Maybe Tomorrow







 沈黙の中には、困惑や、疑心や、そんなものが多分に含まれていたように思う。
 ヒカルは畳の目をじっと追っていた。正座を崩して胡坐をかき、騒ぐ心を落ち着けようと深く長い息を繰り返すが、心は晴れない。
 胸に引っかかったものがとれない。引っかかったところからぎりぎりと傷口を広げていく。
 アキラと共に選んだ決断を後悔してはいない。この世界を壊そうと、ヒカルは「ヒカル」を背負う決意を固め、アキラは「アキラ」を抱える決意を固めたのだ。
 そのことについての迷いはない。
 ただ、「自分」が分からなかった。
 アキラに比べて圧倒的に接している人間が少ないせいか、自分が見えてこない。あの部屋は落ち着かなかった。寒くて、淋しくて、あんなところに自分がどうして一人きりでいるのか、どうしても分からない。
 ヒカルは無意識に左手首を押さえていた。つけられてから数年経っただろう、古い傷痕。
 アキラが週刊碁の話をしてくれた時に出てきた、三年前、という単語に聞き覚えがないはずがない。
 実際、今ここにいる自分だって、少しきっかけがずれていたらどうなっていたか分からない。
 気になるのは、この世界ではアキラまでもが不戦敗を重ねたということだった。
(まさか、塔矢を引きずり込んでしまったんだろうか)
 自分だけが持つ薄暗い闇の中に?
 ――確かめたい。
 ヒカルはちらりと部屋を見渡す。先ほど、アキラが「お茶を用意します」と言って部屋を出て、それからすぐに伊角が手伝いに立った。しばらく三人で無言でいたが、雰囲気に耐え切れなくなったのか、芦原が「外の空気を吸ってくる」と少し前にいなくなったため、和谷と二人になっている。
 和谷は先ほどはかなり興奮していたが、今は静かだった。しかし表情は依然として厳しく、ヒカルと目を合わせない上に話しかけるなというオーラを背負っている。
 仕方ないよな、とヒカルはため息をつく。
 ――酒に煙草に女、仕事はドタキャン、おまけに暴力沙汰……
 随分好き放題やってきたようだ。親に絶縁宣言されるだけのことをしてきたのだろう。しかし、寝坊して遅刻したことはあれど、その他のどの悪事も今のヒカルには経験がない。
 おまけに、アキラのあの写真を撮ったのはヒカルだというではないか。自慢ではないが、ヒカルはアキラを抱いたことは一度もない。ベッドの上では暑苦しいくらい情熱的な目をするアキラしか知らないヒカルにとって、あの写真の中のアキラは衝撃が強かった。
(俺があんな顔させてるのか?)
 「ヒカル」は「アキラ」を愛していないのだろうか?
 分からない。だから、確かめたい。
 この世界の自分が、どうして道を誤ってしまったのか。
「……お前」
 ふと、先ほどからずっとヒカルの存在を無視し続けていた和谷が、声をかけてきた。
 ヒカルは驚いて辺りを見渡すが、この部屋には当然自分しかいない。必然的に自分にかけられた声と悟り、戸惑いながら「何?」と答えた。
「お前、本当に塔矢が好きなのか」
「……、好きだよ」
 一瞬質問の内容に躊躇って、それでもなるべく間を置かずに答えた。
 これは今のヒカルの気持ちだ。「ヒカル」がどう思っているかは知らないが、ヒカルはアキラを誰より大切な恋人だと思っているし、生涯を共にする相手だと思っている。
 だから、「ヒカル」も「アキラ」を好きだと思った。いや、思いたいのだ。自分が、相手を見誤っているなんて考えたくない。アキラがされた仕打ちが許せないのに、それが違う世界の自分のしたことだと思うとやりきれなくて誰を責めたらいいのか分からない。
 ヒカルの答えを聞いても、和谷は暗い表情を変えない。ヒカルと目を合わせないままのため、まるで独り言のように和谷は続けた。
「……あいつに同情して、そんなこと言ってるんじゃないのか」
「……同情……?」
「分かってるんだ……、分かってるんだよ。本当はあいつがお前を追っかけてるだけだ。ずっと昔からそうだった。お前が今みたいにどうしようもなくなる前から、あいつはずっと……お前だけを追っかけて……」
「……」
 ヒカルは息を飲む。かつての幼い自分たちを思い出す。
 アキラが佐為を追い、ヒカルがアキラを追った。やがて佐為が消え、ヒカルとアキラは初めて向き合った。  大切な時間が、ヒカルとアキラと、そして佐為と紡いだ大切な時間が、この世界のどこで捩じれてしまったのだろう。
「俺が、変わっちまったヤツのことなんか忘れろって何度言っても聞かなくて、あいつはすぐにお前のところに戻っていった。お前、根負けしてあいつを受け入れる気になっただけじゃないのか。本当はあいつのことなんて必要じゃないんじゃないのか」
「違う、和谷、」
「なんであいつを抱いた。なんでもっと突き放さなかった。お前、知ってたんだろ。俺たちがあの日、ヤツラとお前の話を聞いてたこと。塔矢が聞いてるの知っててどうして、あんなこと言ったんだよ」
 ヒカルは言葉に詰まる。「ヒカル」の気持ちが分からないのに、何を言えばいいのだろう。
「俺にはお前が分かんねえよ……なんであんなこと言ったくせに、塔矢を助けたりしたんだ……」
 ヒカルがはっと顔を上げる。
「助けた?」
 思わず聞き返した言葉に、和谷もまたつられるようにヒカルを見た。
「お前……逃げた塔矢を追っていったじゃねえか。階段で、あいつが落ちる前に……手を伸ばして」
「俺が……助けた?」
 どくりと、心臓が胸を刺す。
 ヒカルは渇いた口唇を舐めた。
 助けた。逃げるアキラを、追いかけて手を伸ばして、一緒に……落ちた。
 ――俺が助けた。
 ヒカルの心に小さな火が灯る。
 「俺」はやっぱり俺なんだろうか……望みを持ってもいいのだろうか。

『お前が俺のこと好きだってんなら、俺だってお前のこと好きなはずだ』
 ――俺、ホントに本気で言ったんだぜ、塔矢。