アキラは一度ぐっと握り締めた拳を、緩く解いた。 力のない、けれどはっきりした意志が見える指先を軽く広げたまま、ゆっくりと腕を伸ばしていく。 心臓が早鐘を打っていた。耳のすぐ傍で脈打つ命の拍動がドンドンと響き、生唾を飲み込む音さえも聞こえない。 テーブルの上に伸びた手が、そっとヒカルの携帯電話を捕らえた。冷たい小さな塊を取り上げて、色のない目でじっと見下ろす。 アキラは意を決して、折りたたみの携帯電話をぱちんと開いた。 「何やってんだよ」 鋭い声が背中に刺さり、一気に全身の熱が外へと逃げた。 アキラは振り返る。ソファの後ろに、風呂上りで髪を濡らしたままのヒカルが目を細めて立っていた。 硬直したアキラが答えられずにいると、ヒカルは大股でソファの前に回りこみアキラの手から携帯を奪い取った。 「何、コソコソやってんだよ。お前……そういうヤツだったのか?」 早口で告げるヒカルの声は掠れていて、その顔には失望が色濃く浮き出ていた。 アキラは先ほどまで紅潮していた顔を今度は青くして、言い返すこともできずに口唇を震わせた。 「……サイテーだな」 ぽつりと吐き捨てて、ヒカルはアキラに背を向けた。 堪えきれなくなったアキラは、立ち上がって「進藤!」と叫ぶ。 「キミが……、キミが悪いんじゃないか!」 ぴく、とヒカルの肩が揺れた。 ゆっくり振り返った目には鋭い光が宿り、アキラを怯ませるに充分だった。 「……俺が悪い?」 低く聞き返す声に我に返ったアキラは、たじろぎながらもしどろもどろに言葉を繋ぐ。 「だって……、だって、キミがボクを避けるから……、さっきの電話だって……、」 みっともなさに泣きたくなりながらも何とかそれだけを口にすると、ヒカルが忌々しげに顔を歪めた。 それから小さな舌打ち。――聞いていたのか、とでも言うように。 ヒカルはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げてアキラを見据えた。その目ははっきり軽蔑を表していた。 「……誰がそうさせてんだよ」 ヒカルはそれだけ言うと、アキラから顔を背けてドアへ向かう。アキラが何か言おうと腕を伸ばしかけたが、 「お前、今日そこで寝ろよ」 ヒカルはそれだけ残してリビングを出て行ってしまった。 手のひらをドアに向けたままの間の抜けた格好で、アキラは呆然と立ち尽くす。 ――分かってる。今のはボクが悪い…… 分かっていても、やりきれない思いが絶えず胸を襲ってきて、アキラは胃を抱えてその場にしゃがみこんだ。 もう、ヒカルの心は変えられないのだろうか? 何もかもメチャクチャだ…… アキラは膝に両目を押し当て、声を殺して一晩中肩を震わせていた。 いつの間に眠ったのだろう。 ソファに突っ伏すようにして意識を失っていたアキラは、背中に毛布がかけられていることに気づいてはっと頭を上げる。 リビングはすっかり明るくなっていて、カーテンも開け放たれていた。咄嗟に壁の時計を見るとすでに時刻は九時。アキラは目を擦り、その瞼や目尻が腫れてヒリヒリすることに顔を顰めた。 立ち上がって辺りを見渡したが、ヒカルの気配はない。そっとリビングを出て寝室を覗いても、ヒカルの姿はなかった。 もう、出かけてしまったのだ。眠ったままのアキラを置いて。 「……」 夕べの会話を思い出して、再びこみ上げてくる瞳の奥の熱をぐっと堪えた。 ――きっと軽蔑しただろう…… 恋人としてろくなこともせず、疑いのあまりあんなことまでしようとしたなんて。 顔も見たくないと言われたって仕方のないようなことをしたのだ。ひょっとしたら、今度こそ帰ってきてくれないかもしれない…… 「……進藤……」 せめて、もっとちゃんと話せばよかった。 何故怒っていたのか、どうして別々に眠りたがったのか、悪いところがあれば直すよう努力するからと誠実に向かい合えばヒカルだって考え直してくれたかもしれない。 