Maybe Tomorrow





 ヒカルは思いのほか冷静に話を聞いていた。
 アキラが記憶喪失と偽って和谷から話を聞き出したくだりでは軽く苦笑していたが、それ以外はごく真剣に話に聞き入っていた。
 不戦敗が続いていることを告げると、微かに眉を顰めたように見えたが、それでも動揺らしい動揺は見せなかった。
「……俺、変なサボり癖ついたのかな」
 自嘲気味に笑う様子は少しアキラにとって胸の痛い光景だったが、それでも傷ついたようには見えなかったのでほっと息をつく。
 怖かった。もう何年も経つのに、碁を打たないと告げた時のヒカルの目は未だにアキラの心に焼き付いている。
 こうして心も身体も結ばれた今でさえ、何かの弾みでヒカルがあちら側へ行ってしまうのではないかと、どうしようもなく怖くなる時があるのだ。
「俺はともかく、お前もってのが気になるな」
 独り言のようなヒカルの呟きに、いちいち気が気でない反応を示してしまうアキラがいる。
「……ボクは脅しに屈する弱い心の持ち主みたいだから。ボクの不戦敗は中押し負けと変わらない理由かもしれない」
 あまりヒカルが違う世界の出来事に捕らわれなければいいと、半ば自棄になって言った言葉だったのだが、意外にもヒカルは真顔で首を横に振った。
「弱くなんかないよ。お前は、弱くない」
 アキラはきっぱりしたヒカルの言葉に驚いて瞬きした。
「分からないだろう。ここでのボクはそういう人間かもしれないし」
「いいや、お前は弱くない。塔矢アキラは、どんな世界にいたって、そんな脅しに簡単に根を上げるようなヤツじゃない。何か、もっと別の理由があるはずだ」
「進藤……」
 でも、現に。
 言葉を続けるのは躊躇われた。
 ヒカルは壊れ物のように扱われているアキラを知らないから、そんなふうに思えるのだ。自分一人で棋院に向かうことすら心配されるような、そんな危なっかしい男がこの世界の自分であるというのに。
「塔矢、俺の言葉信用してないだろ」
「……そういう訳じゃないけど」
「じゃあ、なんでお前は脅されるって分かってて手合いに出続けるんだ? 棋院でも塔矢先生でも、誰にでも言ってそいつらを何とかすることができたはずだ」
 ヒカルの言葉にはっと顔を上げた。
「……確かに」
「だろ」
 確かにヒカルの言う通りではあるが。
 だからと言って、脅しに屈していたのは事実だし、言いたくても言えない程弱いだけだったのかもしれない。
 それでも、やけに強い口調でアキラの弱さを否定するヒカルが嬉しかった。
 塔矢アキラは簡単に根を上げるようなヤツじゃない。その通りだ。そう簡単に諦めてたまるか。
「……そうだな。何か、理由があるのかもしれない。もう少し調べてみるよ。ボクらの不戦敗の訳を」
「ああ。でも、無理すんなよ。俺とお前の間に何かあったのは間違いなさそうだから、お前、辛かったら深入りしなくていい」
 アキラは苦笑した。
 昨夜、泣きそうな声で電話をかけてきたヒカルとは別人のようだ。
 それでも、どちらのヒカルも本当のヒカルで、アキラの愛する大切な存在であることには代わりない。
 不確かなこの世界で、ヒカルだけが信じられる唯一の光だ。眩しくて、目が眩んでも、決して見失わないようにこの両目をしっかり開けておかなくては――アキラはパン、と軽く自分の頬を叩く。
「とにかく、お互い僅かでも交換できるような情報があってよかった。キミにはまだしばらく不便を強いてしまうけど」
「うん、俺は平気。大分慣れてきたし」
「何かあったら、いつでも呼んで。なるべく、駆けつけるから」
「あは、お前漫画のヒーローみたいだな」
 おかっぱ仮面参上! と適当なポーズをとるヒカルに、アキラはこら、と拳で殴るフリをする。その手首を掴んだヒカルが、少しだけ真顔になって、アキラの薄い口唇に自らの口唇を寄せてきた。
 アキラはそっと目を閉じて、押し当てられる熱の感触に集中した。
 暖かな口唇は、僅か一日ぶりに触れたというのに酷く懐かしく、柔らかくアキラを包んでくれた。
 静かに口唇が離れると、ヒカルは瞬きで睫毛を揺らして、至近距離でアキラに囁く。
「塔矢、……もう帰る?」
 珍しく甘えたような声を出すヒカルに、アキラはきゅっと眉根を寄せた。
「……帰ろうと思ってたけど……、泊まって、行こうかな……」
 嬉しそうに緩んだヒカルの頬を見て、アキラは今度は自ら深く口付けた。ヒカルの身体を強く抱き締めると、ふっとヒカルが力を抜くのが分かった。
 ヒカルが背中を打たないように、腕をクッションにして床に転がる。
 相変わらず、大きな月は窓から遠慮無しに二人の影を見下ろしていた。