まず、玄関で靴を脱いだ。ここまでは先ほどと同じ。 「……ここでキミがよろめいた」 「ああ。んで、下駄箱に掴まった。」 「『しっかりしろ』……と言った気がする」 「言われたっけ。それは覚えてねえ……」 なんとも不毛なことをしていると思いながらも、二人は昨日と同じように廊下を進み(さすがに千鳥足の再現までは避けた)、リビングへやってくる。 「キミが『広いな』みたいなことを言ったような……」 「ああ、言った。でけえんだもん。きっちり片付いて無駄なもんねえしさ。キレイな部屋だなって思ったよ」 「……それはどうも」 ヒカルはリビングに入ってすぐに座り込んだ。 「俺、ここで座った。……立ってるのしんどくなって」 「そうだったな。……で、ボクが碁盤を持ってきた。ちょっと待っててくれ」 アキラはヒカルに断って、一旦リビングを出た。寝室に入って碁盤の上に碁笥を二つ乗せ、いざ持ち上げようとしたところではたとデジャヴュを感じる。 (……そうだ、昨日もこうして持ち上げようとして……碁笥が落ちそうになってバランスをとったんだ。で、胸のところに碁笥をよしかからせた) かなりおぼろげだった記憶の一端がぱあっと晴れて見え、案外この再現作戦は悪くないんじゃないかと思いながら碁盤を運んでいく。 リビングではヒカルが緊張の面持ちでアキラを待っていた。 ヒカルの前に碁盤を置き、アキラもまた対面に腰を下ろす。 「ここでキミが喜んだんだったな」 「そんな細かいことはいいだろ。……で、ここからだよ。俺、ここからほとんど覚えてねえ」 「……ボクもだ」 二人は碁盤を挟んで無言になる。 ここまでは昨日と同じ。問題はこの先なのだが、どうにも頭の中の映像はクリアになってくれない。 碁盤を睨みながら、アキラもヒカルも必死で記憶の隅々を探る。 しかし、やはり頑張ったところで何を思い出すわけでもなかった。 先に根をあげたヒカルが、癇癪を起こした子供のように床に拳を叩きつけた。 「……やっぱこんなことやったって思い出せねえ! もういいよ、俺らヤッちまったんだよ、それは変わりようねえんだからやめようぜ!」 「ま、待て! ……キミ、昨日も確か……」 怒鳴ったヒカルの前ではっとしたアキラは、こめかみに指先を当ててなにやら難しい顔をした。それから何か閃いたように目を瞬かせ、 「そうだ、思い出した! キミがごねたんだ、自分が握るからって!」 「へ?」 記憶の糸口を掴んで目を輝かせるアキラの前で、ヒカルは間の抜けた顔のまま首を傾げる。 「ボクが握ろうって言ったら、キミが怒鳴ったんだよ。『なんでだよ、俺が握る』って。今みたいに床どんどん叩いて」 ヒカルも眉間に皺を寄せ、上を見たり下を見たりしながら腕組みをして、それから「あ!」と大きな声をあげた。 「そうだ! 思い出した、俺が握るって言った! だってさ、お前当然みたいに握ろうとするんだもん。俺のほうが下だって言ってるみたいじゃん」 「そ、そんなつもりはなかった!」 「いや、でも俺が握るって言ったらお前こう言ったんだぜ、『ボクのほうが背が高いからボクが握る』って。これ酷くねえ? 背なんてほんのちょっとじゃねえかよ!」 「そ、そうだったかな……」 たじろぐアキラにヒカルは身を乗り出し、どうやらすっかり思い出したらしい昨日のことをべらべらとまくしたて始めた。 「そうだよ、で、俺が『背なんてちょっとしか変わらねえじゃん』って言ったら、お前『手もボクのほうが大きい』『肩幅もボクのほうが広い』『足もボクのほうが長い』なんてつらつら抜かしやがったんだ! 俺も酔ってたからああそっか、なんて納得しちまって、ックショー、今頃悔しくなってきた!」 