Maybe Tomorrow





 ヒカルのアパートを出てすぐタクシーを拾ったアキラとヒカルは、迷うことなく行き先に棋院と告げた。
 車内ではお互い無言だった。それぞれがそれぞれの思いを巡らせていたのだろう。アキラはただ、黙ってヒカルの手を握り締めた。ヒカルもまた、強い力で握り返してきた。
 それだけで、気持ちは落ち着いてきた。
 棋院に辿り着くと、ヒカルはすぐさまタクシーから飛び出した。アキラも急いで料金を支払い、その後を追う。
 入口の自動ドアを潜って、正面のエレベーター付近に小さな人だかりができているのが分かった。
 人だかりの数歩後ろで様子を伺っているらしいヒカルに追いついたアキラは、その中心で人を散らそうとしている伊角を見つけた。
「見世物じゃないんだ、さっさと行ってくれ! さあ、お前ら……」
 伊角がちらりと人の輪の外に寄越した視線が、アキラの視線とぶつかる。ふいに言葉を失った伊角に、釣られるように人々も振り返った。
 ざわめきが静まり返った。
 伊角が、何故、という顔をしている。何故ここに来たのか、何故一緒に来たのか――そんなものが多分に含まれた目だった。
 アキラとヒカルは並んだまま、好奇と驚愕がありありと表れた集団の目に囲まれ、伊角が背中に守っているものを見上げた。
 向かって左のエレベーター横、セミナーや囲碁大会のポスターが貼られている場所よりずっと高い位置に、それは明らかな悪意を持って掲げられていた。
 長身の男性が背伸びをしても天辺には届かないだろう、ポスターの半分ほどの白い紙に間隔を空けて並んだ六枚の写真。離れた位置からでは薄黒くしか見えないその写真を、もっとよく見ようとアキラは一歩踏み出した。
「塔矢、来るな」
 伊角が制止する。アキラは構わず足を進めた。人だかりが自然と道を開ける。ヒカルがその後をついてくるのが分かった。
 アキラは写真のすぐ下で、きっぱりとそれを見上げた。
 ひそひそと囁き声が背中をくすぐる。アキラは写真を睨んで僅かに眉を顰め、周りに気づかれないよう細く息をついた。
 そうして、微かに自嘲気味な笑みを浮かべた。
 ――何となく、そんな気はしていた。
 ヒカルの部屋で、ほとんど裸のアキラを見て血相を変えた和谷を見た後だから、余計に。
 写真の中のアキラもまた、裸だった。
 相手の姿は写っていなくても、誰かに組み敷かれていることは一目瞭然だった。画質が良くないため細部まで鮮明に見て取れるわけではないが、乱暴な力に屈服している自分を客観的に見て、本来なら酷く屈辱的な気分になるのだろう、とアキラはぼんやりそれを見つめていた。
 どこか冷めた目でいられるのは、これが今の自分ではない「塔矢アキラ」だからなのだろうか。それとも、この相手が……恐らくヒカルなのだろうと、分かっているからなのだろうか。
 ――そうだな、仮にも「ボク」が彼以外の人に身体を許すはずがない。
 妙に納得して、少し可笑しくなった。
 そして同時に、沸々と怒りが胸の内側を侵食する。
「塔矢、こっちへ」
 伊角がアキラの肩に手を置き、目を背けさせようとしてくれる。
「今、芦原さんが脚立を取りに行ってる。お前はもういいから、家に帰ってるんだ。さ、塔矢」
 伊角に背中を押されても、アキラはその場から動かなかった。
「塔矢!」
 アキラはただ、写真の中でヒカルと思しき男に犯される自分を見つめていた。
 この写真をこんなところに貼ったのは、ヒカルではない。それは一晩ヒカルと一緒にいたアキラが誰よりもよく知っている。
 だが、写真の中でアキラの上にいるのは間違いなくヒカルだ。アキラを押さえつける左腕一本しか見えていないその相手が、アキラはヒカルだと確信していた。
 とすれば、この写真はヒカルが撮ったものだろう。それがどのようにして、誰の手に渡ったのか。
 そもそもこれは本当に乱暴されたものなのだろうか?
 アキラは、写真の中で無表情に空を見る自分に身震いした。
 怖れのようなものは見られない。写真の中のアキラは、全て分かっていて脚を開いているように見える。
 これが自分だというのか。この、人形みたいなガラス玉の目の持ち主が。
 ふと、ヒカルがそんなアキラと伊角の横をすり抜け、写真の真下まで歩くと、おもむろにその下で四つんばいに屈みこんだ。
 目を丸くしたアキラと伊角と、自分たちを取り囲む人々がざわざわと口々に何か言い合う中、ヒカルは真っ直ぐアキラを見て「塔矢」と呼んだ。
 アキラはすぐにヒカルの意図を察し、そして苦笑する。
 わざわざ目立つ方法を選ばなくても、と目で訴えるが、ヒカルは聞き入れないようだ。
 アキラは少し表情を緩めて、ヒカルに近寄った。
「ボクは重いぞ」
「知ってるよ」
 アキラは靴を脱ぎ、四つんばいのヒカルの背の上に注意深く足をかけた。バランスをとりながら、なだらかな背中の丘に両足で立つ。腕に力を込めたヒカルの肩が盛り上がる。ざわめきが大きくなった。
 アキラが手を伸ばすと、ギリギリ紙の天辺に指が届いた。破り取ろうかとも思ったが、なるべく丁寧に四スミに貼られたテープを剥がす。野次馬が見守る中、アキラはようやく紙を剥がし終えた。