Maybe Tomorrow







 全員が疲れ果てた顔をしていた。
 気力を振り絞って台所へ立ったアキラは、未だ放心したように部屋に無言で座り込んだままの彼らのために煎茶を用意し始めた。
 多分、和谷がヒカルに手を上げることはもうないだろう。
 和谷の目から怒りは消えていなかったが、憎しみは和らいだような気がする。もしまた興奮するようなことがあっても、部屋には伊角がいるからきっとストッパーになってくれる。何か暖かいものでも飲めば、気持ちはもう少し落ち着くだろう。
 やかんを火にかけて、調理台に手をついたアキラは、はーっと長い長いため息をついた。
「……疲れた……」
 ここまで実感を込めてこの言葉を呟いたことがあっただろうか。
 たった二日、しかし一年にも感じられる怒涛の二日だった。
 平穏だった日々から、一転おかしな世界に放り出されて、状況を理解するのも精一杯で。
 そして今、自分たちはこの世界を壊そうとしている。
(すまない)
 アキラは、消えた「アキラ」と「ヒカル」に心の中で詫びた。
 自分たちが彼らの生き方を変えてしまうということは、彼らの人生を否定することでもある。
 「ヒカル」を愛した「アキラ」。「ヒカル」も同じように「アキラ」を想っていたのかは分からないが、彼らが屈折した愛情で繋がれていたのは間違いないのだろう。
 ――身体を結んで、でも心は離れたままで。「ボク」は必死で進藤ヒカルにしがみついていた……
 どんな気持ちで、ヒカルに抱かれていたのだろう。あの、うつろな瞳の塔矢アキラは。
 なんだか胃の辺りが重苦しく軋んだ気がして、アキラは服の上から手で押さえながら眉根を寄せた。
 今は、あまり考えないほうがいいだろう。自分にそう言い聞かせ、お茶の準備をしようと急須や湯飲みを取り出す。
「手伝うよ」
 ふと、背中に届いた声に振り向くと、伊角が台所の入口に立っていた。
「……伊角さん」
 思わず不安げに名前を呼びかけると、伊角は軽く笑った。
「大丈夫だ。和谷ももう落ち着いてる。進藤とやりあうようなことはないだろう」
「……だと、いいんですが……」
 病院でいきなりヒカルを殴りつけるような喧嘩っ早い和谷が、果たして伊角の言う通り大人しくしていてくれるだろうか。部屋にはヒカルと、あまり役に立たない芦原しかいない。
 アキラの表情を見て、伊角は苦笑したようだった。
「大丈夫だよ。……和谷にはまだショックが大きいみたいだ」
「え……」
「お前のこと、本当の弟みたいに可愛がってたからな。……でも、和谷もこれで気づいただろう。お前が、いつまでも守られるだけの弟じゃないって」
 アキラははっと目を見開いた。
 伊角はアキラの隣に立ち、用意されていた茶筒を手にとる。茶筒のフタが開けられ、何ともいえない香ばしい匂いが台所を包んだ。
「お前があんな写真を見たら、倒れてしまうんじゃないかと思ってた」
「……」
「でも、お前はしっかり立っていた。……気付かないうちに、強くなっていたんだな」
 アキラは何も言えず、言葉を探して俯いてしまう。
 本当の「アキラ」なら、あの写真を見てどう思っただろう。
 伊角の言う通り倒れてしまっただろうか。それとも、自嘲気味に笑っただろうか。
「……正直、まだ信じられない部分はある」
 伊角は茶の支度を手伝いながら、静かに、優しい口調でアキラに話しかける。
「三年前だったな。お前たちがしばらく手合いを休んだのは」
 アキラは湯飲みを並べていた手を止め、肩をぴくりと揺らしてそのまま動けなくなった。
「結局、どれだけ聞いてもお前はあの時のことは話してくれなかった。……今も、やっぱり話してはもらえないのか」
「……」
 アキラは湯飲みを見つめたまま、ぐっと歯を食いしばる。
 何も言えるはずがない。――何も知らないのだから。
 伊角はそれを無言の拒否と受け取ったのだろう、アキラの肩に手を置き、「いいんだ」と宥めてくれる。
「話してくれなくてもいい。ただ、あの時からおかしくなった進藤は、もう二度と元に戻らないと俺たちは思っていたのに、お前だけは何度言っても進藤から離れようとしなかった。お前が諦めなかったからなのかな。……進藤、昔に戻ったような目をしていた」
「……」
「進藤にはお前が必要だったのかもしれない」
 アキラは胸に広がる後ろめたい気持ちを、堪えるように握り締めていた手のひらをそっと開いた。
「……分かりません……」
 本音だった。
 ――だって、本当の彼らは何ひとつ解決なんてしてやしない。
 よかったのだろうか、これで。
 彼らの闇を塗り潰しただけで、自分たちが上から居座るなんて。
 三年前。
 不戦敗が続いたアキラとヒカル。
 「あの時からおかしくなった進藤」……
(……進藤は……)
 覚えのない左手首の傷を、一生抱えてこの世界で生きていかなくてはならない……?
 アキラは胸を押さえる。
 おかしくなったヒカルを、自分は救いたかったのかもしれない。黙って彼を庇い、抱かれて、それでもヒカルは戻らなかった。
 不毛な関係を続けた本当の理由は何だ? 誰にも何も言わず、碁の道を汚してまでヒカルを守ろうとした理由は何だ?
 愛の欠片もないセックス。ガラス球のような目をして、愛されることを諦めたような、闇より深い孤独を感じるあの瞳――
(――そうだ、あの目はまるで――)
 何かに、許しを請うような……

 シュ、シュ、とやかんが鳴き始め、伊角がガスの火をとめた。
「塔矢、お前疲れてるだろう。後は俺がやっておくから、戻ってていいぞ」
 伊角の優しい声に、アキラは未だ何も言えず、微かに頷くだけの仕草が精一杯だった。
「それにしても、驚いたぞ。少し走っただけで眩暈起こしてたようなお前が、人を殴るなんて。不謹慎かもしれないけど、俺もスカッとしたよ」
 アキラは僅かに微笑んでみせた。
 酷く疲れていた。身体も、心も。
 考え続けることに精も根も尽き果てた。
 今はとにかく休みたい――アキラはふらつく足取りで、痛む胸を押さえて台所を出た。