Maybe Tomorrow





「……これ。今までの俺には、なかった。」
「……勿論だ」
「こいつ、ちょっと厄介なヤツかもな」
 ヒカルのため息はどこか他人事のようで、しかしやりきれなさも含まれている。
 ヒカルの言った見せたいものは、アキラの心を乱すに充分なものだ。古い傷跡。一本だけ深く刻まれたその筋は、明らかに自分で自分を傷つけたものだ。
 アキラは自室の床いっぱいに広げた週刊碁の手合い結果を思い出し、身震いした。立ち直っていないどころではない。彼は、彼自身を失おうとまでしていたというのか。
 もしも、アキラが知る世界でのヒカルが同じことをしていたら――
 あり得ない過去にぞくりと背中が粟立つ。
「塔矢」
 そんなアキラの様子を察したのか、ヒカルはそっと隣に座るアキラの肩に手をかけた。
「俺は……大丈夫だ。「俺」は」
「……進藤」
「俺もちょっとびっくりしたけどさ。お前の話じゃ、そもそもいろんなことが違ってるみたいだし。この世界は俺たちの知ってる世界じゃない。だから、大丈夫だよ。俺もお前も」
 ヒカルの声には不思議な響きがあり、本当に大丈夫だという気になってくる。
 彼はいつもそうだった。どこか飄々として、確信もないくせに大丈夫を連発する。
 そんな時は、いつでも本当に「大丈夫」なのだ。
「……なんだか大丈夫って気になってきた」
「だろ?」
 そう言って歯を見せて笑ったヒカルは、辛さを吹き飛ばす強さに溢れて見える。
 でも、その裏でじっと哀しみに耐えていることも、アキラは気づいていた。
 アキラはこれ以上ヒカルを不安にさせないよう、自分がしっかりしなければと背筋を伸ばす。昨日から、動揺しているのはヒカルよりも自分のほうだ。
 乗り越えるんだ、二人で。――アキラはふっと息を吐くと、僅かに微笑んで見せた。ヒカルが幾分ほっとしたように目元を緩めるのが分かった。
「それから。今日本当に見せたかったのは、実はこれじゃなくて……」
「え?」
 ふいにヒカルがポケットから携帯電話を取り出し、アキラに画面を向けてきた。アキラが釣られるように覗き込むと、それは誰かの電話帳の一画面だった。
「この携帯さ、ほとんどろくな連絡先入ってなかったんだけど。これだけ、唯一友達っぽくなってて」
 ヒカルの言う通り、登録名は「キヨハル」とある。
 アキラはその名前を見た瞬間、どことなく記憶の隅に何かが引っかかるような奇妙な感覚を覚えた。
「俺、この名前どっかで見たことあるなーって思ったんだけど」
「ボクも見覚えがある。……誰だっただろうか」
「やっぱ、お前もすぐ気づかなかった?」
 アキラはヒカルを見返した。ヒカルの表情からすると、誰だか分かっているようだ。焦れたアキラが眉間に皺を寄せると、ヒカルは怒るな怒るな、と答えを教えてくれた。
「社だよ。社清春」
「ああ……」
 アキラは心底納得した様子で、口を開けたまま頷いた。
 道理で見覚えがあるはずだ。すぐに出てこなかったのは、これまで一度も社を名前で呼んだことがないからで、ヒカルもまたアキラと同じ状況だったのだろう。
「俺、社とトモダチなのかなあ」
「電話してみたのか?」
「いや、まだ。電話しても何話していいか分かんないし」
「……そうだな」
 とりあえず、天涯孤独じゃないかもしれないからよかったよとヒカルは冗談っぽく肩を竦めた。
 名前で登録されているということは、今より親しい間柄なのかもしれない。もしくは、この世界のヒカルが深い意図もなく適当に登録したのか、彼がいないここでは確かめようもない。
 それにしても、アキラの名前さえ登録されていなかったヒカルの携帯電話に社がいるなんて、無意味と分かっていても嫉妬の気持ちが沸いてくる。社にはとんだとばっちりだろう。
 だが、あの飄々とした関西弁が今はやけに懐かしかった。向こうの世界の彼は元気にしているだろうか。
 やめよう、とアキラは自嘲気味に少し笑った。感傷的にならないほうがいい。なんだか、全てを諦めた後のように思えてしまう。
「この先、困ったことがあったら連絡してみるのも手だと思うけど。今は、いいや。それより塔矢、お前のほうはなんか進展あった?」
 ヒカルは携帯を閉じて、薄っぺらなベッドに乱暴に腰掛けながら首を傾げた。
 その途端、怒濤のようにこれまでの出来事が頭に蘇って、アキラは何と言ったものか、一瞬口篭もる。
 アキラの曇った表情を察したヒカルが僅かに瞬きした。
「……お前、何かあった?」
 慎重に尋ねてくるヒカルを安心させようと微かに笑ってみせるが、どうも逆効果のようだ。酷く心配そうに口唇をへの字に曲げてしまったヒカルに、アキラは重い口を静かに開く。
「何か、あったというか。いろいろと、情報が入ってきて……」
 言葉を選びながら、アキラは今日一日に仕入れた様々な内容を少しずつ話し始める。
 ヒカルになるべくショックを与えないように、特に、ある時期から続いた不戦敗の事実については――できるだけ刺激しないよう、アキラは万全の注意を払わなければならなかった。