濡れた髪を乾かしながら、ヒカルは身体が大分回復してきたことを感じていた。 帰宅途中によれよれになりながら立ち寄ったコンビニで購入したドリンクが効いたのかもしれない。もしくは、これまでの経験値のおかげで免疫がついてきたのか…… 「だったら、記憶なくすなっつうの」 独り言を呟いて、重苦しいため息をつく。 ――マジで酒の飲み方考えないとダメかも。 まだアキラ相手だったから良いものの、誰彼構わずこんなことになったら…… そんなことを考えかけて、はたとヒカルの思考が停止する。 (バカっ、アイツだからっていいワケねえだろ!) 相手が誰だろうと大問題なのだ。そう、おまけにアキラは男ではないか。更に痕跡から推理するに、女役を受け持ったのは……自分だ。問題がありすぎる。 ヒカルはどっかりソファ代わりにしているクッションの上に腰を下ろして、置時計を見上げた。――午前十一時。 そろそろ出かける支度をしなければ。頭はそう言っているのだが、身体がどうにも言う事を聞かない。 まだ夕べのことが気になっている。こんなことになってしまった原因は一体なんだったのだろうと、絶えず記憶を巡らせて―― 『もう、こんな時間か……』 腕の時計を見つめながら、塔矢が酷くがっかりした口調で呟いた。 俺も釣られて時計を見る。店に入って二、三時間は経っていただろう。そろそろ店側としても鬱陶しい客になってるかもしれないし、今日はあらかじめ予定していた飲み会でもなんでもない、いつもならここらでお開きって話になったんだろうけど。 随分飲んでたのに、まだまだ飲み足りなかった。正確にはもっと「塔矢と」飲みたかったんだ。 だってさ、普段愚痴なんか言い合わない俺たちが、多少なりとも酒の力を借りてくっだらねえことぶちまけあって、シンボクを深めるっつうの? まあ、なんか仲間意識ができちゃったわけよ。 せっかく盛り上がってきたのに、ここで終わりたくない! そんなふうに思っちゃったんだ。 俺、多分顔に出てたんだろうなあ。塔矢はちょっと躊躇いながら、でも優しい顔でこんなことを言ってきた。 『そろそろ出ようか。……もし、この後も予定がないのなら……店を変えて飲み直さないか?』 俺は尻尾を振る犬のごとくその言葉に飛びついた。 『い、行く行く! おっし、じゃあ今度は俺が連れてってやるよ! こんなキレイなとこじゃないけどさ、オススメあるんだ』 『ああ、連れて行ってくれ』 その時にっこりと微笑んだコイツの顔がすげえ綺麗で、不覚にもどきっとしちまった。 美形はああいうとき迫力だよな。何でもない仕草が妙にサマになるっつうか。 んで、俺は情けなくも塔矢に見惚れながら最初の店を出て、二件目によく和谷たちと行く隠れ家っぽい店へ塔矢を案内した。 もう店の親父には完全に顔を覚えられてるくらいで、気兼ねもないし何より焼酎の品揃えがいい! ……と思ったんだけど。 『……焼酎が多いんだな』 『ああ、それがこの店の売りでさ……って、ひょっとしてお前焼酎ダメだった?』 塔矢がやけに渋い顔をしていて、俺は選択を誤ったことに気付かされた。 そういやコイツと焼酎って面白いくらい似合わねえ。 しまった、まずったと焦る俺の横で、塔矢は難しい顔してメニューを覗き込んでる。 親父、そんな様子見てたのかな。助け舟出してくれたんだ。 『素人にはこれがオススメだよ。ま、騙されたと思って飲んでみな』 そう言って塔矢の前にとんと焼酎を置いた。 塔矢はまじまじそれを見つめていたが、やがて礼儀だとでも思ったんだろう、意を決したようにぐっと一口、口につけた。 俺は反応が怖くて肩を竦めたまま様子を伺ってた。そうしたら、塔矢はまるで目が覚めたみたいな顔をして、 『……美味しい』 なんのお世辞も感じられない素直な様子でそう呟いたんだ。 『そうだろうそうだろう! なあに、飲まず嫌いってやつさ。うまいもんはうまいんだよ』 親父が豪快に笑った。 塔矢も相槌を打つみたいに優雅に笑って、俺はようやくほっとした。 『悪かったな、知らなくて。