MISTY HEARTBREAK






 ドアノブを握ってから躊躇いなく開いたガラス戸の向こうで、頭からシャワーの湯を浴びていたヒカルがぎょっとして振り返った。驚きに目を大きく見開いて、唖然と開いた口の傍を水滴が落ちて行く。
「塔……矢?」
 湯気のこもる浴室にこもった呟きが響いた。
 アキラはドアを開け放したままの格好で、くまなく濡れそぼったヒカルの身体を凝視し、硬直した。
 ――首筋に赤い痕。
 以前見た鎖骨のものとは場所が違う――そう思った瞬間、アキラは濡れるのも構わず乱暴にヒカルの両肩に掴み掛かった。
「なっ……」
 咄嗟のことでアキラの腕を回避仕切れなかったヒカルは、そのまま浴室の壁に背中を打ち付けた。がらん、と大きな音がして、ヒカルが手を離したシャワーが水の勢いに負けて床で頭を振っている。
 飛び散った水がアキラの身体をも濡らした。
 アキラはヒカルを壁に押さえ付けたまま、その肌をまじまじと見下ろす。
 首、胸、ひとつではない、点々とつけられた赤い小さな痣がいくつもヒカルの肌にはっきりと残されている。
 アキラは全身の毛が逆立つような錯覚を感じた。
「……!」
 未だ不意打ちのショックから目覚めていないヒカルの顎を乱暴に掬って、無理矢理に口付けた。ヒカルは目を剥き、口唇を強張らせてアキラの胸を手で押し返そうとする。
 拒否されたことがますますアキラに火をつけて、アキラはなおもヒカルを拘束しようと強引に腕に抱き込んだ。それから真新しいキスマークが浮かぶ首筋に噛み付くように口唇を当て、上から塗り潰すかのごとく吸い上げる。
「バカ……ッ」
 ヒカルがアキラの頭を掴み、押し退けようと力を込めた。
 アキラは必死でヒカルにしがみついた。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ!
 誰にも渡したくない。この身体が誰かのものになったなんて考えたくない。
 このまま閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない。指一本だって触れさせない。たとえヒカルに愛想をつかされてしまったのだとしても、聞き分け良く別れるなんてことはできない!
「おい、バカ! 何やってんだ、離せっ……」
「嫌だ、進藤、ボクは、ボクはキミがいないとっ……」
「何訳分かんねえこと言ってんだ! いいから離せ!」
「キミが好きだ、愛してる! キミを誰にも渡したくないっ!」
 狂ったようにヒカルの身体を掻き抱くアキラに、ついにヒカルの怒りが頂点に達したようだった。
「落ち着け、このバカ!」
 怒号と共にごん、と鈍い音が響き、次いで頭頂部に感じた激痛にアキラの力が緩む。どうやら加減無しで肘打ちを食らわされたらしい。
 ヒカルはその隙にアキラを突き飛ばし、今度はアキラが狭い浴室で対面の壁に背中を打った。大声を出したせいで荒く息をつくヒカルに睨まれながら、アキラはずるずるとその場にへたり込む。
 もうパジャマは濡れ放題だったが、それを気にする余裕は全く無かった。アキラは浴室の床に尻をつき、情けなくもこみ上げて来る涙を堪え切れず、ひく、ひくと身体を揺らし始めた。
 ヒカルは濡れた髪を掻き上げて、床でざあざあと水を振りまいているシャワーを掴み、ノズルを捻って湯をとめる。それから呆れ顔でアキラを見下ろし、大きく溜め息をついた。
「お前……何誤解してる?」
 心底面倒臭そうに、しかしヒカルはそう言った。
 アキラはひくひくと喉を上下に揺すりながら、極限まで眉を垂らして「え?」とか細い声を漏らした。
「だから。お前、何か誤解してるだろ」
「……誤解?」
「この痕、誰がつけたと思ってんだ?」
 いきなり核心を突かれ、アキラは顔を引き攣らせた。
 やはりヒカルは誰かに痕をつけられていた――そして、それをアキラに告げようとしている。アキラは歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑って頭を振った。
「嫌だ、聞きたくない……っ! ボク以外の誰かがキミに触れただなんて」
「バカっ!!」
