MISTY HEARTBREAK






 その晩も眠れたものではなかった。
 様々な危惧が頭を過ぎる。本当に和谷の家にいるのか。誰と一緒なのか。みんな、とは言っていたが、本当は特別な誰かと二人なんじゃないか。
 昨日も一昨日もただの飲み会ではなく、その相手と二人でいたのではないだろうか……そうして遅くに帰って来て、アキラを避けて一人で眠っていたのでは……身体に痕を残したまま。
 考えれば考えるほどどつぼに嵌っていく気がする。言葉の通り自分は肥溜めでもがいているのがお似合いだなんて自嘲的な考えまで浮かんで、アキラは二晩ヒカルが眠ったソファに座り込んだまま顔を覆った。
 ――意図的に避けられている――アキラの中でそれはすでに確定事項として掲げられていた。
 昨日のように気まずい会話を交わしたくないから、わざと顔を合わせないようにしているのだ。そして、アキラ以外の誰かと一緒に……
『勝手に疑ってろっ!』
 ヒカルの厳しい声が耳に甦る。
 ああ、疑っているさ。呟きは酷く惨めな色を帯び、アキラは自己嫌悪でぎりりと奥歯を噛み合わせた。
 恋人を疑う。なんて愚かで哀しい行為だろう。
 おまけに、そもそもの原因が自分にあるからかもしれないなんて……情けないにも程がある。
(こんなだから、呆れられたのだろうか……)
 一人の夜は長い。
 寝室に向かうどころか、ソファから立ち上がることもできず、アキラはまんじりともしないで辛い夜を過ごすことになった。




