MISTY HEARTBREAK






 昨夜に同じく一人で眠った翌朝。
 昨日と違って夜中に目を覚ます事がなかったアキラは、カーテン越しの太陽の光ですっかり明るくなった寝室で呆然と身体を起こしていた。
 隣の空間がぽっかり空いたままになっている。
 ……つまり、ヒカルは昨夜も寝室に来なかったということだ。
 アキラは慌ててベッドを降りて、パジャマ姿のままリビングを目指す。――まさか、まだ帰って来ていないのだろうか? それとも……
「……」
 リビングのドアを開けたアキラは、目の前のソファの肘掛部分に毛布の端が覗いているのを見つけた。
 息を飲んで回り込むと、……案の定、ヒカルはそこに眠っていた。昨日のように、今度は自分で引っ張り出したのか毛布に埋もれてすやすやと寝息を立てている。
 アキラは肩の力を抜く。安堵したが、すぐに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 何時頃に帰宅したのかは分からないが、二晩続けてこんなところで寝るなんてさぞや窮屈だっただろう。気を遣わずにベッドに来てくれたらよかったのに……
 そんなことを思いながらアキラはそっと床に膝をつき、未だぐっすりと眠るヒカルの頬にそっと手を伸ばす。あどけない寝顔を見ていると無性に愛しさが込み上げてきて、躊躇いながらも誘惑に諍えず、白い頬に指先で触れると、くすぐったいのかヒカルの寝顔が軽い顰めっ面になった。
 ううん、と唸りながら身を捩じらせ、首まで覆っていた毛布がずるりと胸の辺りにずり落ちる。アキラは苦笑しながら毛布を引き上げようとして――ふと、あらわになったヒカルの鎖骨に目を留めた。
 左の鎖骨のやや下、小さな赤い痣。
 アキラの胸がどくんと竦んだ。
 指先ほどの小さな痣は、鬱血してやや濃い目の桜色。
 それが何の痕か分からないはずがない。アキラ自身、何度も自らヒカルの身体に残したことがあるものなのだから。
 問題は、……この小さなキスマークをつけた記憶がアキラにはないということだった。
 アキラは頬に触れていた指を不自然に浮かせたまま、顔も全身も強張らせてその場に縫い付けられたように動かなくなった。
 ――昨夜は別々に眠った。その前の晩だって。
 しかし、今ヒカルの鎖骨に見える痣は色鮮やかで、最後に身体を重ねた夜につけたものではないことが容易に知れる。
 誰が? 口にしかけたアキラはざわりと脇腹を撫でられたような不気味な寒気に思わず両腕を抱いた。
(誰が、だって……?)
 それではまるで、自分以外の人間が痕を残したようではないか――
「ん……」
 ふいにヒカルの瞼が小刻みに震え、きゅっと眉根を寄せたかと思うと、その反動を利用したように薄ら目が開き始めた。
 アキラはたじろぎ、慌てたように手を引っ込める。ヒカルはその動作には気づいていなかったのか、寝呆けた様子で瞬きを繰り返しながら「塔矢?」と呟いた。
 アキラが何と声をかけたものか戸惑っていると、むくっと身体を起こしたヒカルは徐々に意識を覚醒させていくようで、何度目かの瞬きでかなり目が冴えたような表情を見せた後、その顔がアキラを見て突然不機嫌な顰めっ面に変わった。
(え……?)
 その変化は実に顕著だった。
 ヒカルは明らかにアキラに対して不快な顔をしてみせて、それから大きなあくびをひとつ。目を擦り、軽く伸びをしてから低い声で「オハヨ」と一言残してソファから降りる。
 そのままアキラの横をすり抜けて、恐らくトイレに向かうためにリビングを出ようとしたヒカルに、アキラは慌てて声をかけた。
「し、進藤!」
 ヒカルが立ち止まり、振り返る。向けられた目はやはり温度が低く、アキラはヒカルの機嫌の悪さが気のせいなどではない上、昨日よりもパワーアップしていることを思い知らされた。
「何だよ」
 ドスのきいた声で尋ねられてアキラは言葉に詰まるが、なんとか会話を繋げようとぎこちない笑顔を繕った。
「き、昨日もここで寝たの……?」
「……、ああ」
「……ベッドに来なかったの?」
「……面倒だったからな」
 言葉の通り面倒くさそうな口調で、短い会話の間にもヒカルの不快指数がぐんぐん上昇して行く様子が伝わってくる。
 アキラはじわりと背中に汗が浮かんでくるのを感じながら、何とかこの淀んだ雰囲気を打開する策はないものかと笑顔を更に強張らせた。
「ゆ、夕べ、やっぱり遅かったんだね?」
「……まあな。」
「また、酒を飲んだのか?」
「……、悪いのかよ」
 ああ、ダメだ――アキラは質問ばかりを繰り返す自分のノーテクニックな会話に失望しつつ、本当に聞きたいのはこんなことじゃないと髪を掻き毟りたい衝動にかられる。
 何故、機嫌が悪いのか? ――その鎖骨に痕をつけたのは誰?
 知りたいという欲求の強さとは裏腹に、口唇は決してその質問を乗せようとはしない。喉から出てくる言葉を舌が片っ端から粉砕しているような、実に消化不良気味な葛藤はアキラの顔にありありと表れ、その表情は最早作り笑顔とも言えないものになっていた。
 ヒカルは軽く据わらせた目を更に細めて、苛立ちを隠そうともせずに「まだ何かあんのか」と低く言い放った。アキラが咄嗟に首を横に振ると、わざとらしいあくびを見せたヒカルはぼりぼり後頭部を掻きながらリビングを出て行く。
 トイレの扉が開き、閉まる音を耳に、アキラはソファの前で膝をついたまま呆然とヒカルが消えた方向を眺めていた。



