MISTY HEARTBREAK Ver.HIKARU






 進藤ヒカルは諦めの境地に達していた。塔矢アキラという男を受け入れるという一大事以前に、受け入れても構わないと思っている自分自身のとんでもない考えに対して、「これは諦めるしかない」という結論を出したのだ。
 何の因果か今から五年前、突然(少なくともヒカルには突然だった)ヒカルへの愛に目覚めたアキラから一方的に想いを告げられ始め、悪い冗談かと思えていた幸せな時期からアキラの本気を思い知った苦悩の時期を経て、遂に自分もこの物の怪のような男に惹かれていると自覚してしまった時のヒカルの絶望感といったらそれは一言では表せないものだった。
 何しろ酷いアプローチだった。誰の目も気にしない、寧ろ周囲が気を使うようなアキラの直線的でしつこく粘っこい告白はすっかり有名になっていて、最初こそ同情の声を寄せられていたというのに、今では保護者のような立場を押し付けられて「しっかり監督していろ」と不条理な責任を持たされたりしている。
 好きだ、嫌だ、好きだ、消えろ、そんなやり取りは日常の一部と化し、すでにそれぞれの言葉が持つ意味など関係なくなっていた。少なくともヒカルはそうだった。思えばそれを日常として受け入れていた時点でもう後戻りはできなくなっていたのかもしれない。
 ふとした弾みで、アキラがいないことの淋しさに気付いてしまったヒカルは、それは並々ならぬ葛藤を乗り越えなければならなかった。「アレ」か、俺は「アレ」でいいのかと自問の日々を繰り返し、自分を戒め、しっかりを気を張って、いざ勝負とばかりに久方ぶりに逢ったアキラの顔を見てほっと安堵してしまったのだからもう言い訳はできない。ヒカルは潔く降参を認めることにした。
 ヒカルの決断に、驚いたのは周りの連中だった。だってお前、「アレ」だぞ、「アレ」でいいのかと本気で心配している周囲に対し、ヒカルは黙って頷き続けた。生半可な気持ちではアキラの相手は勤まらない。アキラを受け入れると決めた以上、ヒカルも半端なことはするまいと覚悟を決めていた。
 ヒカルからの返事に空を飛びそうなほど浮かれているアキラに抱き締められながら、ヒカルはアキラと共に生きることへの決意を固めた。言い換えれば、死なばもろとも――そんなヒカルの物騒な心中など知らないアキラは実に甲斐甲斐しくヒカルに尽くし、ヒカルもまたアキラと過ごす面倒な毎日を特別だと思わないようになり、短いながらも濃い恋人生活が一ヶ月ほど続いた後、ヒカルはアキラとの同居を承諾した。
 大丈夫、何とかやっていける。そう確信しての二人暮しがスタートしたが、アキラの寝惚けっぷりがあまりに酷かったことはヒカルにとっても予想外だった。



