Maybe Tomorrow





「お前、どこまで覚えてるんだ?」
 向かいの席でハンバーグを頬張る和谷にそう聞かれて、アキラは言葉に詰まる。
「どこまで……って」
 どこまでも覚えていない。……なんて言えるはずがない。
 アキラはアイスティーを口に含みながら、どうしたものかと目を伏せた。
 根掘り葉掘り聞き出すのは難しいだろう。和谷の口ぶりからして、あまり思い出したくないようなことがこちらのアキラの過去には少なからずあるようなのだから。
 いっそ事情を全てぶちまけようかとも思ったが、果たして信じてもらえるかどうか。
 アキラが難しい顔で迷っていると、和谷もまた同じように困った顔をした。
「そもそも、記憶喪失なんて本当に大丈夫なのか? もっかい病院行って、ちゃんと調べてもらったほうがいいと思うぜ」
「そ、それは大丈夫。日常生活には支障ない」
「支障ないったってよ」
 アキラは面倒なやりとりに苛立ちを覚え、それならと一番聞きたかったことを尋ねることにした。
「ボクは何故、階段なんかから落ちたんだ?」
 和谷の箸が止まる。そのあからさまな動きに、アキラも目を見張った。
 和谷はゆっくり顔を上げ、探るような上目遣いでアキラをじっと見る。
「何故って……?」
「……ああ。何故?」
 アキラもなるべく強い口調にならないよう、勢いを押し殺しながら再度尋ねた。
 和谷はひっそりとアキラから視線を逸らし、小さな声で呟くように告げる。
「それは、お前が……聞いた、からだ」
「聞いた? ……何を」
「あいつらと、……進藤の会話を」
「進藤の……?」
 アキラが目を見開いたのを横目で確認した和谷は、悲痛、と言ってもいいような表情で目を閉じた。
「それで、動揺したお前が走り出して。足を踏み外して」
「あいつらって? 進藤と、何を話していたというんだ」
「……」
「ボクと、進藤の間に何があったんだ」
 焦って滑らせたアキラの問いかけに、和谷が違った反応を見せた。
 口唇を薄く開いて、ぽかんとアキラを見つめた和谷は、
「お前……それも、覚えて、ないのか……?」
 夢でも見てるみたいな声で囁くように言った。
 黙ったままのアキラを肯定と受け取ったのか、和谷が突然泣き出しそうなほど顔を歪めて、アキラは思わずぎょっとする。しかし、その表情が安堵からきているものとすぐ分かり、アキラは質問を誤ったことに気付かされた。
「そうか……、覚えてないのか……。よかった……」
(よくないっ!)
 力一杯否定したいが、和谷はうっすら涙ぐみながらよかったよかったを繰り返している。
 失敗した。聞き出すどころか、自ら謎にフタをしてしまったようなものだ。
「覚えてないなら、思い出すことないさ。お前には俺たちがついてる。だから、何も心配しないで、お前は碁を打ってりゃいいんだ。今日みたいにあいつらに負けを強要されても、もう言うことなんか聞かなくていい。お前は何も心配するな」
 誘導を失敗したことで項垂れていたアキラだったが、和谷の今の言葉に一縷の望みを見つけた。
「今日みたいに……って、やはり、彼はボクに不正を促していたのか?」
「お前、それも覚えてないのか?」
「何故ボクは、あんなやつらの言うことを聞いていたんだ?」
 和谷はまた黙ったが、それでも先程のような強い悲しみは見られず、アキラも幾分ほっとする。
「俺らも、知ったのは最近だけど。お前、脅されてたんだよ、ずっと。」
「脅されてた?」
 和谷は、なかなか気付いてやれなくてすまなかった、とアキラに頭を下げた。
 慌てて首を横に振るアキラに、和谷はぽつぽつと話し始める。

 プロになって最初の一年は何の問題もなかった。
 しかし、偉大な父親である塔矢行洋名人の存在もあって、やっかみを受けることは少なくはなかったらしい。
 ある時期から、アキラの中押し負けが続き始めた。
 それまで勝てていた相手に突然勝てなくなっていた。
 アキラはそれについて誰にも何も言わず、負けの理由はよく分からないまま黒星を重ねて行った。
 周囲が不調を心配して尋ねても、アキラは決して口を開かなかった。

「俺が、お前の肩んとこの痣に気付いてようやく分かったんだ。あいつら、見えないとこばっかりめちゃくちゃやりやがって」
「……暴力でボクを脅したのか」
「今は、俺も伊角さんも緒方先生も芦原先生も事情を知ってるから、お前を守れる。俺ら交代でお前を守ってたんだ。……今日、勝ててよかった」
 そう言って儚な気に笑った和谷の顔は、なんだか自分自身を責めているような笑顔だった。
 アキラは、彼らの必死な様子を思い出し、そうして理解した。
「そういうことだったのか……」
「それにしてもお前、軽い記憶喪失って、全然軽くねーんじゃないのか? やっぱり病院に」
 再び保護者の顔になった和谷を、アキラは必死で大丈夫だと宥めた。
 それから隙を見て何度かヒカルとのことを尋ねようとしたが、和谷はそれには頑として口を開いてくれなかった。
 すっかり手詰まりになり、そこでアキラは和谷と別れてファミリーレストランを出たが、今の和谷との会話で得たものを無駄にすまいと自宅へ急ぐ。
 少しずつ見えてきた。だが、圧倒的に見えないもののほうが大きい。