どんどんと床を叩きながら怒るヒカルに、アキラは階下からの苦情を気にしつつも、やはりこの仕草は見覚えがあると今更のように実感していた。 ――そうだ。キミは子供みたいに床に当り散らして、そのくせボクがくだらない言い訳を並べると「あ、そっか」なんてあっさり納得してしまったんだ。 酔っ払いの脈絡のない行動のひとつなのだろうが、その素直な様子に実に満足した昨日の自分を思い出す。 『おし、んじゃお前握れ!』 『ああ、任せろ』 碁笥に手を突っ込み、ざらっと碁盤に広げた白石は確か奇数。ヒカルが落とした黒石はひとつ。 『よし、俺が先番だ』 『ボクだって黒を持ちたかったのに』 ぶつぶつと文句を言いつつも、アキラは白の碁笥をそのまま自分の元へ引き寄せ、ヒカルは意気揚々と黒の碁笥を手にした。 二人は「おねがいします」と頭を下げ、ヒカルがえいっとばかりに初手を打つ。 アキラも深く考えないまま二手目を打ち、ヒカルもほとんど時間をかけずに三手目を打つ。 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。 ぐらぐら揺れる二人の頭に挟まれて、碁盤の上で碁石が広がって行く。 目は据わり、口は薄ら開いたまま、右手だけを機械的に動かして、碁石がじわじわと広がって行く。 ぽつりとアキラが呟いた。 『……酷い碁だ』 ヒカルも呟き返す。 『うん、これは酷え』 アキラは自分でも明らかに無意味だと分かっているツケを打つ。 『こんな酷い碁は初めてだ』 ヒカルもどう考えても有効と思えない場所に割り込んだ。 『俺だってお前のこんな酷い碁見たの初めてだよ』 『なんだと。キミが人のことを言えると思うのか』 『お前よりはマシだ』 『そんなはずがない。ボクのほうが少しだけマシだ』 『いや、俺だ!』 非常に低レベルな言い争いをしつつ、二人は泣く子も黙るような凄みの効いた目つきを徐々に近付け、額がくっつきそうな距離で睨み合った。 『譲らないな』 『譲らねえよ』 両者一歩も引かず、まさにごつんと額がぶつかった後も臆することなくぐりぐりと相手の額を攻撃する。 相手に文句が伝わっているのかいないのか、自己満足に限り無く近い悪態にはやがて口だけではなく手までついてきた。 ヒカルが、垂れ下がったアキラの髪の一房をがしっと掴んだのだ。 『痛い、何するんだ』 『お前の頭がゆらゆら動いてじゃまくせーんだよ』 『何だと! ならキミだって邪魔くさいじゃないか!』 『いてっ、前髪は反則だろお!』 『離せ!』 『お前こそ離せ!』 聞くに耐えない低レベルな口喧嘩が再生されていく。 台詞のひとつひとつが、嘘のようにぽんぽんと甦っていった。 靄の中から「きっかけ」をぐいっと引っ張り出したおかげか、先ほどまでは露ほども思い出せなかったはずの昨夜の出来事が、驚くほどにクリアな映像でずるずると流れ出し、ずぶずぶと溢れて行く。 そしてだんだんとクリアになっていく記憶が脳裏で展開されるに従って、アキラとヒカルの顔はじりじりと赤らみ始めた。 記憶の再生が進むにつれて、「その」経緯に至るまでの自分達の行動と台詞を、かなり鮮明に思い知らねばならなかったからだ。 すっかり酔っ払って、くだらない言い争いのあげく、何故だかベッドに転がり込むに至った一連の出来事。 あまりに恥ずかしいその一部始終が、二人に有無を言わせず頭の中に映し出されて行く。 碁盤を挟んで赤い顔を突き合わせる二人は、昨夜の現実から逃れられずにいるように、お互いの目を凝視し続けたままじっと固まっていた。 |
最初台詞を全部呂律回ってない感じにしていたんですが
(「譲ららいら」とか)とんでもなく読みにくかったのでやめました。
区切り良くなくて今回ちょっと短かめです……。