Maybe Tomorrow





 六時きっちりに覚めた目は意外にすっきりしていて、アキラは僅かな睡眠時間でも随分集中力を取り戻せたことを実感した。
 懐かしい実家の天井がそうさせたのだろうか。布団から抜け出たアキラは手早く着替え、携帯電話に何か連絡がないかをチェックしてから、眠る前と変わらない画面に少しだけ落胆し、顔を洗おうと洗面所へ向かう。
 すでに起きていた母が、台所で食事の支度をしていた。
「おはよう、アキラさん。お父さんが待っているわよ」
 温かい湯気に囲まれて微笑む姿は、アキラの知っている母そのものだ。
 しかし目の前のこの人は本当の自分の母親でもなく、自分は彼女の本当の息子でもない。そう思うと、申し訳ないような切なさが胸を覆う。
 母の言葉通り、父・行洋は自室でアキラが来るのを待っていた。どうやらこちらの世界でも、朝の一局は欠かせないらしい。
 失礼しますと声をかけて父の部屋の襖を開けると、凛とした和装の父が碁盤の前に座っていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 冴え渡る静かな気迫もまた、アキラのよく知る父と同じに感じる。
 では、もう一人の自分はどのような息子であるのだろう。
 ――手合いは無理することはない。
 昨夜の父の言葉は思った以上にショックが大きく、一晩経った今もアキラの頭を僅かに締め付けていた。
 父に向かい合い、碁盤を挟んで一礼する。
 この世界での現名人である父との対局。
 アキラは碁石を指に挟み、そして集中した。


「……今日は、随分集中していたな。良い碁だった」
 行洋は静かにそう告げ、簡単な検討をするべく初手から石を並べ始める。
 アキラも我ながら良い出来だと思っていた。三目半、行洋には及ばなかったが、形も悪くない。満足できる結果だった。
 何より、昨日はろくに碁石を持たずに一日を終えてしまったので、どうもすっきりしてしなかったのだ。碁石の滑やかな感触はアキラに落ち着きを取り戻させる。やはり自分は、碁と切り離されて生きていけないのだと実感する。
(……進藤はどうしているだろう)
 あの部屋で一人きりで夜を過ごして、今は何をしているだろう。
 そういえば、あの部屋には碁盤らしきものが見当たらなかった。彼もまた碁に飢えているのではないだろうか。一緒に暮らしていた時は、時間さえあれば毎日のように碁を打っていた自分たちなのだから。
「……身体は大丈夫なのか」
 ふいに目の前の父に話しかけられ、アキラははっと意識を元に戻す。
「あ、ええ、……大丈夫です。今日の手合いも問題ありません」
「そうか。それならいいのだが。……お前は身体が丈夫ではないから、気をつけるといい」
 ぶっきらぼうだが、彼なりの息子を思いやる言葉なのだと分かる。
(ボクは身体が丈夫ではないのか)
 他人事のように単語を拾い、頭の中でもう一人の塔矢アキラを組み立てる。
 「彼」はどんな人間なのだろう。ヒカルと何があったのだろう。救いは彼が人々に愛されていることだ。全てを敵に回しているようなヒカルとは違う。
 自分だけがこうして暖かな家で寝泊りすることが心苦しくなる。しかしどうにもならない。ヒカルと手をとって、全て投げ出してしまえば良いのかもしれないけれど。
(……それは最後の手段だ)
 「彼ら」には「彼ら」の人生があるのだから。
 アキラは碁石を碁笥にしまう手伝いをし、ありがとうございましたと頭を下げた。
 几帳面な「塔矢アキラ」は、自分自身のスケジュールをびっしり手帳に書き込んでいる。実際のアキラもそうであったため、根本的な性格は恐らく変わらないのだろう、アキラはそう思っていた。その性格が幸いし、いつどこでどんな仕事が入っているのか、いちいち棋院に確認しなくても良いのは有り難かった。
 身支度を整えて、棋院に行く荷物を揃える。今日は手合いが入っている。未だ三段の彼の手合いは恐らく低段者とのものだろう。本気でやるべきか、手を抜くべきか少々迷う。
(実際の「ボク」の棋力はどのくらいなんだろう)
 夕べのうちに棋譜を読み込んで調べておけばよかった――そんなことを思いながら、居間にいる母に声をかけて家を出ようとしたとき、
「アキラさん、何処に行くの?」
 母親が妙なことを言い出した。
「……棋院ですけど。何か?」
 おかしなことをしてしまっただろうか。内心ドキドキしながら平静を装ってそう答えると、母は指を顎に当てて「芦原さんは呼んだ?」、なんて言い出したのだ。
「……芦原さんを呼ぶのと、ボクが棋院に向かうのと何か関係があるんですか……?」
 努めて怪しまれないようにそう尋ねたが、母は分からない、という顔をする。
「あなた、いつも芦原さんに送ってもらっているでしょう。電車の人込みが苦手だからって。どうしたの、今日は電車で行くつもりなの?」
 アキラは目を丸くし、言葉を失った。
 ――なんて甘ったれだ。
 人込みくらいでへこたれてどうするんだ、ボクは。出会った事もないもう一人の自分を責める。
「それに、たくさん歩くとあなたすぐに疲れちゃうから。きっと遅刻しちゃうわよ。芦原さんをお呼びなさいな。それともそろそろいらっしゃるかしら?」
 ――追い討ちだ!
 アキラは眩暈を感じて額を抑えた。母はそれを身体の弱さゆえと勘違いしたのか、ほらごらんなさいと腰に手を当て、小さな子を諭すように頬を膨らませてみせる。
 ――なんてこった。「ボク」はボクの想像を遥かに越えている。
 これだもの、昨日芦原がやたら面倒を見ようとしたり、友人らしい伊角や和谷が必要以上に自分を心配するわけだ。
 なんて情けない! 心身共に鍛えなおさなければならない!
「アキラさん、さあ座って、」
「結構です! 芦原さんが来たら、ボクは先に行ったと伝えてください!」
 アキラは、昨夜自ら言った「あまり目立った行動をしないように」なんて言葉をすっかり頭から消し去ってしまっていた。
 アキラが立ち去った後に残された母は、普段見ることのない息子の異常な剣幕に腰を抜かし、しばらく台所に座り込んでいたことをアキラは知らなかった。






メインとはうってかわっていきなりパニックなアキヒカ。
そもそもWEB拍手で連載を始めたのは、メインが長過ぎて
他の話を書くタイミングが掴めず、
それなら拍手お礼の場所を使ってやろうと思って
どこまで続くか分からないようなSSを持ってきたわけです。
相当な暴挙だった気がする。
(2006.08.23/1〜9UP)