 アキラの言葉を遮って、ヒカルは浴室中に反響する怒鳴り声を上げた。
 思わず身を竦ませてヒカルを見上げたアキラに対し、ヒカルは人さし指を突き付けた。
「お前だ!」
「へ?」
「こんなことするヤツ、お前以外に誰がいるんだよっ!」
 ヒカルの言葉にアキラは呆然と瞬きして、すぐに戸惑って首を振った。
「そ、そんなはずがない! ボクはそんなことした記憶はない!」
 ヒカルは舌打ちし、忌々し気に吐き捨てる。
「やっぱ本気で覚えてねえのかよ……」
「え……?」
「すげえムカつく。あんだけやりたい放題やりやがって、記憶がありませんだあ……?」
 ヒカルは苛立ちを隠さず、恨みを込めた呟きを口にし、アキラは状況が掴めずぽかんと口を開けたままヒカルの様子を眺めていた。
 ヒカルは再びアキラを睨み付け、へたり込んでいるアキラの襟首を掴んで無理矢理立ち上がらせる。息苦しさにアキラは若干咽せたが、目の前に突き付けられたヒカルの怒りの形相に声を詰まらせて何も言えなくなってしまった。
「説明すんのも胸くそ悪いけど、お前があんまりバカなこと言いやがったから教えてやる。これつけたのは全部お前だ! さっき、帰ってきた俺を無理矢理羽交い締めにしてヤったんだろうが!」
 その言葉にアキラは目を剥いた。
「そ、そんなわけないだろう! ボクは今まで寝ていたんだぞ!?」
「そうだよ、寝てんだよ! 寝ながらヤってんだよ! お前のその人間離れしたバカ力で押さえ込まれていいようにされて、こっちは連日へとへとだってのに、マジで熟睡してやがったのかこの万年発情期!」
 口角に泡を飛ばす勢いでがなったヒカルは、それだけ怒鳴るとぱっと手を離した。途端に釣り上げられていたアキラの身体がすとんと床に落ちる。
 アキラは呆然と床に座り込んで、瞬きも忘れてヒカルを見上げた。
「……本当に?」
「本当だ……!」
 力強いヒカルの仁王立ちを前に、アキラは激しい目眩を感じた。
 思わずよろめくように首を垂らして顔を覆うと、その頭の上にヒカルの大きなくしゃみが響き渡った。




 ひとまず服を着替えてリビングに落ち着いた二人は、改めて状況理解に努めなければならなかった。
「……だから、お前、俺がベッドに潜り込んだらそのまま盛りやがったんだよ。やめろっつっても聞かねえし、全っ然起きねえし。しかも欠片も覚えてねえなんてな……!」
「……すまない……」
 詰めれば三人は座れるソファの端にでんと座って足を組むヒカルから一人分離れ、アキラはソファの反対側の端っこで小さくなって項垂れる。
 ヒカルの話を要約すると、最初にヒカルが遅く帰宅した夜、寝室へアキラの様子を見に来たヒカルをぐっすり眠っているアキラが捕まえ、そのまま事に及んだということだった。その上終わったら何事もなかったかのように再び深い眠りについたアキラに激しい怒りを覚えたヒカルは、ストライキの意味も込めてソファで眠ったらしい。
 その日だけの出来事ならまだ良かったのだが、次の夜もアキラは同じように無理矢理ヒカルを抱こうとした。さすがに二晩連続は冗談じゃない、と何とかアキラの腕から抜け出すことには成功したものの、鎖骨にキスマークは許してしまった。寝心地の悪いソファで二晩も眠ることを余儀なくされたヒカルの機嫌は下降の一途を辿った。
 今度は最初から別々で寝ようと提案すれば、アキラはぐじぐじと文句を訴えて来る。いい加減苛々したヒカルは、説明もそこそこにアキラを突っぱねたという訳だ。
「で、でも、次の日キミは別のところで泊まるって……!」
「あれはマジで和谷ん家だよ。まあ、お前があんまりうるさくて帰りにくかったってのもあったから、つい俺も歯切れ悪くなっちまったけど……」
「じゃ、じゃあ、あの電話は? ボクが疑ってるから、しばらく行けない、でも明日は記念日だからって……!」
「ああ? そのままだろ。お前、なんか変な勘違いして俺のこと疑ってただろうが。記念日ってのは森下先生の誕生日だよ!」
「はあ!?」
「お前、何で最近飲み会多かったのか分かってなかったのかよ!」
 ヒカルは怒鳴って、それから盛大な溜め息をついた。
 アキラは大口開けて聞き返した表情のまま肩を垂らし、眉尻を下げて何とも情けない表情を作る。