 森下九段の誕生日パーティーでしこたま飲まされ、よれよれになりながらタクシーで帰宅したヒカルは、なるべく音を立てないようそうっとマンションの玄関に滑り込んだ。
 時刻は午前一時。アキラはとっくに眠っているだろう証拠に、廊下もリビングも電気がついていない。ヒカルは手探りで廊下を進んだ。
 リビングに到着して灯りをつけ、荷物を下ろしてジャケットを脱ぎ、ふうと人心地つく。そしてテーブルに置かれているアキラからのメモを見て目を細め、恐らく熟睡しているだろう恋人の顔でも見てやろうかと寝室へ向かった。
 息を殺してドアを開き、オレンジ色の小さな灯りがついている寝室へ足音を忍ばせて入り込む。ベッドではアキラがヒカル一人分のスペースを開けてすうすうと寝息を立てていた。
 ヒカルは薄闇の中でアキラを見下ろし、いつもこうして眠っていれば可愛いのに、と溜め息をつく。この常識はずれな恋人は、いつもいつも行動が極端で目を離していられない。しかしそんなアキラに惚れてしまっているのだから自分も大概どうしようもない、ともう一度溜め息をついて、ぐっすり眠るあどけない寝顔に惹かれるようにそっと頬に触れようとした、その瞬間。
 伸ばした手首をがしっと掴まれた。
「!?」
 声にならない悲鳴を上げるが、アキラはヒカルの手首を掴んで離さず、それどころか強引にベッドの中へと引きずり込む。その尋常じゃない力にヒカルは抗い切れず、あっと言う間にアキラの胸の中に捕われてしまった。
「お、おい、塔――」
 制止のために開こうとした口を乱暴にキスで塞がれ、ヒカルは目を丸くする。
 いきなり何しやがる。お前、狸寝入りしてたのか――そんな言葉をぶつけようにも、アキラの目はしっかりと接着されたように閉じられていて、開く気配はない。
 まさか、寝惚けてる……? ヒカルが愕然としている間にも、アキラは目を閉じたまま手際良くヒカルの服に手をかけはじめた。ぱっぱと脱がされ、ヒカルは慌てて抵抗するが、頭を殴っても髪を引っ張ってもアキラは手を止めず、おまけに目も開こうとしない。
「おい、バカ、起きろ!」
 耳元で怒鳴っても無駄だった。それどころか煩いと言わんばかりに濃厚な口付けを食らわされ、もがいているうちにヒカルはつるんと全裸に剥かれてしまった。アレは下手くそなくせにこんなテクニックばっかり上達しやがって――暴れるヒカルをよそにアキラは遠慮なく胸や腰を撫で回し、奥の蕾にまで指を潜らせて来る。
「ちょ、塔矢、待て! 俺、マジで疲れ――」
 ヒカルの叫びは届かなかった。アキラは服を脱がず、パジャマと下着を少しずらして臨戦体勢のモノを取り出すと、えいっと一気にヒカルの尻に押し当ててきた。
「――!」
 あまり慣らされずに突っ込まれて、圧迫感にヒカルは顔を顰める。まだつき合って三ヶ月とは言え、万年発情期のアキラにしょっちゅう求められて回数はこなして来た。とは言え、自分では濡れもしない場所を申し訳程度に解されたくらいでは苦痛しか感じない。
 そんなヒカルに構わず、アキラは勝手に腰を動かして来る。ヒカルももう覚悟を決めて、抵抗するよりいかに身体が楽になるかを求めて足を開いてやった。下肢から力を抜く。強張っていては辛いばかりで、快楽には程遠い。
「う……、ん……っ」
 アキラの動きに合わせて少し腰を揺らし、浅く息をついて乱れた心臓を落ち着けながら、何とか苦痛を減らしつつヒカル自身も僅かに快感を覚え始めた時。
 う、と小さく呻いたアキラががくりとヒカルの上に倒れて来た。
(早っ!)
 ヒカルは呆然とアキラを受け止め、その重い身体をえいっと転がす。ごろんと仰向けになったアキラは、満足げに萎んだモノを出しっ放しにしてすうすうと眠っていた。
 ヒカルは身体を起こし、そっと尻に手を伸ばす。そして更に顔を歪めた。――中出ししやがった。最悪だ……
 枕元のティッシュに手を伸ばしてとりあえずの応急処置をしつつ、情けない格好で眠りこけているアキラがあまりに目も当てられなくて、仕方なく前を拭いてやってからきちんと下着の中にしまい、布団をかけてやった。アキラはヒカルが寝室に入って来た時と同じように、すやすや穏やかな寝息を立てて眠っている。
 ヒカルは忌々し気に呑気な恋人の寝顔を見下ろしたが、まずはいいようにされた身体を何とかしなくてはと脱がされた服を集めて浴室へ向かった。シャワーを浴びて身体を綺麗に清め、何とか一息ついたヒカルはタオルを腰に巻いたまま再び寝室でアキラの様子を見に行く。
 アキラはヒカルが寝室を出る前と変わらない格好でよく眠っているようだったが、本来ヒカルが眠っているはずの空いたスペースをわさわさと手で探っている。無意識にヒカルを探しているらしい。
 まだ盛るつもりか、と揺すり起こしてやろうかとも思ったが、伸ばしかけた手を止めた。そういえば、ここ三日ばかりセックスはしていなかった。普通の男性ならいざ知らず、アキラにとっては我慢の限界だったのかもしれない。ヒカルの匂いを嗅ぎ取って本能が働いたのだろう。翌朝、本人に記憶があるかどうか……
 ヒカルははあ、と溜め息をつき、寝室に置いたままにしていた自分のパジャマを手にして小さく「オヤスミ」と声をかけた。そしてそっと寝室を出て、リビングでパジャマに着替えるとそのままソファに転がった。
 万が一ベッドに戻ってあの手に捕まりもう一回戦、なんてことになったら困る。今日はこっちで眠ろう……疲れ切ったヒカルの目には、午前二時半を過ぎている時計の針が映った。





 翌朝、アキラはとても夕べのことを覚えている様子ではなかった。
 それが無性に腹立たしく、しかしアキラらしいと言えばそれまでで、何とも煮え切らない気分のままヒカルはやり場のない怒りを持て余していた。
 その日も森下九段の、今度は弟子主催の誕生日パーティーだった。厳密には弟子とは言えないヒカルだが、門下の研究会に昔から顔を出していたよしみもあって参加を快諾していた。やはり帰宅は日付けを変わってからになってしまったが、まさか二晩続けてはないだろうと再び寝室を覗いたのが間違いだった。
 アキラは昨夜と同様にヒカルの腕を掴み、ぐいぐいと引きずり込もうとする。油断していたせいで一度は捕まったヒカルだが、鎖骨に吸い付いたアキラを蹴飛ばすようにして引き剥がして何とか難を逃れた。
 アキラは転がされたままぐっすりと眠っている。あれだけ派手に飛ばしてやったのにまだ目を覚まさないとは大した男である。
 ヒカルの怒りはピークに達していた。一度ならず、二度までも。冗談じゃない、と再びパジャマと毛布をひっ掴み、狭いソファで身の安全を確保することにしたのだ。寝苦しく、嫌な夜だった。