Maybe Tomorrow





(今のは、どういう意味だ?)
 先番はアキラ。黒石を指に挟む。
(昇段がかかってるって? 何故それをボクに言う必要がある?)
 彼が白石を打つ。
(「頼む」だと? ……まさか)
 黒と白の地合の差が広がっていく。
 数十手の石の運びで、アキラは彼が自分の敵ではないことを理解した。
 これならば本気を出す必要もない。いいや、真剣に相手をすることも馬鹿馬鹿しい。
(――ボクに不正を働けと?)
 彼の表情に焦りの色が浮かんでいる。ちらちらと投げて寄越す視線は、対局が始まる前の言葉をアキラに促しているようだった。
 冗談じゃない。アキラは碁盤をひっくり返したくなる気持ちをぐっと堪える。
 神聖な碁盤を前に、なんて惨めで汚い取引を持ちかけるのだろう。さも当然のように。下卑た笑いを顔に貼り付けて。
 アキラの黒石が上辺の白の急所を叩いた。相手の動きが止まる。
(……まさか、ボクが未だに三段だというのは)
 男は青い顔で碁盤を睨み、きりきりと口唇の端を噛む。やがて項垂れたように頭を落とし、「ありません」と小さな声で告げた。
「ありがとうございました」
 アキラは間髪入れずに碁石を崩す。やや乱暴な手つきには、沸々と沸き上がる怒りが込められていた。
(そういうことなのか……?)
 顔を上げたアキラの表情は厳しく凍り付いていた。


 アキラが見渡したところ、まだほとんどの対局が終わっていない。
 それはそうだ。完全に先手を取ったアキラが、有無を言わせぬ中押し勝ちに持ち込んだのだから、展開は酷く早いものになった。
 アキラが立ち上がると、数人が碁石を持つ手を止め、驚いた様子で振り返る。アキラはその視線に朝感じたものと同じ不快な好奇心を感じて、眉を顰めたまま対局室を後にする。
 どうやら相当注目の的らしい。
(何に怒ったらいいのかもう分からない)
 この世界での自分の置かれている立場というものが、もう少し理解できたら何とかなったのかもしれないが……
 対局室を出たアキラは、ため息をつきながらエレベーターに乗り込んだ。一階に下り、真直ぐ帰ろうとエレベーターから一歩踏み出したアキラの背に、「塔矢!」と声がかかる。
 振り向くと、和谷がエレベーターの上下ボタンの辺りに凭れて、不安そうな顔をしている。
「和谷くん……?」
「お前、もう終わったのか? 結果は」
 アキラは一瞬口籠る。――和谷が対局の結果を気にして今までここで待っていた。
 この不安そうな表情を見ると、……和谷も、もしやアキラが対局前に持ちかけられた醜い取り引きを知っているのではないだろうか……?
(彼らが、ここまでボクを心配するのは)
 「アキラ」が、これまでのあの取り引きに、応じていたからではないだろうか……。
 アキラが黙ったのを見て不安の色を強くした和谷に、アキラは慌てて軽く笑ってみせた。
「勝ったよ。中押し」
 そう告げると、和谷の顔がみるみる輝いた。
「そ、そうか! 勝ったか!」
 手放しで喜ばれると、なんだか照れくさくなってくる。
 一勝が珍しいものではなくなった今、アキラが勝利したということにこれほどまで喜んでくれる人が果たしているだろうか。
(勝つことが当たり前になっていた。ボクは、もう少し日々の生活に感謝したほうがいいのかもしれない)
 当たり前のようにヒカルと笑いあっていた日々。
 訳も分からず、そんな他愛のない毎日が失われることだってあるのだと。
「よし、一勝を祝ってなんか食ってくか? 俺、奢るぜ」
「いいよ。真直ぐ帰る」
「あ、腹減ってないのか? じゃあ、家まで送るから」
「大丈夫、一人で帰れるよ」
 ぴたりと、和谷の動きが止まった。
 また、彼の表情に不安が広がりはじめる。
 アキラがその変化に驚いて瞬きをすると、和谷が首を横に振りながら、低い声で静かに告げた。
「……よしとけ。たぶん、待ち伏せされてる。一緒に帰るぞ」
「待ち、伏せ……?」
「他に誰かがいれば手を出しては来ないだろうから。俺と一緒にいれば大丈夫だ」
 アキラは絶句した。
 待ち伏せ? ……自分を誰かが待ち伏せている?