知ってたら別んとこにしたんだけど』 俺は小声でそっと塔矢に謝った。でも、塔矢は全然迷惑なそぶりも見せないで、 『とんでもない。マスターのおっしゃる通りだ、美味しいよこれ』 『ま、マスター?』 『ボクは飲まず嫌いだったんだな。これなら何杯でもイケる』 強気なことを言いながらぐいっと残りを飲み干した。 その男気溢れる飲みっぷりに再びうっかり見愡れた俺は、我に返って負けじと親父にもっといいやつくれ、なんて張り合ったんだ。 甘い水飲んでるみたいだった。なんか、アルコールが身体に入っていく気がしないっつうか、ちっとも酔ってる気がしなかった。 もうとっくに限界超えてたんだろうな。潰れちゃえばまだ良かったのかもしんねえけど、しぶとく頑張っちまったんだからタチが悪すぎる。 だってさ、こんなちょっと薄汚い店で小奇麗なカッコした塔矢が美味しそ〜に楽しそ〜に俺の隣で飲んでるんだぜ。 初めて見た、なんか薄ら顔も赤くしてさ、やけにけたけた笑って、普段碁盤の前に向かってるコイツとは別人みたいに陽気になって。らしくなく愚痴ばっか零して、ちょっと尖らせた口唇がやけに子供っぽく見えたりしてさ。 たぶん、コイツ結構普段から無理してたんだ。周りからいい子いい子って言われて、期待されて、それにしっかり応えてきて、辛いとこあったんだろうな。 誰にも愚痴なんか言えなかったのかもしれない。俺にしか愚痴れないのかも、今コイツに必要とされてるのは俺なんだ! ……そう思ったら無性に嬉しくなって、もっともっとコイツと一緒に馬鹿騒ぎしたくなった。 『そもそも古豪の連中はしぶとすぎる! いい加減若い世代に道を譲るべきだ!』 『そうだ! 殺したって死なねえようなヤツラ相手に日々戦ってる俺たちの身にもなってみろー!』 ホント、くっだらねえこと喚いてたよ。あの店しばらく行けねえな。 なんたって、見かねた親父がそのへんにしとけって声かけてきたんだもんな。あの店でどんだけ飲んでも窘められたことはなかった。よっぽど……目に余ったんだろうな。 俺ら、最後のほうはもう何言ってんだか分かんなくなってたもん。そのくせ、そうだ、分かるぞ、塔矢お前いいヤツだな、進藤キミこそなんてすばらしい男だなんて大袈裟なくらいお互いを褒め称えて抱き合って……ああ、思い出すとちょっと辛くなってきた。 それで……そうだ、このまま帰るのがやっぱり惜しくなったんだ。 なんか離れたくなくて。恥ずかしい話、別れるのが嫌だったんだ。……もっと塔矢と一緒にいたかった。 『なあ、一局打とうぜ。俺とお前が揃ってるのに打たないなんてバカな話ねえだろお』 『全くその通りだ。ボクらは打ってこそボクらなんだ。打とう、今すぐ!』 もう救いようのねえ酔っ払いだ。 意気投合して肩組んで店を出て、タクシー捕まえて転がり込んで……あん時眠かったんだよなあ。いっそ寝ちまったほうがどんだけ良かったか。 塔矢が行き先に自分家を告げて、俺もくっついてタクシー降りて、コイツちょっときょとんとして俺を見た。 『キミ、帰らなくていいのか?』 その眠そうな半眼みたらちょっとムカっときて、口唇尖らして俺は文句を言った。 『なんだよ、一局打とうって言っただろお』 頬っぺたまで膨らまして無茶苦茶ガキみたいな主張をしたら、塔矢はああ、というように大きく頷いて、 『そうだった。打とう』 こっちがびっくりするくらい全開に笑ったんだ。 ……アイツ、あそこまでとことん酔ったの初めてだったんだろうな。 だって聞いたことねえもん。あんなに無邪気ににこにこ笑ってる塔矢アキラなんて。 *** 昼過ぎに再び自宅へ戻ってきたアキラは、ようやく思うように動き始めた身体をソファに沈め、ふうっと疲労の滲むため息をついた。 今日はそれほど大きな仕事が無くてよかったと心底思う。 頭を強く振らない限り、頭痛も耐えられないほどではない。胃の調子もかなり良くなったが、それでもまだ何かを食べたいとは思わない。 とりあえず水を、とキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、アキラははたと今朝のことを思い出した。 