人影を追ったヒカルを更に追い、アキラは棋院を出て左右を見渡す。 左のほうからヒカルの声が聞こえたような気がして、アキラもまた左に向かう。角を曲がって棋院の裏側に出ると、ヒカルが男二人を追い詰めているところだった。棋院から逃げたと思しき人物は片手に携帯電話を握り締めたままだ。 「連絡取り合って様子を伺っていたというわけか」 彼らは現れたアキラとヒカルに驚きを隠せないようだった。 「なんで……お前らが一緒に」 棋院裏で待機していたらしい男の呟きを、アキラは聞き逃さなかった。 二人のうちどちらも、昨日アキラが対局した田島ではなかった。何人でつるんでいたのかは知らないが、とにかく複数人でアキラを陥れようとしていたことだけは分かる。 「お前らか、あんな写真貼ったの」 ヒカルの問いかけに、彼らは皮肉めいた笑みを浮かべる。 「あのデータを寄越したのはお前だろう」 「俺が?」 「待て、進藤」 ヒカルと彼らのやりとりを制したアキラは、貼られていた忌まわしい写真を思い返す。 組み敷いたアキラを上から見下ろすアングル。そして、少し荒くて暗めの不鮮明な写真は、画質が悪いだけではなく小さな写真を引き伸ばしたからだろう。 浮かんだ考えに確信を持って、ヒカルにしか聞こえないような小声でそっと囁いた。 「進藤、キミの携帯、カメラつきじゃないか?」 「え?」 ヒカルがポケットからストラップも何もついていない携帯電話を取り出す。それには確かに撮影用のレンズが見えた。 「それから、何か記録するメディアが取り付けられるはずだ」 「メディア……って?」 「メモリスティックとか、SDカードとかを差し込む場所がないかってことだよ」 「カード……あ、これか?」 携帯電話の側面に、パチッと音を立てて開く小さなカード差込口がある。中は空だったが、アキラは満足げに頷いた。 「多分こういうことだろう。キミがその携帯のカメラでボクを撮影し、それを記録したカードか何かをあいつらに渡した。恐らくその現場をボクが見て、ショックを受けたボクが動転して階段から落ちた」 「俺が……? この携帯で?」 「ああ、あの写真はやけに画像が荒かった。最近の携帯電話のカメラはかなり高画質になっているとはいえ、デジカメにはまだ適わないからね。それを更に引き伸ばしたから、あんな写真になったんだ」 ヒカルは携帯電話を開き、何やらカチカチと操作する。 「データフォルダには何にも入ってないぜ」 「そんなのいつでも消せるだろう」 「そうだけど……。百歩譲ってそうだとして、お前がショック受けるのは分かるけど、じゃあなんで俺まで階段から落ちるんだよ」 「う……た、確かに」 アキラの推理は呆気なく行き詰り、うーんと唸って天を睨む。 しばしそうして考えていたが、「わっ、待てっ、お前らっ!」というヒカルの焦った声で我に返った。 ヒカルは逃げ出そうとしていた男二人の首根っこを掴み、アキラに非難の目を向ける。 「おい、どーすんだよこいつら」 「どうするって……現行犯だからね。あれは立派な人権侵害だよ」 襟首を掴まれてじたばたともがく男の一人が、慌てたように喚きだした。 「い、いいのか!? 俺らの手元にはあの写真のデータがあるんだ、いつでもばら撒けるんだぞ!」 アキラはふっと呆れたようにため息をつき、ヒカルが捕まえている男の前にゆっくり近寄って、腰を屈めた。 「好きにするといい。ボクは女性じゃないから、あんなものいくらばら撒かれたってダメージは受けないさ」 半分は本気で、半分は嘘だった。 正直、あんなものをばら撒かれたら自分一人の問題では済まなくなる。 しかし、彼らがこれまで和谷や伊角たちに分からないようにアキラを脅していたことを思うと、そこまで思いきった行動を取るとは考えられない。こうして顔もはっきり見ている。アキラはできる限り冷静に、そして無表情に男を見下ろした。 男の額に動揺という名の汗が浮かんでくる。 だが、その表情が突然ぐしゃっと醜く崩れ、男は唐突に笑い出した。 追い詰められておかしくなったのだろうか―― 対峙していたアキラも、捕まえているヒカルも、ぎょっとして男を見下ろす。 「ぎゃははは……、お前ら、馬鹿じゃねぇの!? どんだけ無意味なことしてるんだよ! そもそも、俺らがハメようとしてたのはコイツだったんだ」 男はそう言ってヒカルを指差した。 「それに気づいたあんたがコイツを庇って不正を飲んだ」 そしてアキラを指差す。 「あんたのお目付けに見つかるまではあんた何やっても大人しくしててくれたのにな。どっちみち、身を呈して守ったコイツにあんたは裏切られたってわけだ。」 ぎゃはは、と再び品のない笑いを振りまく男に、アキラとヒカルは顔を見合わせた。 ヒカルは少しバツの悪そうな顔で、だから言ったろ、と目で訴えてくる。アキラは軽く苦笑いして、ヒカルに頷いて見せた。 ――なるほど、キミを引き合いに出されてはボクは身動きとれまい。 (でもね、進藤。不正を飲んだのは、やっぱりボクの弱さのせいだよ。ボクはそれが一番事を穏便に済ませる方法だと思ったのかもしれないが) 自惚れもいいとこだ。口唇で呟いたアキラは、ゆっくりと立ち上がり、馬鹿笑いを続ける男に哀れみの目を向けた。恐らく彼は自分が内情を暴露することによって、アキラとヒカルを傷つけたつもりなのだろう。 その詰めの甘さに、口唇が皮肉を乗せて歪む。この程度の男たちに長い間脅されていた自分が情けなく、アキラは暴れ出しそうになる苛立ちを押し殺しながら淡々とした口調で告げた。 「いろいろ話してくれてありがとう。キミたちにボスのような存在がいるなら伝えて欲しい。金輪際、ボクにも進藤にも手を出すなと」 男はへらへらと笑っている。 「さっきも言ったが、データは好きにするといい。ただし、これだけは忠告しておく。ご存知の通り、ボクの父は五冠の棋士だ。息子のボクが不祥を起こせば、もれなく父の名にも傷がつくだろう。スポンサー命の棋院が、五冠の父が汚れるのを良しとはすまい」 男の顔が僅かに強張った。 アキラは緩く目を細める。 「ボクの父と無名のキミたち、棋院はどちらを守ろうとするだろうね」 男がぎり、と口唇を噛む。 「肝に銘じておけ」 鋭く言い放ったアキラの言葉に、男がびくりと肩を竦ませた。 「塔矢」 少し咎めるような声でヒカルがアキラの名を呼ぶ。 「いいんだ、これで」 ――本当は、最初からこうすべきだったのだ。 当初、彼らの悪意はヒカルに向けられていた。 アキラと違って、何の後ろ盾もないヒカルが的になるのは、あってはならないこととはいえ考えられない話ではないだろう。 だが、その対象が「ヒカル」であることを、「アキラ」は知ってしまった。 そうして身代わりになった、三年も前から続いた不正行為。それだけ長い間、誰にもこのことを話さなかったのは、父や友人に迷惑をかけたくなかったからなのか、アキラのプライドだったのか…… 暴力は脅しになりえなかった。恐らくそれはただのおまけだったのだ。アキラにとっては殴られようが蹴られようが、どうでもいいことだったに違いない。 こんなことが棋院に知れたらただでは済まされない。それなのに、父の名を出さなかった。――自分一人でヒカルを守れるとでも思ったのだろうか? (ボクがそんなだから、お父さんは、お父さんは――) いつまでも五冠の棋士であることを強いられ、しがらみを捨てきれずにいる。 ――息子の弱さを見越して、ボクをいつでも守れるように…… 「塔矢。こいつらどうする?」 ヒカルの呼びかけで、アキラは痛いほど拳を握り締めていた自分に気がつく。 拳をまじまじと見つめ、どうしようもなく湧き上がってくる乱暴な気持ちを抑えられない、とため息をついた。 「聞きたいことも聞いたし、言いたいことも言った。もう捕まえていても意味がない。でも、逃がす前に……ボクに貸してくれ。少しくらいすっきりしたい」 珍しく投げやりなアキラの言葉に、ヒカルは少しだけ口角を上げたようだった。 「なんだよ、品行方正なおぼっちゃんには荷が重いんじゃねえのか?」 ヒカルがぎり、と二人の襟首を捻り上げ、男たちは痛い痛いとうめきながら立ち上がらされる。 「キミこそ、問題児のようだから大人しくしていたほうがいいんじゃないのか」 アキラはぱきぱきと指の関節を鳴らした。 「俺は相当素行不良らしいからな、今更何やったって目立ちゃしねえだろ」 「それもそうだな」 にやりと笑ったヒカルは、二人のうちべらべらと喋っていたほうの男をひょいっとアキラに投げるように突き飛ばした。 「それでは」 「仲良く一人ずつ」 アキラとヒカルが繰り出した拳が、それぞれの相手の顔面にヒットするのはほぼ同時だった。 至近距離で拳で殴りつけられ、吹っ飛んだ二人の身体がやけに薄っぺらく見える。 「二度とボクたちに関わるな」 ひいっと情けない悲鳴を残して、二人はふらつきながら駆け出していく。 ヒカルはどうか知らないが、アキラは手加減無しで殴った。数日は顔の形が変わったままだろう。 「ようやっとすっきりしたぜ。ほんのちょこっとだけどな」 「ああ」 ヒカルの呟きにアキラが同意した瞬間、 「アキラ〜〜〜!!」 限りなく悲鳴に近い絶叫が背後から響き渡り、ぎょっとして振り返ったアキラとヒカルの目に、追いついたらしい伊角のあんぐり口を開けた表情と、ショックに耐え切れなかったのか仰向けにぶっ倒れた芦原の姿が映ってしまった。 慌てて芦原に駆け寄りながら、アキラはどうやってこの状況をごまかしたらいいだろうと半ば途方に暮れた。 程なくしてやってきた和谷も騒ぎの輪に加わり、芦原の介抱と、とにかく落ち着いて話のできるところへとの全員の要望で、一行は塔矢邸へ移動することとなった。 |