 つまり、ヒカルの飲み会続きは森下九段の誕生日祝いと称して、後援会、弟子、家族とそれぞれ別々の主催で開かれたパーティーに全て呼ばれていたためだった。
 アキラが誤解した電話の相手は和谷で、前日のアキラとのやりとりを心配してかけてきたらしい。アキラには自覚がなかったが、ヒカルを恋人にすべくアキラが走り回っていた五年間、余計なところで余計なことを散々振りまいたせいで、近しい人たちは皆ヒカルとアキラの関係を知っているのだという。アキラがどれほど単純で嫉妬深いかも。
「……お前、俺が浮気してるって思ってたのかよ」
「……、本当に申し訳ない……」
「だから、携帯まで覗き見しようとしたんだ?」
「あ、あれは、本当にすまなかったと……」
「俺のこと疑ってたんだ」
「……」
「信用されてねえんだ、俺」
 アキラは耐え切れず、ソファから飛び下りてがばっと床に手をついた。そして深く頭を下げ、「すまなかった!」とひたすら謝罪を繰り返した。
 ぺこぺこと米つきバッタのように頭を下げ続けるアキラをしばらく見下ろしていたヒカルは、ふうっと大きな溜め息をひとつついて、何かを観念したように目を閉じた。
 そうしてソファから立ち上がったヒカルは、地べたに這いつくばる勢いのアキラの前で膝をつき、情けなく項垂れている黒い頭にぽんっと手を置く。
「もういい。分かった。ホントはそんなに怒ってねえよ」
「進藤……」
 ヒカルの言葉に頭を上げたアキラの弱々しい目に一瞬うんざりしたような顔を見せつつも、ヒカルは目を逸らさずに淡々と告げた。
「お前が単純なのは知ってるし。思い込み激しいのも、一人で突っ走るのも全部知っててつき合うことに決めたんだから、俺もある程度の覚悟は出来てる。だから、もう疑うな」
「進藤っ!」
 がばっと身体を起こしてしがみつくように抱き着いて来たアキラを受け止め、ヒカルは子供をあやすようにぽんぽんと背中を叩いてやった。
「ぼ、ボクが悪かった。本当に、何と謝ったらいいか……!」
「もういいって。俺もはっきり言わなかったから悪かった。今度同じことがあったら髪の毛引っこ抜いてでも起こしてやるから」
「し、進藤……」
「あと、俺がいない時は一人で適当に抜いとけ」
「進藤〜」
 肩に顔を擦り付けるアキラを宥めながら、ヒカルは再び小さく溜め息をつく。その表情にはやはり悟りを開いたように、達観した潔さがあった。
 アキラはまだ気付かない。自分と一緒にいてくれることこそが、ヒカルの最大の愛情表現だということに。そして、淡白な言葉の裏に隠された愛情の深さが奈落の底まで繋がっているという恐怖を、まだ知らない。
 アキラの想いを受け入れた時点でヒカルがすっかり腹を括っていた、その覚悟の凄まじさを知るには、自分の非常識さを理解していないアキラにはまだまだ時間が必要なようだった。






30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「ヒカルが浮気してると勘違いしてマジで焦る若希望です笑。
というか、アオバ様のアキラ(ヘタレ早漏)が
大好きなので。。その設定でお願いします。」

戴いたリクエストの「マジで焦る」と「ヘタレ早漏」の解釈に凄く迷って、
恐らく本編のアキラさんを想定して下さっていたのかな……?と思ったのですが
本編に「マジで」焦ってる内容のお話を入れるのが難しくて
別物のお話にさせて頂きました。そのせいでアキラさんの設定が
多分ご期待されていた感じからかなりずれたのでは……
やるならとことんやろうと思って書きましたがやりすぎた……?(汗)
(ご気分悪くされた方がいらしたら本当にすいませんでした……!)
浮気疑惑ということでオチは最初から皆さん分かってらしたと思いますが
それにしてもこれではヒカル側になんのフォローもないので
ヒカル視点のおまけもつけさせて頂きました。(下のNEXTから行けます)
このおまけも非常に微妙な感じではあるんですが……
こんな話になってしまってすいません!リクエスト有難うございました!
(BGM:MISTY HEARTBREAK/access)