「行くぞ」
 歩き出した和谷に、アキラは追い縋るように腕を掴んだ。
「待ってくれ!」
「痛、なんだよ」
 振り向いた和谷は、アキラの真剣な表情を見てはっとする。
「待ち伏せとはどういうことだ」
「どういうって……、お前、今日の相手は田島だったはずだ。……例のヤツらの仲間じゃねぇか」
「例のヤツら?」
 聞き返すアキラに、和谷が苦し気に眉を顰めて顔を逸らす。
 アキラは尚も強く腕を引いた。
「和谷くん!」
「分かるだろ! お前だって思い出すのも嫌なはずだ!」
 アキラの剣幕に負けじと声を張り上げた和谷と、ぶつかった視線が火花を散らす。
 和谷の信じられないという目を正面から受けて、アキラは自分の行動が行き詰まってしまったことを思い知った。
「塔矢、お前一体どうしたんだ? 変だぞお前。こんなふうに怒鳴ったりして……、そ、そりゃあ、前みたいにいっつも人の影に隠れて黙ってるよりずっといいけどさあ……」
「人の影に隠れて……」
 反芻した言葉は酷く空しい。
(駄目だ、考えがまとまらない)
 集まった情報が断片的すぎて、ひとつにつなげることができない。
 せめて、自分とヒカルの間に何があったのかが分かれば良いのだが。
(そうだ)
 アキラは一か八かの賭けに出ることにした。
 和谷から腕を離し、ふっと肩の力を抜く。
「……和谷くん。実は、ボク……階段から落ちて以来、軽い記憶喪失みたいなんだ。記憶がどうもちぐはぐで……それで」
「き……記憶喪失!?」
 一気に青ざめた和谷の大声を慌てて塞ぐ。口を押さえつけられた和谷がうーうーともがいた。
 人気のないエレベーター前で誰が聞いている訳でもなかったが、たった今即席で作った設定を人に気付かれない方がいいと思ったのだ。また興味本位の噂のタネを増やす必要はないのだから。
「静かに。……まだ誰にも言ってない。だから、キミもこのことは内密に」
「記憶……、そ、そうか、それでなんか様子が変だったんだな……」
「そうなんだ。で、いくつか聞きたいことがあるんだけど……、やっぱり、食事に行こうか」
「お、おお……。それは全然、俺は構わないけど……お前」
 アキラの手が離れた口をごしごしとこすった和谷は、呆然、といった言葉がよく似合う顔でぼんやりアキラを見上げる。
「力、強くなったな……」
「そ、そうかな?」
 アキラは気まずげに目を逸らし、さあさあと和谷を促した。和谷も戸惑いの表情を隠せずに、おろおろした様子でアキラに並ぶ。
(まずいな、こっちのボクはそういえばひ弱なんだった。自慢じゃないけど、腕力には自信があるんだけどな)
 座りっぱなしで碁を打つ仕事ゆえ、体調管理は怠らない。簡単な筋力トレーニングなら毎晩こなしているのだけれど。
(……何事も控えめにしたほうがよさそうだな)
 すでに遅すぎる結論ではあるが、それでもアキラは和谷と二人で話をする時間を作ることに成功した。
 棋院を出てから和谷は注意深く辺りを見渡し、アキラを庇うように先導して駅に向かう。アキラも視線を忙しなく動かしたが、待ち伏せらしいものが本当に仕掛けられているのか疑わしかった。
 和谷は、アキラの家に程近いファミリーレストランへとアキラを案内した。わざわざ棋院ではなく自宅近くの店を選ぶあたり、やはりアキラは過保護にされている、とひそかにため息を漏らした。