Maybe Tomorrow





 帰宅したアキラは、脇目もふらずに自室に飛び込んだ。
 確か、ここに――。開け放した押入れの中、思った通り古い雑誌や新聞が積まれている。
 「週間碁」を筆頭に、囲碁関連の雑誌だけは捨てるに捨てられず、古いものを押入れにしまっていた。そこはどちらのアキラも変わらなかったらしい。
 アキラは新聞を片っ端から下ろし、紐を解く。日付は五年前から揃っている。丁度アキラがプロになった頃からだ――アキラは古いものから順に目を通し始めた。
 過去の手合の結果を探れば、この世界で自分の歩いてきた道が分かる。そして、ヒカルもまた棋士としてどんな道を歩んでいるのかが。
 暴力で脅されていたということと、ヒカルとの間に何かあったということは全く別の話だと直感していた。その謎を探るためにも、基礎知識をつけておかなくてはならない。アキラは次々に新聞をめくっていく。
 プロになったばかりのアキラを見ると、それなりに連勝もしている。やや今の自分よりも勝率は悪いが、それでも五年かけて三段だという結果が疑問であるほどだ。
 プロ二年目目前で二段に昇段。そしてその少し後の時期に、新初段として取り上げられているヒカルの写真が新聞に掲載されている。一緒に写っているのは越智と本田――和谷ではない。
 アキラはもう一度新聞を遡り、自分が新初段として掲載されている新聞を引っ張り出した。
「……違う」
 アキラと共に写真が並ぶのは、和谷と伊角だった。つまり彼らはこの世界でのアキラの同期である。
 アキラは息を呑む。どうも、そもそもが自分の知っている世界と違っているらしい。和谷や伊角と何故親しいかの理由はこれで分かったが、まだ疑問は山のように残っている。
 アキラは続けて新聞に目を通した。やがてヒカルは二段に上がっていた。この頃からアキラの中押し負けがぽつぽつ現れ始める。和谷が言っていた、脅され始めた時期がこの頃なのだろうか――そう思っていた頃、突然ヒカルとアキラの手合結果に不戦敗が並び始めた。
「……これは……」
 日付を確認する。プロ入り三年目の五月。
 アキラの胸がざわりと騒ぐ。
 アキラは今でもあの頃のことを覚えている。不戦敗の続いたヒカルを案じて学校まで押しかけた。時期はそれと重なるが、アキラの知る事実と違うのは――アキラまでもが不戦敗を続けているということだった。
 アキラは新聞を次々取り出した。日付けがしばらく進むと、アキラの不戦敗は途切れて手合いには出てくるようになっているが、戦勝が激減している。そのほとんどが中押し負けだ。
 そしてヒカルといえば、ぽつぽつと手合いには出ていくつか勝利を収めているものの、不戦敗の数があまりに多すぎる。それはどれだけ日付けが進んでも変わらない。
 アキラは記録を追い続けた。時間を忘れて没頭した。
 中押しで負け続けるアキラ。不戦敗が減らないヒカル。それが実に最近まで続けられている事実だと知り、愕然とする。
「……立ち直っていない……?」
 自分に対し、「碁をやめない」と告げた真っ直ぐなヒカルの目。
 あの目が、この世界では消えてしまっている……?
 アキラは知らず浮かんだ額の汗を指先で拭った。
 自分が脅されていた云々はこれにはきっと関係がない。
 間違いなく、この時自分たちに何かがあったのだ。そして、ここから歯車が狂ってしまった。
(では何があった?)
 すでに三年もの時が流れているというのに、未だに引き摺らなければならない何かとは何なのだろう。
 想像以上に根の深いものかもしれない。
 アキラは部屋中に広げた新聞を見下ろし、長い長いため息をついた。
 自分たちの三年前をぼんやり思い出す。
 突然手合に出てこなくなったヒカル。打ち続けることで彼を待った日々。そして、戻ってきたヒカルの力強い言葉。
 その後お互いを求め合い、恋人同士となった後も、アキラは何故あの時ヒカルが不戦敗を重ねたかの理由は尋ねていなかった。
 重要なのは、ヒカルが再び碁石を握ってアキラに向き合ったということだけ。理由なんかどうでもいい、今もその気持ちは変わらない。
 では何故、こちらの世界の「彼ら」は自分たちのように前を向くことができなかったのだろう。
 何かを間違えてしまったのだろうか。――ヒカルは、あの時のように立ち直ることができなかったのだろうか。
 何故、何故。何故ばかりで頭がおかしくなりそうだ。
 アキラは床いっぱいに広げた新聞をのろのろと回収し、ぼんやり時計を見上げる。
 時刻はすでに午後の十時。随分長い間新聞に没頭していたようだ。
「……進藤」
 自然と口唇が呟いていた。
 ヒカルは、どうしているだろうか。また、あの淋しい部屋で一人、じっとこの世界に耐えているのだろうか。
 急激に会いたくなってきた。今日、和谷や新聞から得たことも伝えたい。
 アキラがそう思ったと同時に行動を開始しようとした時、床に置きっぱなしだった携帯電話が震えていた。
 咄嗟に飛びついて開いた画面には、「S」の文字が表示されていた。