Maybe Tomorrow





『塔矢? 俺。今、電話大丈夫か?』
「ああ、今は部屋だから。大丈夫だよ」
 聞こえてくる恋人の声に心が酷く落着き、自分がいかに動揺していたかをアキラは思い知らされた。
 気付けば息が荒くなっている。昔の辛い時期を思い出したせいか、いつの間にか頭に血が昇っていたのだろう、アキラは薄ら汗ばんでいた額を指で拭った。
「今日一日、どうだった? 部屋から出たのかい?」
『ううん、今日はずっとここにいた。なんか外出るとすげー疲れるし』
「何か食べた? そこ、食べるものはあるのか?」
『カップ麺あったからそれ食べた。冷蔵庫にちょっと酒入ってたし』
「だめだよ、そんなんじゃ……」
 昨夜別れたばかりのヒカルの声が、こんなに懐かしくて仕方ない。
 アキラは他愛のない会話でなるべく時間を引き延ばそうとした。
 アキラにとって、唯一確かなものが自分の知るヒカルとの時間だけだった。この時間だけは、何も疑わずに堂々と塔矢アキラとして居られる。それこそ縋るように、アキラは小さな熱を持つ携帯電話をしっかり握り締めた。
『あのさ、塔矢……ちょっと見せたいものあるんだけど。今日は、無理、だよな?』
 ふいに話題を切ったヒカルが、少し躊躇った声で告げる。
 アキラは時計を見て、眉を寄せた。
 二日連続で抜け出して、バレずに済むだろうか。
(昨日は全く気付かれてはいないようだったけど)
 恐らく、両親が必要以上に過保護であるのも、アキラが棋院で不正目的の暴行を受けていたことを知っているからなのだろう。
 それが背景にあれば、行洋の「明日の手合いは無理することはない」という台詞も随分意味合いが違ってくる。
 しかし、迷いは一瞬だった。
「……いや、行くよ。これから。早いほうがいいんだろう?」
『急ぎって訳じゃないけど……、お前に、会えたら嬉しい……』
 さっきまで笑い声混じりだったヒカルの声が、極端に心細くなった。
 あの寂しい部屋で独りきりのヒカルを思うと、いてもたってもいられなくなる。
「行く、今すぐ。すぐに行くから、待っていて」
 アキラは昨夜のように、布団に毛布を詰め込んで脱走準備を着々とこなしていった。




 見上げるのは二度目だが、月に照らされた古めかしい外壁は無気味と形容しても差しつかえ無さそうだった。
 アキラは急ぎ足でアパートの階段を駆け昇り、逸る心を宥めながら薄い扉をノックする。
 中から走ってくるような慌ただしい音が聞こえ、ドアは前回のように勢い良く開く。中から現れた愛しい顔を見て、アキラは安堵し、そんなアキラを見てヒカルも顔を綻ばせた。
 室内に入ってドアを閉めると、何よりも先に抱き締めあってキスを交わす。その身体の間でガサガサを音を立てるものに、訝し気に眉を顰めたヒカルは顔を離してアキラの手を見下ろした。
 アキラはコンビニで調達してきた食料がどっさり入った袋をヒカルに掲げてみせた。ヒカルは嬉しそうに、歯を見せてにっこり笑う。
 ホントは腹減ってたんだ。そう告げた途端、ヒカルの腹の虫が盛大に鳴いた。
 二人は顔を見合わせて笑い合う。


 コンビニ弁当をかき込みながら、ヒカルはもごもごと話を続けていた。
「手合いのスケジュール? 大体分かったよ。ほら、そこ」
 ヒカルが箸の先で指したそこには、小さなゴミ箱がある。アキラが覗き込むと、大したゴミも入っていないが、代わりに数枚のハガキが無造作に投げ捨てられていた。
 拾い上げると手合いの通知ハガキである。アキラは絶句した。
「捨ててあったのか?」
「ああ、行く気なかったみたいだな。俺、棋院に行った時の雰囲気だとサボりまくってるみたいだから、当分手合いにも出ないほうがいいのかって迷ってるけど、お前どう思う?」
「うーん……」
 アキラも顎に指先を当て、どうしたものか困ってしまった。
 あまりにも、この世界と違う行動を取るのは問題があるだろう。しかし捨てられていたハガキは五枚もあり、そのうち三枚はすでに終わってしまっている手合いのものだ。残り二枚もこのままにしておいていいものか、棋士として迷うヒカルの気持ちはよく分かる。
「……俺としては、出たいけど」
「進藤……」
「こっちの俺、普段何やってんのか全然分かんねーんだよ。この部屋、碁盤もないし」
「碁盤、やはりないのか」
「ああ。今日一日散々探したけど、ない」
 ペットボトルの緑茶を一口含み、大きく喉を上下させたヒカルは真直ぐに汚れた壁を見据える。
 その透き通った瞳にアキラは見愡れた。こんな時に不謹慎だろうかと理性は自分を責めるが、どれほど訳の分からない状況下にあっても歪みないヒカルの視線に自然と胸は高鳴る。
 混乱は相当だろうに、ヒカルは諦めていない顔をしていた。ヒカルなりに糸口を探し、そうしてアキラを呼び寄せたのだ。何かを見つけて。
「進藤……見せたいものって何?」
 アキラの問いかけに、ヒカルはゆっくりアキラを振り返った。
 そのしばしの無言の時は、アキラに意図せずして何らかの覚悟を決めさせるような妙な迫力があった。
 ヒカルは黙ったまま、自分の手のひらを上に向けて左腕をアキラに差し出す。
「……?」
 アキラはすぐには気付かなかった。
 ヒカルが黙ったまま突き出した腕……いや、手首に、よく見ると薄ら白い筋のような線が見える。
 血管の向きに逆らったその白い跡は、明らかに人為的につけられたもの。
 アキラは声を失ってヒカルを見た。ヒカルもまた、何も言わずに僅かに眉を顰めた。