MISTY HEARTBREAK






 朝食はまるで通夜のようだった。
 酷い顔色で食パンを齧るヒカルの様子を伺い続けるアキラと、そんなアキラを心底鬱陶しそうに、なるべく目を合わせないようにしているヒカル。
 アキラは食事にはほとんど手をつけず、それどころかキリキリ小さく悲鳴を上げている胃をそっと擦るのが精一杯だった。
 ヒカルはあからさまな仏頂面を見せている訳ではないが、全身から「話しかけるな」というオーラを発しているように感じられる。ここで機嫌を取るべく夕べのこととは関係ない気の利いた話でも出来れば良かったのかもしれないが、すっかり頭がマイナス思考になっていたアキラにそんな芸当できるはずも無かった。
 淀んだ空気の中、アキラは先に家を出なければならず、ようやく一晩ぶりに「いってきます……」と小さく声をかけたのだが、ヒカルは振り向きもせずに「ああ」と返事をしただけだった。返事をしてもらえただけ良かった、と楽観的に気分を転換させられなかったアキラは、意気消沈して背中を丸めたまま仕事に向かうのだった。


 ――これは喧嘩というのだろうか……?
 歩く道すがら、仕事中、アキラはずっと数日前からのおかしな状態について考え込んでいた。
 そもそもヒカルが初めに一人でソファで眠ったのは、酔って遅くに帰宅したからではなかったのだろうか? ベッドで眠るアキラを気遣って、わざわざソファで眠ることにした――それが二日続いた、それだけのことではないのだろうか?
 最初の朝、ヒカルはやけに機嫌が悪かった。まず、その原因が分からない。狭いソファで熟睡できずに疲れがとれていないせいかと思ったが、それなら何故三日も続けて同じ場所で眠るのか理解できない。
(……ボクを避けてる……?)
 心の中の呟きが反響し、確かな音となってアキラの頭を占めた。幻聴に悩まされる人間のように頭をぶんぶんと振り、アキラは痛む胃を堪えて背中を丸める。
 考えたくないことだが、考えなければならないことかもしれない。
 この三日、ろくに口をきいていない。いつもならいってきますもただいまも小さなキスを交わすのに、夜さえ別々に寝ているのだからキスどころか指先だって触れていないのだ。
 こんなことは付き合ってから初めてだった。
 ヒカルがアキラのしつこさに面倒くさそうにしていることはあっても、はっきりとした拒否を見せたことはなかった。いつだって、自分から求めてくることはなくともアキラの想いを受け入れてくれたヒカルだったというのに。
 好きだと告白し続けて五年、ようやくアキラの愛に応えてくれたヒカルは、アキラの望みを戸惑いながらも叶えるべく努めてくれた。手に触れたり、抱きしめたり、口付けたりしても嫌だとは言わなかった。我慢し切れなかったアキラのために身体すら開いてくれたのだ。
 そのヒカルが、こんなにはっきりアキラを拒絶するだなんて、ショックが大きすぎて頭がついていかない。
(でも……そう考えると、ボクは一体進藤に何をしてあげただろう……?)
 一方的に五年も想いを告げ続けることで、要するにヒカルが折れてくれたのだ。果たして、アキラと付き合うことでヒカルに何らかのメリットはあったのだろうか?
 アキラは青ざめる。
(ボクは……彼が喜ぶようなことは、何も……)
 ヒカルと一緒にいることでアキラはこの上ない幸せを手に入れたが、ヒカルとて同じとは限らない。一応恋人という関係ではあるはずだが、普段の生活といえば抱きしめてキスして夜はベッド、と実に短絡的だ。
 ヒカルがアキラと同じだけそういった行為を望んでくれているのなら問題はない。しかし普段のヒカルを見ているととてもそうは思えない。アキラが強請るから、渋々という表現が実にぴったりくる。
(……果たしてボクらは本当の恋人と言えるのだろうか……?)
 アキラは晴れてヒカルと恋人同士になった日の、ヒカルの言葉を思い出した。
『分かったよ。もう分かったから、お前と付き合ってやる』
 ……この言葉に、愛情というよりは投げやりな諦めを感じるのは今更だろうか……?
(ボクは……いつも自分の想いを押し付けてばかりだって、何度も進藤に怒られたっけ……)
 ヒカルの気持ちをきちんと考えてあげたことがあっただろうか? あんなふうにアキラを拒否するにはそれなりの理由があるはずなのに、分からないということ自体が問題では?
(ボクに……不満があるのかもしれない……)
 一緒に暮らしてからの二ヶ月、アキラが思いつく限りの気遣いを見せたつもりだが、そのどれもヒカルが自ら「して」と言ったものではない。
 ヒカルはいつも淡々とアキラの相手をして、アキラの過剰なスキンシップを時に窘めつつ受け止めてくれていたに過ぎない。
(その上ボクはアレも下手だし……早いし……一度じゃ終わらないし……)
 なんだか自分の全てが諸悪の根源であるように思えてきて、アキラはずしんと沈み込んだ気持ちを浮上させることができなくなってしまった。
 何もかもが、こうなってしまった原因に相応しいのではないだろうか? ……となると、一体どうすれば関係を修復できるのだろう?
(もし、ボクに嫌気がさして離れようとしているのだとしたら……)
 ――ヒカルは鎖骨に痕をつけた相手のところに行くのだろうか……
 ちらりと浮かんだ考えのネガティブさが、アキラのみぞおちに悪意という名の拳をぎゅうぎゅうと押し付けているようで、こみ上げる苦い唾液にアキラは胃を抱き込んだ。