全てのチャンスを自分でぶち壊してしまった。 それだけのことをした。 ヒカルはきっと許してはくれない…… *** 夕方に帰宅したアキラはそれからずっとヒカルの連絡を待っていたが、携帯は一度も震えずに時刻はいつもの就寝時間を示そうとしていた。 ソファに浅く腰掛けて、無音の部屋の中でひたすらヒカルを待ち続ける。 やはり帰っては来ないだろうという諦めの気持ちと、ひょっとしたら帰ってきてくれるかもしれないという期待が戦う中、ここ数日まともに眠っていなかったせいでひたひたと睡魔も忍び寄ってきていた。 それまでは午後十一時になれば一気に熟睡モードに突入していたアキラである。精神的には眠るどころではなくとも、身体が休息を欲していた。 何度も時計を見る。見るたびに、当然のことだが時間は過ぎて行く。 ヒカルが帰って来る気配はない。携帯も鳴らない。 (……今頃、他の誰かと……) 膝の上の拳を固く握り締めた。想像するだけで胸がむかむかと焼けるようだった。 『明日は何とかして行くよ。せっかくの記念日だし……』 昨夜のヒカルの電話での台詞。 誰かと逢っているのは間違いがない。おまけに――アキラの知らない誰かと記念日を作っていたなんて、悔しさを通り越して自分が情けなくて仕方がない。 今も、その相手と二人でいるのだろうか。 触れあったり、……口付けを交わしたりしているのだろうか…… 「……!」 アキラはぐっと口唇を噛んで、もうひとしきり苦痛に耐えるように身体を強張らせてから、やがてふっと肩を落とした。細く長い溜め息を漏らして、暗い表情のまま顔を上げたアキラは、そのままふらりと立ち上がる。 覚束ない足取りでリビングを出て、寝室へ向かう。 ヒカルは戻って来ない。考えれば考えるほど、苦しくて切なくて痛くて正気でいられない。 身体は眠りを欲しがっているのだ。もう、何もかも忘れて眠ってしまおう。目が覚めた後に待っている地獄のことなんか考えたくない。今だけは、何にも頭を支配されずに泥のように眠ってしまいたい。そうして二度と目なんか覚めなければいい。 一人きりのベッドに潜り込んで身体を横たえると、その広さがあまりに哀しかった。 眉を寄せながら無理矢理に目を閉じて、脳に闇の信号を送る。 ぷつりと、まるで思考を切断されたかのように、アキラは眠りに落ちていった。 ……サア……サア…… (……) ……サア……サア…… (……何の音だ……?) ……サア……サア…… (……、水の音……?) アキラは薄らと目を開く。 まだ暗闇が広がっているから、夜は明けていない時間のようだった。 目を開いて軽く瞬きし、ベッドの上で身を起こして耳を澄ませた。……変わらず聞こえる水の音。 アキラは思わずベッド後方のドアを振り返った。寝る前にきっちり閉めたはずのドアには隙間ができて、そこから僅かに光が差し込んでいる。 アキラは一気に眠気を吹き飛ばし、ベッドから足を下ろした。 ドアに触れて、寝室の外から聞こえる水音の出所を探って――浴室だ、と見当をつけた。……誰かがシャワーを浴びている。 (誰か、だって……?) ヒカルしか考えられない。では、ヒカルは戻ってきてくれたのだろうか? アキラは寝室を振り返って壁に目を凝らし、ぼんやり見える時計の針を読み取った。まだ時刻は午前三時。こんな時間に帰宅して、シャワーを浴びているなんて…… アキラの胸がざわざわと嫌な音を立て始めた。 どくん、どくんとにわかに速度を速めて行く心臓に合わせて、一歩一歩寝室の外へ出て行き、浴室へ向かって行く。 浴室のガラス戸から漏れる灯り。水の音はやまない。ガラス越しに見える肌色を確かに目に捉えたアキラは、息を呑んでそのドアに手を伸ばした。 |
愛すべきへたれを目指したはずなのに
ただの鬱陶しい男になってしまった……