今朝は確かにヒカルもここにいて、一緒にヤケクソ気味に水を煽ったのだ。 苦いため息ばかりが漏れる。ずっと昨夜の行動を順に追っていたが、いよいよ後半になると記憶は少々おぼろげだ。 『おじゃましま〜す』 ボクの後にくっついてタクシーを降りた進藤は、上機嫌で玄関で靴を脱ぎ、ちょっとよろけながらひょこひょこ中へと入ってきた。 そうして廊下からリビングから物珍しげにきょろきょろと首を動かし、まるで鳥が辺りを見回してるみたいな動きがおかしくて、ボクは少し笑っていたように思う。 『お前んち、でかいんだなあ』 『そうか?』 『俺んとこもっとごちゃごちゃしててきたねーんだ。あ、そうか、キレイだからでかく見えるのかな……』 そんなことを呟いて、ソファでなくリビングの床に尻をぺたんとつけた彼は明らかに何かを待っていた。 ボクも今度は何故進藤がついてきたかをしっかり覚えていたから、いつもは寝室に置いている碁盤を我ながら情けない足取り(あれが千鳥足というものなんだろうか?)で運んできてやると、彼は手を叩いて喜んだ。 『おーし、打つぞ〜!』 実に無邪気な様子に、ボクもなんだか誇らし気になって、胸を張って碁盤の前に正座した。もっとも、その身体は絶えずフラフラと揺れていたのだけれど。 お互い向かい合って、今にも落ちそうな瞼をぎりぎりの隙間で堪え、 『おねがいします』 一緒に頭を下げた。 先番はどちらだったか……もうその辺はよく覚えていない。ボクは何色の石を持っていただろうか? たった二色さえ覚束ないなんて、とんだ酩酊ぶりに呆れ果てる。 恐らく、碁の内容も酷いものだっただろう。いや、だろうだなんてごまかしは良く無い。「酷い碁」だったのは間違い無いんだ……今朝放置されていた碁盤を見る限り。 僅かに白優勢だが、優勢なんて言えるようなレベルじゃない。どっちもどっちだ。それでも中盤まで打ち続けていたんだから、よくそこまで頑張ったと言っていいのかもしれない。 アキラは舌打ちした。 ここから、思い出せないのだ。 打ったことは間違い無い、碁盤だって証明している。 打ちながら、何か話した気もする。でも、どんなことを話したのか、……そしてベッドに移動するまでに至る経緯はさっぱりだった。 「……くそ……」 顔に似合わない言葉を吐き捨て、アキラは天を仰ぐように顎を仰け反らせた。 たかが十二時間ほど前の出来事が、こうも見事に思い出せないとは。 (……進藤は、何か覚えているだろうか……) やはり、話し合うべきかもしれない。できれば避けたいが、しかしそれでは何も解決しないことはよく分かっている――アキラは胸に蹲る靄を晴らすにはそれしかないと腹を括ろうとしながら、それでも完全に思い切れない自分がいて、往生際の悪さに口唇を噛んだ。 ヒカルと一局打って。 その最中に何かがあって。 それで……あんなことになった。 「……駄目だ!」 ぐるぐると巡る考えの悪い連鎖を断ち切って、アキラはついに立ち上がった。 急激な動作でまた頭が少し痛んだが、構っていられない。――解決しなければ。男として、人として向き合わなければならない問題だ。 テーブルに置いておいた携帯電話を手にとり、意を決してメール画面を呼び出す。 ――話がしたい。時間が空いたら連絡が欲しい―― 一瞬の躊躇いをなぎ払い、アキラはえいっとばかりに送信ボタンを押した。 ヒカルはどんな反応をするだろう。話したくないと言われるかもしれない。そうだ、今朝「何もなかった」と切り出したのは彼が先だったのだから。 (でも、ボクが彼と……したのは事実なんだ。無責任になかったことにする訳にはいかない――) アキラは大仕事を終えた後のように、手から携帯電話を離してふっと力の抜けた吐息をつき、再び引き戻されるようにソファへと身体を沈めた。 |
やっと回想第一段終わりました!
まだスタートから半日も経過していません……
あと、焼酎なんて全然分からないので
その辺りいい加減にも程がありますごめんなさい……