 ***




 ヒカルが帰宅したら何をどう話そう――アキラは誰もいないマンションのリビングで、あらゆるシチュエーションを想定して会話のシミュレーションを試みていた。
 とにかく謝ってしまおうか。でも、具体的な原因が分からずに頭を下げて余計に怒らせてしまったら?
 理由を話せと詰め寄ったりしたら……夕べあれだけ声を荒げたヒカルが、逆に口をきいてもくれなくなるかもしれない。
 では、ほとぼりが冷めるまでじっと待ってみる? ……一生冷めずにそのままさよならすることにならない保障もないのに?
 何をやっても駄目な結末を迎えるような気がして、アキラはヒカルを待つ間まるで拷問のような時間を過ごしていた。
 帰ってきたときの顔色を見て、臨機応変に行くしかない。結局はそんな結論しか出なかったのだが、そうと決めた後も往生際悪くアキラは良い切り出し方を考え続けていた。
 時計の短針が十を指す頃、ふいにアキラの携帯電話が音を立てた。テレビもつけていなかった静かなリビングに突然鳴り響いた電子音はアキラを驚かせるのに充分だった。
 慌てて取り上げると、着信はヒカルから。一瞬頭が真っ白になったアキラだが、待たせてはまずいと通話ボタンを押す。
「も、もしもし?」
『あー、俺。お前、もう家?』
 少し声を潜めているのか、ヒカルの言葉は聞き取りにくかった。アキラはその声色に不安を感じながらも、「ああ」と返事をする。
『そっか。……今さ、和谷んとこいるんだけど。みんな帰る気配ねえし、俺もまだ打ってくから、今日ここに泊まってくわ』
「え……」
 思わず漏れた自分の声のか細さに呆然としながら、アキラは耳にあてている携帯電話に爪を立てた。
 アキラの反応は予想の上だったのだろうか、ささやかな呟きを無視したヒカルは相変わらずぼそぼそとした声で続けた。
『どうせ電車間に合わねえし。明日、こっから直接棋院行くから……』
「どうして?」
 咄嗟にアキラは聞き返した。頭で考えて質問したというよりは、条件反射のように言葉が口をついて出てしまった感覚だった。
『どうしてって……、だから、まだ打つし電車もなくなるって言ってんだろ』
「タクシーで帰ってくればいいじゃないか。帰れない距離じゃないだろう?」
『それはそうだけど……別にいいだろ、泊まったほうが楽だし。棋院だって遠くねえし』
「嘘だ」
『塔矢?』
「……ボクと一緒にいたくないから?」
 一瞬受話器越しにヒカルの息を飲む音が聴こえたような気がした。
 アキラはざあっと下りて行く血の気に目眩を感じながら、言葉に詰まっているヒカルを更に追求する。
「ボクと一緒にいたくないんだろう? 寝る場所まで別にして、今朝だってずっと目も合わせないようにして……! だから、そんな嘘までついて、」
『嘘じゃねえよ、和谷ん家でみんなで……!』
「……本当に和谷くん家?」
 自分でも驚くほど渇いた声をしていた。
 勢いに乗せて囁いてしまった言葉はしっかりヒカルの耳にも入ったようで、ほんの数秒の絶句の後に大声がアキラの耳を貫いた。
『バカ野郎っ、勝手に疑ってろ!』
 ブツ、と醜い切断音の後、ツーツーと無機質な音を残して通話は切れた。
 アキラは切れてしまった携帯電話を耳から離して握り締め、ぎゅっと目を瞑って項垂れた。






いや、これはヒカルが頑張ってると思います……