MISTY HEARTBREAK






 その夜はヒカルが先に帰宅していて、アキラが張り切って作るものに比べれば相当簡素ではあったが夕食も用意していてくれた。
 ヒカルはアキラのようにわざわざ玄関まで出迎えてくれたり、不必要にスキンシップを求めたりはしない。いつものように素っ気なく「おかえり」と一言、黙って食事を始める準備に取り掛かったヒカルの様子は朝の機嫌がまだ直っていないのかどうか見極めにくかった。
 アキラは用心深く、それこそいつも通りに数時間ぶりの再会を喜んでの抱擁をしたり、ただいまのキスもぐっと堪えて状況を伺い続けた。ヒカルはどこか疲労感の抜けないくたびれた表情をしていたが、どうやら今朝ほどの不機嫌さはないようだとアキラは判断し、次は例の質問をどうやって切り出すかに悩み始める。
 ヒカルの本日の服装は普段と違わないシャツの重ね着だが、中に着込んでいるシャツの襟ぐりが小さくて鎖骨は隠れてしまっている。よって、あの痕は外から確認することはできなかった。
 ――鎖骨のところにある痣は何?
 今現在目で確認できないものについてそんなふうに質問するなんていやらしいと思われないだろうか。朝に軽い調子で尋ねておけば良かったのに、わざわざ夜になってから問い質すだなんてヒカルが気分を悪くするかもしれない。
 かといって、
 ――昨日、何処で飲んでた? ……誰と一緒だった?
 そんな聞き方をすれば、まるで端からヒカルを疑ってかかっているようであらぬ誤解をされるかもしれない。せっかく和らぎつつあるヒカルの機嫌が一気に下降してしまうような会話はアキラとしても避けたかった。
 そんなふうにアキラがもやもやと思案しつつ進めていた食事の途中、ふいにヒカルがやや躊躇いがちにこんなことを切り出してきた。
「なあ、……あのさ。今日からしばらく、別々に寝ないか」
 がたん、と大きな音にアキラはびくっと身体を揺らす。
 大きな音は他でもない、自分が手にしていた茶碗がテーブルに落ちた音だ。幸い垂直に落ちた茶碗はひっくり返ることなくテーブルの上に乱暴に鎮座したものの、小さなヒビが入ってもおかしくないような音だった。
 しかしアキラは手から滑らせた茶碗など気にも留めず、身体が竦んだ拍子に見開いた目で対面のヒカルを凝視し続けていた。そのあからさまな反応に、ヒカルも少しバツが悪そうな顔をする。
「ずっとってわけじゃねえよ。しばらく、だ」
 恐らくフォローのつもりで付け加えたのだろうが、ヒカルの言葉はアキラを浮上させる力を持たなかった。
 それどころか、すでにヒカルの中では決定事項として扱われているらしい「しばらく一緒に寝ない」という提案を、アキラは頭の中で理解することすら精一杯だったのだ。
 まず、耳が受け入れる事を拒否した。最初はただの音としてしか認識できなかった声を、しかしなけなしの理性が「噛み砕きなさい」と柔らかい叱咤をアキラに与え、渋々先ほどの発音と同じものを記憶を頼りに耳に反芻させた後、ようやく脳に信号を送って言葉の意味を受け取った。
 そうしてようやく出てきた言葉は、
「……何故?」
 自分でもあまりに情けないと感じるような、掠れた弱々しい声で一言だけだった。
 ヒカルはふっと小さなため息をつき、お湯で溶いただけのインスタント味噌汁をぐっと飲み干してから、あまり気乗りしない口調で理由を告げた。
「……ちょっとこれから帰り遅い日続くしさ。そんなに長い期間じゃなくていいから」
 たった一言でも声を出したことでアキラの硬直が解れてきたのか、すかさずアキラは言い返した。
「でも、これから遅い日が続くのはともかくとして、今日からというのは何故だ? 今日はもう何処にも出かけないだろう? 昨日も、一昨日もキミはソファで寝ていたのに……何故?」
