MISTY HEARTBREAK






『飲み会抜けらんねえ。先寝てて』

 先ほど届いたメールの文章にため息をつきつつ、アキラは時計をちらちらと気にしながら就寝準備を進めていた。
 本日のヒカルは森下九段の後援会が主催する飲み会に呼ばれ、帰りは遅くなると事前にアキラも聞いてはいた。
 毎晩きっかり午後十一時にベッドに入るアキラのため、十時半にメールを寄越すヒカルはさすがアキラの心情を心得ている。アキラにすでに眠気が纏わりついてきていることを見越した上なのだろう。
 たった一行の素っ気ないメールにアキラは寂しげな表情を浮かべつつも、明日の予定を思うとそろそろ眠らなければと体内時計が急かしているのを宥めきれそうになかった。
 ヒカルがこうして事前に遅くなることを連絡してきた以上、帰宅は数十分後といった可愛らしい時間ではないのだろう。
 アキラは仕方なく、広いベッドに一人きりで潜り込むことになった。リビングのテーブルには甲斐甲斐しくも
『ポットにお湯を沸かしてあります。お茶漬け食べたかったら炊飯器にご飯が入っているから。冷蔵庫に栄養ドリンクもあります』
 恐らく酔っぱらって帰ってくるだろうヒカルを気遣ったメモを残し、なるべく早くヒカルが戻ってきますようにと願って目を閉じると、頭の中に次々とヒカルのあらゆる表情が浮かんで来る。
 怒った顔、呆れた顔、渋い顔とあまり明るい表情が前面には出て来ないが、ふとした瞬間にとても優しい目でアキラを見ている穏やかな顔もきちんと胸の中で輝いてる。
 早くヒカルに逢いたい。ヒカルを抱き締めたい。うんとキスして、腕の中に捕まえたまま眠りたい。
 ヒカル、ヒカル、ヒカル……まるで羊を数えるようにヒカルのことを考えて、その数分後にはあっという間に眠りに落ちていた。
 時刻は午後十一時ぴったり、今晩もアキラの体内時計は正確だった。




 ***




「……」
 無意識に腕を伸ばし、まさぐったシーツの冷たさと大きく開いた隣のスペースに目を閉じたまま顔を顰めたアキラは、微睡みの誘惑を振り切って重い瞼をこじ開けた。
 目を開くとまだ室内は薄暗く、夜明けまでには随分時間があることを知らしめる。いつもならヒカルが寝ているスペースがぽっかり空いていることを触覚と視覚両方で確認したアキラは、まだ帰ってきていないのかと時計を見て眉を寄せた。
 午前三時。こんな時間になっているというのに、まだヒカルは飲み会につき合わされているのだろうか?
 それとも何かあったのでは――アキラは枕元に置いておいた携帯電話をチェックするが、就寝前に入ったあのメール以外にヒカルからの連絡はない。
 不安に青ざめたアキラはすっかり眠気を飛ばし、ベッドから起き上がった。ひとまずリビングに行ってヒカルと連絡を取らなければ、とリビングの電気をつけた時、
「う……ん」
 気怠そうな声が部屋の中央から聞こえてくる。
 驚いたアキラが入口に背中を向けているソファの前に回りこむと、ヒカルはソファに横たわって不機嫌そうな顔のまま眠っていた。
 ヒカルの姿があったことにほっと安堵のため息をついたアキラは、傍に屈みこんでぴたぴたとヒカルの頬を優しく叩く。
「進藤」
「んー……、……んだよ……」
「こんなところで寝ていたら風邪引くよ。ベッドにおいで?」
 アキラの囁きにヒカルは一度ぎゅっと顔を顰め、それから薄っすらと瞼を開いてアキラを見上げた。寝起きのせいか、実に機嫌の悪そうな半眼にもめげず、アキラはにっこり微笑んでヒカルを促す。
 ヒカルはしばらく苦虫を噛み潰したような不思議な顔でアキラを見上げていたが、やがて首を小さく横に振ると再びソファに横になったまま目を閉じてしまった。
「……俺、今日はここでいい。……酒臭ぇし」
「ボクは気にしないよ」
「いいったらいいんだよ。もう寝かせろ」
 どこか刺のある口調で乱暴に吐き捨てたヒカルは、枕代わりにしていたクッションを引き抜いてぎゅっと抱きかかえ、顔を隠してしまった。
 アキラは弱ってしまったが、酔って帰って来た後に疲れて眠っているところを起こしたものだから怒っているのだろうと解釈し、仕方なくベッドから毛布を運んでヒカルにかけてやる。
(あれ?)
 よく見ればヒカルはパジャマ姿になっていた。パジャマは普段寝室に起きっぱなしにしている。
(一度寝室に来たのかな……?)
 ひょっとしたら、アキラがぐっすり寝ているから気を遣わせてしまったのかもしれない。だとしたら悪い事をした、とアキラは反省しつつ、毛布とクッションに埋もれてソファで眠るヒカルの髪におやすみのキスをして、ヒカルの無事に安堵しながらベッドへ戻っていった。


