ヒカルの上から降りたアキラは、肘を曲げて肩甲骨を縮めたり伸ばしたりするヒカルに「大丈夫か」と声をかけた。ヒカルは頷いて、その紙を寄越せと手を出してくる。 「破っちまおうぜ、そんなの」 「落ち着け。いざという時の証拠物件になる」 「……お前、変なとこ冷静だな」 「キミこそ」 改めて手にしたそれは、半分に切ったポスターの裏面に、プリンターか何かで画像を印刷した薄っぺらいコピー用紙を貼り付けただけのお粗末なものだった。アキラは写真の面を内側にして丁寧に畳み、手のひらより少し大きめ程度のサイズにする。 「さあ、お前らもういいだろう。行った行った」 見世物となっていた写真が剥がされた今、彼らの興味は半減したらしい。輪の中央にいるアキラとヒカルの動向が気になる素振りを見せるものも何人がいたが、伊角にけしかけられてやがて三人を取り巻く人々は消えていった。 伊角がほっと息をつくのが分かった。 その様子に思わずアキラとヒカルも肩の力を緩めるが、くるりと振り返った伊角の厳しい表情を見てまた少し背中に力を入れる。 「塔矢! お前、夕べどこに行っていた」 意外にも大声をあげた伊角に、アキラは驚いて目を丸くした。 ヒカルもそれは同じだったようで、ちらりとアキラが確認した横目には、アキラのように目を丸くしているヒカルの顔が映る。 伊角ははあ、と大きくため息をつき、少し声を落として続けた。 「朝、お前が部屋にいないのを見てご両親がどれだけ心配したと思ってる。どうして黙って抜け出すようなことをした」 「……すいません」 アキラは素直に謝った。抜け出したことも、彼らに心配をかけたことも事実である。 先ほど伊角は芦原の名前も出した。やはりアキラの脱走は知れ渡ってしまっていたようだ。 そんなアキラの視線に気づいたのか、伊角は少し緊張の解けた表情で、彼らしくゆっくりと話してくれた。 「今朝、芦原さんから俺たちのところにお前が来ていないかと連絡があった。俺と和谷は手分けして心当たりを探していて、先に棋院に来ていた和谷が……連絡をくれたんだ。その足で和谷は、お前の家に向かったんだが」 伊角はヒカルをちらりと見て、 「……どうやら一緒にいたみたいだな」 低い声でそう呟く。 アキラは咄嗟に、伊角とヒカルの間に立った。 「伊角さん、これは……進藤がやったんじゃありません」 和谷は最初、ヒカルが写真を貼り出したと思い込んでいたようだった。それならば伊角もまた誤解しているかもしれない――そう考えた上での行動だったが、伊角があっさりと頷いたのでアキラは少し拍子抜けする。 「そうみたいだな」 伊角はまじまじとアキラ、ヒカルを交互に見て、感慨深げに目を細めた。 「……驚いたよ。お前たちがまた、一緒にいるのを見る日が来るなんて」 「……伊角さん」 「やったのが進藤じゃないなら、大体の見当はついてる。和谷から聞いた……塔矢、お前昨日の手合い勝ったんだって?」 伊角の確かめるような視線にアキラは頷きかけて、そうしてはっと目を見開く。 「まさか」 「恐らくそうだろう」 昨日の和谷の言葉を思い出す。 ――待ち伏せされてる。 「なに、何どういうこと?」 状況についていけないヒカルが焦れたように割って入り、アキラは余計に事をややこしくしそうなヒカルを脇で小突いた。 「言ったろ。ボクは手合いの度に、特定の連中に脅されてたって。これはボクが勝ったことへの報復ってことだ」 「ああ、そういうことか」 「進藤、ちょっと黙っててくれ。伊角さんが変な顔してるだろう」 アキラの小声の囁きに、ようやくヒカルもいかに自分の発言がこの場において奇妙なものだったのかを理解したらしい。 伊角は、見たことのない生き物を見るような目で二人を見ていた。 「お前たち……一体……」 アキラは頭痛を感じてこめかみを押さえた。 無理もない。和谷の話では、アキラを脅していたという彼らとヒカルとの間には何らかのつながりがあるようだった。こんな写真を彼らが持っているのが何よりの証拠だ。 そのヒカルが素知らぬ顔でアキラと一緒に現れたのだから、伊角にとってはこれ以上不可解なことはないだろう。 (そうだ、和谷くんは、ボクが進藤と彼らの話を聞いたと言っていた) ヒカルが彼らに撮影を頼まれた? それとも、元々持っていた写真を彼らがヒカルに渡すように言ったのか…… (そんなことはどちらでもいい) もしや、階段から落ちる前にアキラが聞いた話というのが、そのやりとりではないだろうか? 気弱らしい自分が、それを聞いてショックを受けたと考えても不自然ではないだろう。 となると、彼らはアキラとヒカルの関係を初めから知っていたということになる。同性同士でセックスをするような関係だと分かっていて、ヒカルに写真の件を持ちかけた。 (いや待て、そもそもボクらがそんな関係だったのかが分からないな) あの写真の中の行為が、常からのものなのか、撮影のためだけに行ったものなのか、判断するのは難しい。 せめて、もう少し状況が分かれば。もう一度和谷に当たってみたほうがいいだろうか。 アキラがうんうん唸りながら考えをまとめようとしていた時、 「……おい、お前そこで何してる」 ふとヒカルが階段に向かって低い声を投げかけた。 弾かれるように振り返ったアキラと伊角の視界に、階段の隅に隠れてビクリと身体を竦ませた人影が映る。 明らかに怪しいその人影を見咎めようとアキラが口を開いた瞬間、 「伊角く〜ん、脚立借りてきたよ〜」 全ての緊張の糸をぶっつり切断するような、間の抜けた声が上の階から降りてきた。 その緩んだ空気に便乗するように、隙をついた人影は蹲っていた階段の影から風を切る勢いで飛び出して、アキラたちの間をすり抜けて棋院の外へと向かう。 予期せぬ物体の突然の動きに驚いたのか、脚立を抱えて階段を下りてきた芦原が足を踏み外したらしい。うわーっという悲鳴と、ガシャンという耳障りな音はほぼ同時だった。 「待て!」 ヒカルはそんな芦原に構わず、逃げた人影を追う。 アキラは一瞬迷い、それでもヒカルの後に続いて走り出した。 「伊角さん、芦原さんをお願いします!」 念のため、振り向いてそれだけ言い残す。ちらりと見えた伊角の顔は呆然としていたが、全てのフォローは後から考えようと迷いを振り切った。 |