Maybe Tomorrow





 棋院に到着してから、感じる視線は決して気のせいではなかった。
 覚えのある顔もちらほら見える。アキラはなるべく目立たないように大人しくしているつもりだったのだが、彼らのあからさまな視線と、時折交わされる耳打ちが全く気にならないといえば嘘になる。
(ひょっとして、昨日のことだろうか)
 「棋院の階段から落ちた」と説明を受けた。それならば、棋院でそのことが噂になっていてもおかしくはない。ましてや自分と何かあったらしいヒカルも一緒に落ちたのだ。
 もっとも、特に親しくもない人々が自分とヒカルの間にあった出来事を知っているかは分からないが……
 それにしても、嫌な視線だった。
 興味本位を多分に含む、アキラを遠巻きに囲む好奇心の目。
 たまたま昨日出会った人たちはアキラの味方ばかりだったが、決して敵がいないわけではないのかもしれない――アキラはとにかく、冷静に状況を判断しようと努めた。
 手合いの時間が近づくが、ヒカルの姿は見えなかった。
 そもそも、今のヒカルは自分のスケジュールなど全く分からないのではないだろうか?
(そうか、しまったな)
 あの部屋の雰囲気から見て、こまめにスケジュール帳を持ち歩くような性格ではないのだろう。それどころか、まともな生活を送っているかも怪しい。
 後で事務局に行って、こっそりヒカルのスケジュールを調べておこう。それから何か食べるものと、あと、できたらカーテンも用意して。あの寂しい部屋を月に見下ろされる風景は何とも居心地が悪かった。アキラがそんなことを考えていると、後ろから肩を叩かれた。
 振り返ると、和谷が立っている。
「よう。……身体、大丈夫か?」
「おはよう。もう何ともないよ」
 こちらの世界ではかなり親しくしているらしい和谷に、平静を装って笑顔を見せた。
「今日の手合、頑張れよ。お前なら、落ち着いてやれば実力はあるんだから」
 真剣な顔で力説する和谷を前に、アキラはつい浮かんでしまう苦笑をなんとか抑えた。
 まさか彼にこんな台詞を吐かれようとは。現実の世界では和谷は確か五段、未だリーグ入りは果たしていない。
 しかしこちらの世界ではアキラは未だに三段なのだ。五年もプロの世界にいながら、三段。本当に実力があるかどうか疑わしくなってくる。
「ありがとう、頑張るよ」
 アキラはこちらの「塔矢アキラ」が答えるであろう返事を穏やかな笑顔で返し、和谷を安心させようとした。ところが和谷の表情は晴れず、逆にその額に影が落ちたように感じる。
 アキラが目を見張ると、和谷は躊躇いがちに口を開いた。
「あまり……無理、すんなよ。その、気にするな」
「……? あ、ああ……」
 「気にするな」の一言が酷く気になるが、あえてアキラは触れなかった。恐らく、この世界のアキラにならそれで通じる話なのだろう。
(やっぱり、ただ階段から落ちただけじゃなさそうだ)
 ヒカルに対して異常なまでに嫌悪を示す和谷。
 アキラの幸せを願うと泣いた伊角。
 過保護すぎるほどアキラの面倒を見る芦原。
 そして、この周囲の妙な反応。
(多分、ボクと進藤の間に厄介な何かがあった。それを和谷君や伊角さんは知っている。)
 加えて、ヒカルが酷く荒れた生活を送っていて、自分は逆に温室でぬくぬくしているという状況が問題なのかもしれない。
(全く、棋院に電車で来るだけで疲れるなんて……。体力を使うタイトル戦はどうする気なんだ? そんな状態だからいつまでも三段なんだ!)
 今朝のことを思い出してだんだん苛立ちを感じ始めた頃、ぞろぞろと対局室に人が向かうのを見て、もうそんな時間かとアキラは腕時計を見た。
 人の群れに続き、落ち着かない気持ちに喝を入れる。
 どんな状況であれ、碁盤を前にして集中できないなんて情けない事態は避けたい。気を引き締め、姿勢を正して指定された位置にアキラは正座した。
 向かいに座る対局者はまだ来ていなかった。
 アキラは軽く辺りを見渡し、顔ぶれを確認する。
 今日の手合は低段者ばかりで、アキラの興味を引く人物は見当たらない。そういえば、先ほどアキラの肩を叩いた和谷の姿も対局室には見えないようだ。
 ならば何故あんなところにいたのだろう、と訝しげに眉を寄せ、アキラははっとする。
 ――ひょっとして、手合がないのにここまで来てくれたのだろうか?
(ボクのことを心配して?)
 アキラは絶句してしまう。どれだけ彼らに過保護に扱われているのだろう。
(それとも、過保護にしなければならないほどのことがあった?)
 あまりそんなふうには考えたくないが、病室での和谷の様子は尋常じゃなかった。
 真実を知るのが怖くなってくる。この世界はあらゆることが極端すぎて、まだ二日目だというのに何年分もの疲労をすでに感じているのだから。
 ふと、目の前に影が落ち、アキラは訪れたであろう対局者を見上げた。名前も知らなかったが、やはり顔にも覚えがない。年のころはアキラよりも若干下だろうか。
「おはようございます」
「……」
 頭を下げたアキラに対し、彼は無言だった。
 挨拶ひとつできないなんて常識のない男だ――アキラが目の前の相手にそんな評価を下した時、彼はおもむろに陰気な声でぼそぼそと呟いた。
「……俺、今日昇段かかってるんだよね。」
「……はあ」
「頼むよ」
「……?」
 俯きがちだが、黒目だけをぎょろりとアキラに向けてにやりと笑う男は酷く不気味だった。
 アキラが彼の言葉の真意を測りかねていると、対局開始のブザーが鳴る。
 戸惑いのまま手合い前の挨拶を交わすことになった。