 一緒に暮らし始めてからヒカルの帰りがここまで遅いのはそれが初めてだった。
 そのせいだろうか、翌朝の様子はいつもと勝手が違っていて、ヒカルはやけにむすっとした顔で口数が少なく、二日酔いを心配するアキラを鬱陶しそうにあしらっていた。
 普段から寝起きがあまりよくないヒカルとはいえ、その朝の機嫌の悪さというとアキラが戸惑うほどで、朝食の珈琲はミルクを多めにしたりサラダも温野菜にしたりと細やかな気遣いを見せても一向に仏頂面は直らなかった。
 酔いが残って具合が悪いせいだろうか、それとも昨夜中途半端に起こしたことをまだ怒っているのだろうか。
 実にくだらない不安に取り憑かれながら周りをうろつくアキラがますます鬱陶しくなったのか、ヒカルは低い声でアキラを追い払いにかかった。
「お前今日出るの早いっつってたろ。さっさと仕事行けよ」
 邪魔だと主張せんばかりの口調にアキラは分かりやすく傷ついた表情をし、それはそれで面倒な事態になることを察したのか、ヒカルはバツが悪そうな顔で取ってつけたように言い加えた。
「……夕べ、遅かったから眠いんだよ。俺、今日午後からだからお前が出かけたらすぐ寝っから」
 眠い、という言葉は若干アキラの心を緩ませた。
 眠気は兎角人の気分を左右するものだ。眠さにぐずる子供よろしく、それでヒカルの機嫌が悪いだけかもしれない。しかしヒカルは赤ん坊ではないから、眠気を押してアキラの出発を待っていてくれているのだ。
 それならばさっさと行けと追い立てられても仕方が無いかもしれない、いや寧ろ気が利かないのは自分ではないかと、アキラは大急ぎで仕事に向かう支度を整えた。
 ところがそんなアキラの一生懸命さに対し、
「俺、今日も帰り遅いから先に寝てて」
 全身怠そうにしている仏頂面のヒカルは見送りの際にそんなことを告げた。アキラは落胆を隠し切れずとぼとぼとマンションを出て行く。
 機嫌が悪いだけでなく今晩も独りで眠らなければならないとは、ダブルショックで自然と肩は下がり背は丸くなる。いやいやこんなことではダメだと前向きに首を振ったアキラは、またも遅くまで頑張らなければならないヒカルを思ってしゃんと背筋を伸ばした。
 ヒカルだって好きであんなむすっとした顔をしている訳ではないだろう。きっと断れない飲み会の気疲れと、二日酔いと、寝不足とが一気に負荷として心身にかかっているに違いない――そんなふうに考えたアキラは、ヒカルの不機嫌な様子が一時的なものだと信じて疑っていなかった。






この部屋にはベッドがひとつしかないんです……
ヒカルの覚悟のほどが伺えます。