしょっちゅうだぜ、格好がだらしない、態度が悪い、塔矢を見習えって』
『ボクを?』
 思わず聞き返すと、進藤は少しバツが悪そうな顔になった。
 でもボクも結構な勢いでアルコールが回っていたから、躊躇った彼に構わずに追求してしまったんだ。
『ボクを見習えだと? どうせ父の威光の下でしかボクを見ていないお偉方の言う事だろう。そんなこと気にする必要はない』
『塔矢……』
『キミはしっかり結果を出している。そりゃあ、公式な場で場違いな服装をしたとかなら別だが、そういったことはしていないじゃないか。気にするな、堂々としていればいい』
 進藤は目をぱちぱちさせて、それから少し頬を赤らめたようだった。ワインのせいだけじゃないだろう。小さな声で「サンキュ」と礼を零した仕草はなんだか気恥ずかしそうだった。
『お前がそんなこと言うなんて思わなかった。……俺さ、なんか悪目立ちするだろ。この髪とかさ。地毛だっつうのに信用しないおっさんとかいてさ……』
『地毛?』
『つい、「そんなに髪を何とかしろっつうなら真っ黒にしておかっぱにしてやる!」って言っちまったことあるんだ。そしたら向こうも黙っちまって。……悪かったな』
 今思えば相当ボクに失礼な発言だが、ボクはそんなことよりも彼が自分の金色の前髪を「地毛」だと言ったことのほうに興味を惹かれていた。
 そうして魅入られたように手を伸ばして、そっと柔らかそうな金色に触れてみたんだ。
 キミは驚いた顔をしていたが、振り払おうとする素振りは見せなかった。ただ、物珍しげに(それも不躾な態度だったと思うのだが)髪に触れるボクをぼんやり見ていただけだった。
『これ……地毛なんだ』
『……そうだよ。生まれつき』
『そうなんだ……。地毛だというのに文句を言う人間がいるのか?』
『いるよ、信用されてねえもん。地毛だろうが何だろうがとにかく黒くしてこいって何度も言われたよ』
 寂しげに吐き捨てた進藤を見て、その不憫さをダイレクトに受け取ったボクは、一気に頭に血が昇ったのをこの身を持って実感した。
『そんなの、酷いじゃないか!』
 ボクの怒鳴り声に進藤はまた目を丸くした。が、すぐに「そうだろ? 酷いよな?」とちょっと甘えた口調で同意を求めてきた。
『そうだ、それはおかしい。キミが怒るのも無理は無い! 生まれ持ったものにケチをつけるだなんて、人類に対する冒涜じゃないかっ!』
 ボクはすっかりその気になって、演説よろしくくどくどと進藤が受けた屈辱に対して弁護をし始めた。最初こそ目を白黒させてボクの話を聞いていた彼だったが、やがて頭に入ってこなくなったのか、もういいと憤るボクを宥め始めた。
『も、もういいよ。ホントはそんな、そこまで気にしてる訳じゃねえんだ』
『でも、キミには怒る権利がある! 大体、ちょっと目立つだけでおかしくなんかないじゃないか。その髪、ボクはとても綺麗だと思う』
 驚くほど素直にそんな言葉が出てきた。
 まさしく酒の勢いというものだろう。普段なら決してあんなこと、恥ずかしくて言えたもんじゃない。
 確かに進藤の前髪は特徴的で、口さがない人々が陰口を叩いているのを聞いたことがあるが、ボクは実に彼らしい眩しい金色がよく似合って綺麗だと思っていた。
 もちろん一度も本人には告げたことはなかったし、告げるつもりもなかったのに、うっかりと酔った弾みで暴露してしまって……
 進藤はまた目を大きく開いてぱちぱち瞬きをしてみせたが、やがてへらっと笑って
『まじ〜?』
 なんて照れくさそうに頭を掻いていた。
 とても嬉しそうで、いつにも増して幼く見えて、なんだか可愛らしささえ感じる表情にボクもなんだか嬉しくなったんだ。
 進藤が喜んでくれたことが、ボクにも喜ばしかった。






この感じがもうちょっと続きます……
牛歩小説相変わらずですいません……