 何とか我に返り、いつものように朝食の支度を進めて振舞っても、ヒカルは昨日以上の仏頂面で黙々と口に運ぶのみ。
 その全身がアキラを拒絶しているようで、アキラは声さえかけられずにただ狼狽えるばかりだった。
 気まずい朝の時間は刻々と過ぎていく。今日はアキラは午後から、ヒカルは早い時間に仕事に出る日だったため、アキラが見送る形になるのだが、ほとんど口を開かずに出かける支度をしているヒカルに出掛けのキスなど到底言い出せるはずがない。
 小さく「いってきます」と呟いたヒカルを玄関で見送って、アキラは一人頭を抱えた。


 落ち着かなければ、とその言葉自体が呪文であるように頭の中で繰り返し、アキラはヒカルが出かけた後のリビングで顔を曇らせる。
 朝までヒカルが眠っていたソファに浅く腰掛け、じっと床を睨んだ。
 ……機嫌が悪いだけならいろいろと理由は考えられる。連日の飲み会に疲れたとか、狭いソファで眠ったせいで熟睡できなかったとか、単にそれを八つ当たりのようにアキラに隠さずにしているだけかもしれない。
 しかし、何故二日も続けてソファで眠ったりしたのか? ベッドの端なら昨日も一昨日も空けておいた。二人が余裕で眠れる広さのベッドなのだから、後からヒカルが潜り込むのに困ることはなかったはずだ。
 仮に、言葉通り面倒だったからとのヒカルの言葉を信用したにしても……あのキスマークの説明は?
 アキラはぎゅっと口内の肉を噛み、眉を震わせながら朝の記憶を映像として再現する。
 桜色の小さな痣。あれは本当にキスマークだろうか? 虫刺されや引っ掻き傷の類いではなく?
 そうと思い込んで見てしまったために勘違いをしている可能性がないとは言い切れない。
(そうだ、だって……そんなはずがない)
 自分以外の人間がヒカルに触れただなんて。
 キスマークを残すような行為に及んだだなんて、考えるだけで発狂してしまいそうだ。
「くそっ」
 アキラはがくりと頭を垂らし、邪魔なサイドの髪を両手で掻き上げる。あの痣が気になって仕方ないのに、怯えて聞けず終いだった自分の情けなさが腹立たしい。
 一言、尋ねてしまえばよかったのだ。恋人として一緒に暮らしている身なのだから、遠慮することなんてないはずだ。
 しかし、もしヒカルがいつもの淡々とした様子でアキラが恐れていることをさらりと白状したらと思うと……それが怖くて、とうとう言い出せなかった。
 付き合い始めて三ヶ月、一緒に暮らしてまだ二ヶ月。信頼関係を築くには短すぎる時間の経過の中、ヒカルの心がきちんと自分に向いているのかの自信がない。
 全てが取り越し苦労で、何かの間違いでありますように――思い人のいない部屋では不毛に祈るくらいしか行動できることがなく、アキラはひたすら胸の内で膨らみ続ける不安と戦わなければならなかった。






五年間も勢い良く告白し続けた割にへたれです……
ついでに早漏です。<誰も聞いてません