 早口でまくしたてたのに、語尾がどうしても震えてしまう。アキラは冷静さを装おうと口元を引き締めるべく力を込めるが、閉じた口唇が微かに震えてしまっているのを隠し切れない。
 何故? 率直な疑問だった。ヒカルと一緒に暮らして二ヶ月、どうせ一緒に寝るからと元々ベッドはひとつしか購入していなかった。ヒカルもそれに同意してくれた。一昨日ヒカルがソファで眠るまでは、二人並んでベッドに横になることを疑問にも思っていなかったようなのに、何故突然。
「大体、ベッドはひとつしかないのに……別々で寝るって、何処で?」
「俺がソファで寝るよ。別に眠れないわけじゃねえし」
「でも、あんな狭いところで寝心地だって良くないだろう。キミ、疲れた顔してる……熟睡できてないんだろう? ソファなんかで寝たりするから……」
 言いかけて、アキラは唐突に口を噤んだ。
 目の前のヒカルの顔がじりじり不愉快さを表に出し始めたからだ。
 最初こそ躊躇いがちに切り出した弱気な目が、だんだん険悪に釣りあがってきた。眉間の小さかった皺が徐々に深さを増し、口唇の山形具合も立派にヒカルの心情を表している。まずい、とアキラは危険回避の言葉を探したが、どうやら遅すぎたようだった。
「疲れた顔で悪かったな。それでもお前と寝るよりはマシなんだよ」
「え……?」
「お前と一緒に寝たくないって言ってんだ」
 からん、と小さな音に今度は身体の反応さえ見せなかった。右手に持っていた箸が落ちた音だが、アキラは指に感じていた僅かな重みが落下したことも気付かず、非情な言葉を投げつけた目の前の恋人を愕然と眺めていた。
 ヒカルは苦々しく舌打ちをし、乱暴に立ち上がる。ガチャガチャと音を立てながらテーブルの上の食べ終わった食器を集め、まだ固まって動けないアキラの皿もぱっぱとまとめてキッチンへと消えていった。
 恐らく洗いものをしている水音を遠くに感じながら、アキラは茶碗と箸を取り落としたままの格好で呆けたように座り込んでいた。
 ヒカルに言われた言葉がぐるぐると頭を巡る。
『お前と寝るよりはマシなんだよ』
『お前と一緒に寝たくないって言ってんだ』
 忌々しげに表情を歪めて、ヒカルが吐き捨てた言葉のダメージが胸を貫き立ち上がることも出来ない。
 アキラは長いことそうしていた。
 ヒカルが一人で後片付けを済ませ、シャワーも浴びて、さっさと寝る支度をしているところでようやく意識を取り戻し、この二日に引き続きソファに簡易ベッドメイクを施しているヒカルに気づいて泣き出しそうに顔を顰める。
「進藤……何故?」
 ヒカルは答えず、黙々とソファを整える。
「何故だ? ボクに何か不満が? しばらくとはいつまでだ? しんど……」
「うるせえ、とっとと寝ろ!」
 それまでずっと押さえ気味だった恋人の口から飛び出した怒号は強烈だった。
 アキラは何かのスイッチを押されたようにぴょんと立ち上がり、逃げるようにリビングを飛び出す。アキラの数々の奇行に対してため息混じりで苦言を呈することが多かったヒカルがあそこまで声を荒げるとは、これはただごとではない。
 現状をこじらせた上、「別々に寝る」とヒカルが決意した何らかの原因があるはずで、アキラの心には困惑という名の嵐がごうごう吹き荒れていた。
 いつもは墜落睡眠のアキラだが、その夜は泣く泣く一人でベッドに横たわっても一向に眠くならず、ギンギンと見開いた目で暗い天井を睨み続けて一夜を明かした。
 翌朝鏡を覗いてみると、化粧を施したように見事なクマが目の下に鎮座していた。






この情けなさがいっそ清清しく……
感じる訳がないか……