Maybe Tomorrow







 アキラは何度も瞬きした。ヒカルが何をし出すのか気が気でなく、いっそ無理にこの場から連れ出そうかとも思ったが、やがてヒカルが告げた言葉に動けなくなる。
 呆気にとられた人々の前で、ヒカルは土下座の体勢のまま、よく通る声で「ごめんなさい」、と告げたのだ。
「心配かけて、ごめんなさい。傷つけて、ごめんなさい。でも俺は、塔矢が好きです。塔矢じゃないと、ダメなんです。泣くのも笑うのも、塔矢が一緒じゃないと嫌なんです。」
 シーンと静まり返った室内で、ヒカルのはっきりとした懺悔だけが不思議な音を響かせる。
 アキラも伊角も和谷も芦原も、固まったまま深々と頭を下げるヒカルのつむじを見つめていた。
 アキラは胸に広がる熱い痺れに目を細める。
 ――馬鹿。こんな時に、こんなところで、何だってそんな殺し文句を言うんだ。
 不覚にも目頭が熱くなる。アキラはぐっと口唇を噛み、滴が溜まるのを堪えた。
「殴られても仕方ない。俺はそれだけのことをした。でも、もう二度と、塔矢を傷つけません。世界で一番大切にする。だから、俺と塔矢が一緒にいることを許してください。お願いします」
 頭を下げたままのヒカルには静かな気迫があった。
 しばらく圧倒されたまま、何も言えず固まっていた和谷が、思い出したように震えた口唇を引き締める。
「だから……、信用、できねえって言ってんだろ……!」
 和谷は再び拳を強く握り、身体を押さえる伊角を吹き飛ばす勢いで前のめりに怒鳴りだす。
「お前、自分の素行振り返ってみろっ! 酒に煙草に女、仕事はドタキャン、一通り派手にやってどんだけ周りや棋院にメーワクかけてると思ってんだ! この前だって珍しく手合いに出てきたと思ったら、対局相手殴ってメチャクチャにしたじゃねえか! お前の何を信用したらいいんだよ!」
「もう二度としない!」
 覚えのない悪行に対して躊躇わず弁解するヒカルを見ているのが辛く、アキラは目を逸らしたくなった。
 だが寸でで留まった。ヒカルがヒカルなりにこの世界で出した答えから、目を逸らしてはいけない。アキラは自分を奮い立たせ、すっと背を伸ばしてヒカルの言葉を聞いた。
「二度としない。手合いにも出る。悪いと指摘されたことは全てやめる。だからお願いします、塔矢と一緒にいさせてください」
「ふざ……けんなって……」
「お願いします」
 ヒカルはひたすら懇願し続ける。
 黙って聞いているのに耐え切れなくなったアキラは、ヒカルに並んで畳に手を揃えた。ぐっと頭を下げ、「お願いします」と口を揃える。
「お願いします、許してください。ボクは進藤が好きです。進藤のいない世界で、ボクは生きていけない。皆さんに心配かけるようなことは二度としません。ボクらを信じてください。お願いします」
「……塔矢……」
 誰の呟きとも聞き取れないような小さな声は、夢の中の囁きのようだった。
 信じられるはずがない。「アキラ」と「ヒカル」が生きていた世界を、ここに現れてまだたった二日目のアキラとヒカルがぶち壊そうとしているのだ。それでも、腹を括った二人にはひたすら頭を下げることしか思いつかなかった。
 ――分かったよ、進藤。
 とことんつき合うから。迷いはあっても、この決断に後悔はしないから。
 沈黙は酷く長く感じられた。やはり駄目だろうか、とアキラが口唇を噛んだ時、目の前にいた伊角が僅かに動く気配を感じてはっとする。
「……いいのか、信じて」
 伊角の呟きは重かった。
 アキラとヒカルはそっと顔を上げ、目の前に並ぶ三つの顔を見据える。
 無言の対峙は、長くは続かなかった。
「……分かった。信用する。芦原さん、いいですね。和谷も、いいな。」
「伊角さん!」
「伊角くん……」
 伊角の言葉に、和谷も芦原も同意はしなかったが、拒否もしなかった。
 アキラはふーっと胸を撫で下ろし、自分たちが第一の関門を突破したことを実感する。
「……ただし。また塔矢が泣くようなことがあったら、俺たちは全員でお前たちを引き離す。いいな。」
「分かった」
 ヒカルは強く返事をして、隣のアキラを振り返り、頷く。アキラもまた頷き返した。
 ヒカルの顔はやや疲れてはいたが、どこかすっきりしているようだった。僅かに微笑んだ口元を見つけ、アキラも少しだけ笑う。
「……なあ、俺は夢を見ているのか? アキラが人を殴ったり、進藤くんと並んで土下座したり……夢みたいだよ……」
 放心したような表情のまま、ぽつりと芦原が呟く。
 ぼーっとした目でアキラとヒカルを見つめる芦原の言葉は心底本音だったのだろう。
 伊角も和谷も、無言の同意を示していた。
 アキラは安堵と共に、これからの自分たちに対する覚悟を決めなければならなかった。
 丸きり違う自分たちの世界を、これから変えていかなくてはならない。それは思った以上に厳しいことかもしれない。
(でも、進藤がいる)
 ヒカルとなら、どんな世界も乗り越えられる。
 もう覚悟は決まったのだ。
 アキラはこの時ほど、心の中で飽きるくらいに繰り返した言葉を強く噛み締めたことはなかった。