三年前の記憶が蘇る。 セミナー会場で緒方とやりとりをした。酷く酔っ払った緒方と、静かだった佐為。 『ヒカル、打ちましょう』 ――佐為の最後の一局だ。 「……緒方先生……、その時の対局、覚えてる……?」 震える声で、気づけばそう尋ねていた。 あれは佐為が打った。そして、その翌日に……佐為は消えた。 「全ては覚えていない。あの時俺はしこたま酔っていたからな」 「……そう」 どこかほっとしたようながっかりしたような、そんな複雑なため息を漏らして、ヒカルは再び緒方に背を向けた。 「何処に行く?」 「……ちょっと、用事があるんだ」 「……。待て、進藤。乗れ」 「え?」 緒方はポケットにしまったばかりのキーを取り出し、ドアのロックを外す。 ヒカルが躊躇っているうちに、緒方はさっさと運転席に乗り込んでしまった。 ヒカルは少し迷って、しかしフロントガラス越しにじっとりヒカルを見る目の無言の迫力に、渋々助手席のドアに手を伸ばす。 車内は煙草の臭いが染み付いていた。 走り出す車の中で、ヒカルが慌ててシートベルトを締めると、隣の緒方がくつくつと笑い出す。 「まさか、本当に乗るとは思わなかった」 「な、なんだよ、緒方先生が乗れって言ったんじゃん」 「お前、本当に昔に戻ったのか? お前が俺の隣に座るなんてな。殺したいくらい嫌いだって顔をしていたくせに」 ヒカルがピク、と肩を揺らす。 思わず口を噤んでしまったヒカルに、緒方はようやく行き先を尋ねてきた。ヒカルはおおよその方向だけを告げ、具体的な名前は言わなかった。 「……緒方先生。芦原さん、何て言ってた?」 「――ああ。アキラが見つかったってことと、なんだか宜しくない写真が貼り出されたってこと。その犯人を捕まえて、お前とアキラがぶん殴ったってこと」 ヒカルは緒方の口ぶりに思わず顔を緩めた。 「本当なのか?」 「……本当だよ」 「そうか。それは見たかった」 緒方が楽しそうに笑う。 芦原や伊角や和谷が、アキラの変化に大きく戸惑う中、緒方の反応は今のアキラを受け入れてくれているようで、ヒカルは少しほっとする。 「それから、お前とアキラが土下座して交際宣言したってことか。なあ、この説明を聞いた時の俺の混乱ぶりが分かるか?」 「……そうだね」 どこか茶化すような緒方の言葉が、今のヒカルにはありがたかった。 この二日というもの、人の反応に怯えて過ごしたと言っても過言ではない。誰も彼も冷たい目でヒカルを睨み、正直なところ、精神的に厳しい状況だった。 アキラがいたからこそ、平気な顔をしていられた。もしもこの世界に一人で放り出されていたら……考えてヒカルは身震いする。頭がおかしくなりそうで、ヒカルは想像を中断した。 「緒方先生、俺のこと怒んないの?」 代わりに、素直に浮かんだ疑問を口にした。 三年口を聞かなかったヒカルの変貌に驚いたと言いながらも、緒方はそれほど動揺しているように見えなかった。 素行の悪いヒカルを責めるような素振りも見られない。まあ、元々つかみ所のない人だけど、とヒカルは肩を竦める。 「なんだお前、怒って欲しいのか」 「そうじゃないけどさ」 「何について怒ったらいいんだ? お前が散々手合いをサボってることか。それとも勝手に仕事を休んでイベントに穴を開けてることか。怒ろうと思えばいくらでもあるぜ」 ヒカルは口唇を真一文字に結び、眉間に皺を寄せて黙り込んだ。 緒方の意地の悪い言い方をどうやり過ごしたらいいだろう。窓の外に流れる景色へ視線を逃がして、やはり車に乗るのは選択を誤っただろうかと、安易な自分を後悔し始めていた時。 「……俺は、どちらかというと理由を知りたい」 ヒカルが振り向くと、緒方は赤信号で止まっている間に内ポケットの煙草に指を伸ばしていた。 一本だけ取り出した煙草を口に銜え、次はライターを探っているようだった。 「お前が何故、ああまで碁をないがしろにしながらも棋士であることをやめないのか」 ヒカルの目がひと回りほど大きくなる。 「……それはアキラも同じことだな。理由はどうあれあいつは不正を飲んでたんだ。まあ、背後にお前が関係してるんじゃないかとは薄々は勘付いていたがな。アキラはお前に関しては全くと言っていい程言うことを聞かん」 「……緒方先生、俺……」 「芦原は必要以上にアキラを心配しているが、俺はアキラが誰かに流されているようには見えん。何もかもあいつの意志で、悪いほうに悪いほうに飛び込んで行っているようにしか、俺には見えないんだ」 シュッと小さな音の後、煙草の先端が赤い光を点した。 信号が青に変わる。 「芦原はアキラも変わったと言っていた。お前に会うまではにわかには信じ難かったが、俺は期待してもいいんだろうか?」 ちらりと横目で視線を寄越す緒方に、ヒカルは目元を悲し気に歪めたまま笑ってみせた。 「……塔矢は、いい男だよ。」 「……そうか」 緒方がふっと微笑んだように見えた。 それ以上何も聞くつもりのないらしい緒方に、心の中で感謝する。 「あ、そこ右に曲がって」 目的地が近付いてきたことに気付き、ヒカルは緒方に指示をする。 確かめなければならなかった。 出逢った頃のヒカルとアキラに何の濁りもなく、三年前から突然二人の関係が変わってしまったのなら。 思い当たることはひとつしかない。 「そこ、左。真直ぐ行って」 不戦敗を重ねた自分。何故アキラまでそれにつき合う必要があったのか。 「そこの奥から二件目の家」 この左手首に残る傷痕が、何を意味するのか。 ヒカルは手首を握りしめる。 車は静かに停車した。 アキラと暮らしているマンションはなくても、祖父の家は表札もそのままでしっかりと存在している。 緒方に礼を告げ、ヒカルは車を下りた。懐かしい風が頬をくすぐっていく。 ヒカルは目を細めて蔵を見つめる。 アキラにも告げていない、大切な人の存在を確かめたかった。 ――彼が、この世界にもいたのかどうか。 |
どんどん強引な展開に……
いろいろと反省すべき点が多い回でした……。
実は大したオチはないんだよって感じの後半を、
いかにそれっぽく(どれっぽく?)するか考えようと思います。
(2006.10.21/19〜27UP)