その時ヒカルはトイレの中だった。 指導碁に出向いた先、ヒカルを気に入って月に一度は指名を入れてくる社長の専用室――つまり社長室に備え付けられているトイレでほっと前をくつろげていたところ、突然胸ポケットに入れたままだった携帯電話が震えて肩とアソコを同時に縮みあがらせた。 できるだけ早くアルコールを出してしまおうと水をがぶ飲みしてきたせいで、案の定トイレが近くてもう何度も中座している。 社長は豪快な人で、現れたヒカルが二日酔いだと分かると窘めるどころか大笑いして、男はそれくらいじゃなきゃいかんなんて背中をばしばし叩かれた。治まっていた吐き気が再燃しそうで危なかったが、怒られなかっただけマシかと胸を撫で下ろしてもいた。 そんな人だから、ヒカルがいちいちトイレに立っても「しっかり出して来い!」なんて送り出してくれるので、ヒカルも若干沈みがちだった心を気にせずにいられるようになってきていたのだが。 モノをしまって手を洗い、携帯電話を取り出して見ると、メールの差出人はアキラ。その名を見ただけでヒカルの心にどんと影が落ちる。 ――話がしたい。時間が空いたら連絡が欲しい。 短いメールだが、簡潔さの中にこちらに有無を言わせない強引さも含まれているように感じてならない。 (話ったって……) 何を話すというのだろう。 相変わらず、記憶は曖昧で肝心な部分は思い出せない。 でも過ちを犯してしまったことは間違いない。ヒカルは自宅のトイレで恐る恐る尻に触れ、どうやらその場所が切れているらしいことを知った時のショックを思い出して顔を顰めた。 (……塔矢は思い出したのかなあ……) なんで自分たちがこんなことをしてしまったのか。 思い出した上で、話がしたいと言っているのだろうか。それとも、何も分からない状態でとにかく話し合おうというのだろうか。 話して何になる。ヒカルは口唇の端を噛む。 ヤッてしまった事実は変わらない。口止めだろうか? でも、お互いこんなこと誰にも言うつもりがないことは今朝の態度でよく分かっている。 ――そりゃあ俺だって気になるさ。 ヒカルは苛立たしげにがりがりと後頭部を掻いて、やり場のないもどかしさにため息をついた。 (気になるけど……どんな顔してお前と会ったらいいのか分かんねえ……) 明らかに昨日の今頃とは関係が変わってしまった。 今までみたいに、ただの棋士仲間として接することはできない。 ヒカルは迷いに迷い、着々と数字が進む携帯電話の時計を睨みつつ、結局返信を送れずにそのままトイレを出た。 *** メールを送信してから四時間ほど。 もう辺りが大分暗くなった頃、アキラの携帯電話に着信が入った。 碁盤にも向かわずぼうっとしてばかりだったアキラはその音に飛び上がり、慌てて表示された名前を見て――ごくりと唾液を飲み込む。 少しの躊躇いはあったが、元々誘いかけたのは自分のほうだと思い切って通話ボタンを押した。 「……もしもし」 『……俺』 ぶっきらぼうなヒカルの声が聞こえてくる。 「あ、ああ」 『悪かったな、遅くなって。指導碁入ってたんだ』 「い、いや、構わない」 アキラは声が上ずりそうになるのを抑えつつ、平静を装って済ました口調で応えた。 メールを送ったのだから、まさか返事が電話で来るとは思わなかった、というのはアキラの言い訳だ。 たとえアキラ自身がそんなつもりはないと言い張ったところで、実際アキラがヒカルと直接話すことを怖がっていたのは事実なのだろう。 らしくなく弱気になって送ったメールに、律儀にも電話で返事を寄越そうとしているヒカルは、案外生真面目な男だった。 (……そうだ。そういえば、昨日もそんなことを思った……) とても純粋な男なのだと、酔った頭で確かに考えていたような―― 『……話って、なんだよ』 ぼんやりと昨日の出来事にトリップしかけていたアキラを、やはりぶっきらぼうなヒカルの声が引き戻す。 アキラははっとしていや、その、と口篭もった。 「で、電話ではちょっと」 『何、話すってんだよ。……俺、マジで昨日のこと……覚えてねえぞ』 ヒカルの言葉を聞いて、アキラは胸にわずかばかりの余裕が生まれる。 ヒカルも思い出せていないのだ――それはアキラを安堵させると同時に、落胆させるものでもあった。 二人キレイに記憶を飛ばしたままでは何が解決するわけでもなく、このもやもやしたやりきれない気持ちが晴れることはない。 「……ボクも覚えてはいない。でも、このままの状態でキミと今までのように顔を合わせられる自信がない」 『……』 「朝はついうやむやにしてしまったが、……もう一度きちんと話がしたいんだ。お互い、納得できるように……」 つらつらと口にしながら、納得だなんて一体どういう状況を指すのか、我ながら楽観的な発言だと自嘲したくなった。 ヒカルはしばらく黙っていたが、やがて小さなため息混じりに 『……分かった』 と諦めたような声を出した。 『で、どうする? 俺、今から空いてるけど……』 「あ、ああ、どこかの店にでも……」 言いかけて、アキラは口を噤む。 店に入ったら、酒抜きで向かい合うのもおかしな話だろう。しかし酒はしばらく勘弁したい。 