 ***




 翌朝にもヒカルからは何の連絡もなく、アキラは一人で仕事に向かい、そうして再び一人のマンションに帰ってきた。
 ヒカルはまだ戻っていなかった。……このまま、戻らないのかもしれない、そう思うとアキラの胃がキリキリと嫌な音を立てる。
 携帯電話を何度も確認するが、着信もメールも入っていない。アキラは無情な液晶画面を見てはため息をつき、それでもヒカルが帰ってきた時のためにと健気に夕食の支度をした。
 食欲はなかったが、アキラは無理をして簡単に食事を済ませ、何をするでもない手持ち無沙汰な時間が余計に苛立ちを募らせないよう、身体を少しでも動かしていようと風呂の準備を始めた。
 必要以上にきっちりと洗い上げた浴槽に湯を張っていると、玄関からガチャガチャとドアの鍵をいじる音が聞こえてくる。
 アキラは弾かれたように顔を上げ、慌てて浴室を飛び出した。
 玄関に顔を出すと、ちょうどヒカルが鍵を開けて入ってきたところだった。アキラと目が合い、少し気まずそうに伏せてから、小さな声で「ただいま」と一言。
 アキラはようやくヒカルの顔を見られたことに安堵の息をついた。
「お、おかえり……」
 声が震えてしまう。帰って来てくれた、その事実で胸がいっぱいになって、それ以上の言葉が出てこなかった。
 ヒカルは軽く頷いて、靴を脱ぐ。そのままリビングに向かう背中を追って、アキラも濡れた裸足のままぺたぺたと廊下を歩いた。
 ヒカルはリビングで無造作にリュックを下ろして、はあ、と大きなため息をついた。肩が凝っているように首を回す仕草が無性にアキラの胸を締め付ける。
 何を話したものか、とアキラが戸惑っていると、ふとアキラを振り返ったヒカルが複雑な顔を見せた。なんだか申し訳なさが混じったような、ぎこちない表情だった。
「その……、昨日、悪かったな」
 アキラは目を見開いて、そのまま大袈裟に瞬きをした。
 アキラの返事を待たずにヒカルは続ける。
「和谷んとこで盛り上がっちゃってさ。帰るつもりだったんだ、本当は……昨日はたまたま泊まることになっちまったけど。連絡も遅くなったし、お前、心配してたんだろ? ……ごめん」
 ストレートな謝罪を受けたアキラは、かえって胃の痛みが増したことを実感した。
 ぶっきらぼうな言葉でも、ヒカルは真剣に謝ってくれている。……先にくだらない疑いをかけたのはアキラだというのに。
(何故、そんなに簡単に謝るんだ……?)
 そうして再び余計な疑惑が生まれてくる。
(やましいことがないのなら、キミのことだ、あっさりと頭を下げたりしないだろう……?)
 その醜い詮索にアキラは自分で吐き気を感じた。
 恋人のことを信じられなくなっているアキラを、ヒカルは真っ直ぐな目で見ている。
(……ダメだ、こんなこと考えちゃ……)
 あまりに情けない考えを振り切るように一度ぎゅっと目を瞑ったアキラは、躊躇いながらも顎を上げる。
「……ボクも、変なことを言ってすまなかった……」
 やっとのことでそれだけ言うと、ヒカルの表情に力が抜けて少しだけ和らいだように見えた。
 なんだかその顔を見ているのが辛くて、アキラは顔を背けるようにしてキッチンに足を向ける。
「ゆ、夕飯は? 用意してあるけど」
「ん、まだ。もらう」
「お風呂もあるよ」
「先に飯食う。お前、入ってきていいよ」
 頷いたアキラは、テーブルについたヒカルの前に夕食を並べ終えると、そそくさとリビングを出た。
 いつものように振舞えない自分が悔しい。真面目な顔で謝ってくれたヒカルをまだ疑っている自分が情けない。
 とてもまともに話ができそうにない――逃げるように飛び込んだ浴室で、アキラは昨夜と何ら変わりない悶々としたひと時を過ごした。
 風呂を出てからもどんな顔でヒカルと会ったら良いのか分からずに、できれば入れ違いですぐに風呂に入って欲しいなんて拙い願いを持ちながらリビングのドアに近づいた時、アキラが出た時にきちんと閉めてこなかったのか、僅かに開いた隙間からヒカルの声が聞こえてきた。
「……うん、まあ、何とか。ああ、それは大丈夫だよ」
(独り言……? 違う、電話か……?)
 ドアノブに触れようとした手の形のまま動きを止めたアキラは、ドアを開くタイミングを失って立ち尽くしてしまった。
 すぐ傍にアキラがいるとは知らないヒカルが、誰かとの通話を続けている。
「でも、アイツちょっと疑ってるっぽいから。しばらく、そっち行けねえと思う……うん」
 ぎくりとアキラの心臓が嫌な音を立てた。
 宙に浮いたままの手がカタカタと小刻みに震え始める。
「明日? 明日は何とかして行くよ。せっかくの記念日だし……」
 すうっと視界が白くなりかけて、アキラはバランスを崩す寸でのところで壁に手をついた。幸い音もなく、ヒカルはアキラの存在に気づいていない。
「ああ、サンキュ。……そうする。じゃあ、またな」
 そのヒカルの言葉を最後に、リビングから聞こえる声は途切れた。恐らく通話は終わったのだろう。しかし捩れたアキラの時間は元に戻らない。
(……誰と話していた……?)
 アイツ疑ってるっぽいから……
 しばらく行けねえと思う……
 ヒカルの言葉がわんわんと頭の中で反響し、思わずアキラは耳を押さえた。
(今のは誰だ……?)
 息が苦しくて、胸が痛い。アキラはその場に蹲りそうになるのを必死で堪えて、きゅっと口唇を噛む。
 そうして肩に引っ掛けたままのバスタオルを頭にかぶり、髪を拭くフリをしてリビングのドアを開いた。
 ずっとそうしていました、という雰囲気で、ソファに座っていたヒカルが振り返る。
「お疲れ」
「……ああ。キミも入って来るといい」
「そうする」
 アキラはタオルで顔を隠すようにしながら、ヒカルと入れ替わりにソファへ腰を下ろした。ヒカルはそのままリビングを出て行く。
 ヒカルの携帯電話はリビングテーブルに置かれたまま。
 アキラの喉がごくりと音を立てた。
 髪を拭いていた手が動きを止め、おもむろにテーブルへと伸びていく。その瞬間、カタンと音がしてびくっと肩を竦めたアキラは咄嗟に背後を振り返った。
 リビングのドアはそのままだった。……ヒカルが浴室のドアを開閉した音のようだ。
 こちらに来る気配がないと分かり、アキラはほっと浮かした手を胸に当てた。心臓が激しく収縮し、胸に触れているタオルまで揺らしている。その動揺っぷりにアキラは奥歯を噛み締めた。
 ――ボクは一体何をやっているんだ。
 こんな、情けないこと。人に罵られたって仕方がないことをしようとした。
(でも、でも……!)
 身体中を支配する濁った血が逆流せんばかりの勢いで巡り、アキラの理性を狂わせようとする。
 これは怒りだろうか、それとも哀しみか。
 嘆きの力か、嫉妬が過ぎたのか、いけないと分かっていながらアキラは意識を他に移せずにいた。
 葛藤は長かった。テーブルに置かれたままの携帯から目を逸らそうとしているのに、気付けば横目で小さなボディを睨んでいる。
 先ほどの電話の相手は誰なのか。ひょっとしたら、メールでもやりとりをしているかもしれない。
 ……ヒカルが、アキラ以外の誰かと親密であるという証拠がここに残されているのかもしれない。
 そう思うと、胃液がこみ上げてくるような酸味を口中に感じたが、不快感に勝る「知りたい」という欲求がむくむくと心の中で増殖していく。
 しかし手に取ってしまったら最後、本当に越えてはいけないラインを踏みにじってしまう気がして、むずむずと動き出す腕を必死で留めようとする。
 ――だって、これは興味本位とかそういうものではない。
 明らかな疑惑の元に、それを暴こうと盗み見をしようとしているのだ。
 そこにあるのは紛れもない負の感情。その上、自分はそれを恥だと思っている。だからこそ隠れて働こうとしている、いわゆる悪事なのだ。
 しかし、もしもヒカルに「携帯を見せてくれ」と直接伝えられたとしても、ヒカルは首を縦に振るだろうか? やましいことがあるのなら見せようとはしないだろう。たとえ見せてくれたとしても、その時は良からぬ痕跡を消してから渡されてしまうかもしれない。
 それでは真実がうやむやになってしまう。本気で知りたいと思っているなら、今この瞬間に確認するのが一番確実ではないか?
(……そうだ。誰かと話していたのは間違いがないんだ……)
 その相手が、――ヒカルの身体に痕を残した人間かもしれないのだ。
 そう思った瞬間、まるで皮膚の内側が沸々と煮えたぎるように強烈な熱を帯び始め、アキラは鏡を見なくても自分の顔が紅潮していることを悟る。
 他の誰かが、あの身体に触れたかもしれない。
 髪に、口唇に、胸に、他の誰かの指が這ったかもしれない。
 それはアキラから人の尊厳を奪うに容易い想像だった。






アキラさんがしようとしていること、
人によって全然気にならない人と絶対ダメな人に分かれそうです。