ウーロン茶片手に話し合うほうがなんだか気まずい空気満載のような気がして、アキラが躊躇っていると、ヒカルが意外な提案をした。 『……じゃあ、これからお前んち、行くから』 「え?」 『お前、今家だろ?』 「そ、そうだけど」 『なら待ってろ。今行く』 通話はぷつりと切れた。 アキラはツーツーと音を立てる携帯電話を見つめて、思わず息を飲む。 ――進藤が来る。これから。 その状況を作ったのは自分だというのに、胸のざわめきを堪えることができなくて、アキラははっと浅く息をついた。 一方電話を切ったヒカルも困惑の表情を浮かべていた。 ――なんで行くって言っちまったんだ。 男であるのにぱっくり食われたことは明らか。その相手の家にのこのこ出かけていくなんて、無用心すぎる判断ではないだろうか。 好奇心? いや、違う。 (確かめてえんだ……きっと) こんなことになってしまった原因を。 自分が悪いのか、向こうが悪いのか、……二人とも悪かったのか。 酒の弾みで済まされるのか、それとも――彼が特別だったのか、見極めたいのだ。 (この先酔って誰にでもホイホイケツ貸してたらまずいだろ、俺!) ヒカルは苦い顔でぎりと歯軋りし、気合を入れるように頬をパンと叩くと、アキラの家に向かうべく覚悟を決めた。 *** エントランスでチャイムを鳴らしたヒカルに対してアキラはロックを外し、二人は鎮痛な面持ちで玄関で対面することとなった。 「……わざわざすまなかった」 「おお……」 気まずい空気は隠しようもなく、動きもどこかぎこちない。 緊張のためか、靴を脱いであがろうとするヒカルがバランスを崩してよろめいた。 思わずアキラが過剰に身体を揺らして振り返り、ヒカルもまた自分の動揺ぶりにぎくりと肩を竦める。 (……そうだ、昨日も確かこの構図だった) (俺が酔ってふらふらして、下駄箱に掴まったんだ……) 甦る忌々しい記憶へのいたたまれなさ。 二人は重苦しい空気を背負いながら、リビングへとのろのろ足を引きずっていった。 リビングでアキラは躊躇いがちにヒカルにソファを勧め、ヒカルも戸惑いながら腰を下ろす。 何か飲み物でも用意すべきだろうかとアキラは思案し始め、しかし動き出すタイミングを失って、間抜けにもその場に突っ立ったままどうにもできなくなってしまった。 沈黙が流れる。 「……お前、座らねえの?」 先に耐え切れなくなったのか、ヒカルが微妙に目線を逸らしたまま尋ねてきた。 「あ、ああ……」 促されてアキラはそのまま床にしゃがみこんだ。 ソファに座るヒカルと、床に座るアキラ。目を泳がせる二人の姿は傍目にも異様としか言いようがない。 沈黙は数十分にも渡っただろうか。 これまで何度も無言を打開してきたのはヒカルの一声だったため、アキラは今度は自分がと潔く顎を上げた。 結果としてヒカルを呼びつけたのは自分なのだから、けじめをつけねばなるまい――アキラは床に正座したままヒカルを見上げて口を開いた。 「――進藤」 「……なんだよ」 少し身構えたふうのヒカルに話しかけたはいいものの、なんと言っていいか分からずにアキラは目線を若干下降させる。 「その……、昨日は、……すまなかった」 思わず謝罪をすると、ヒカルの顔がかっと赤く染まる。 「な、なんで謝る? やっぱ、お、お前が無理矢理……!」 「ち、違う! いや、わ、分からない、覚えていないんだ、本当だ!」 「お、俺だって覚えてねえよ! う、うかつに謝んなよ、ビビんだろうが!」 声を荒げて興奮したせいか二人の顔は真っ赤になり、嫌な汗をかきながら相手の出方を伺っている。 お互い、自分たちの身体に起こった異変にはとうに気づいている。分からないのはそのきっかけのみ。 一度はなかったことにしようかと結論を持っていきかけたが、やはりそれでは駄目なのだということが思い知らされる。 今でもこんなにぎくしゃくとして、とてもこれから普段通りのつきあいができるなんて思えない。こんなことで、距離が出来て二度と打てなくなるなんてそんな酷い話はない――アキラは決心した。 「……やっぱり、なかったことになんかできない。原因を追究しよう」 「つ、追求って」 「このままじゃ、ボクらはずっと相手の顔色を伺ったままで、今までみたいに堂々とぶつかりあえない。……ボクはそんなのは嫌だ」 「……塔矢」 アキラの真剣な表情に打たれたのか、ヒカルもまた神妙な顔つきで数分黙りこくった後、傍目には気づかないほどに浅く頷いてみせた。 「わ、分かった。でも、どうやってツイキュウすんだよ」 「それは……思い出すしかない」 「朝から何度も思い出そうとしてるよ! でも全っ然ダメだ、碁盤に向かった辺りから何にも思い出せねえ!」 「ボクだってそうだ! でも、ボクらの記憶しか頼るものはないじゃないか! ……やるしかないんだ。頑張って、思い出そう」 ヒカルは呆れたように口を開けたが、確かに当事者は自分たち二人しかいないため、実に不確かな記憶を探るという方法を取らざるを得ないことを悟った。 そうして、二人は記憶の再現とばかりに、マンションに着いてからの昨日の足取りを辿ることにしたのだった。 |
いや、お前らバカだろう。
と冷静にツッコミたくなる気持ちをぐっと堪えて……!