足を踏み入れた祖父の家、玄関へと続く道へ真っ直ぐ向かうかどうかでヒカルは少し迷う。 一昨日、両親に会ったときの反応を思い出すと、祖父には会わないほうがいいのだろうか。 ――あんたはお母さんの子じゃないって思うことにしたの…… 甘やかされて育ったヒカルにとって、あの言葉は相当に厳しい響きを持っていた。 優しい祖父にまであんなことを言われたら、もうどうしたらよいのか分からなくなる…… 立ち止まって地面を睨んでいたヒカルは、その背後にゆったりと影が近付いていたことにすぐには気付かなかった。 「……ヒカル?」 背中にかけられた声に、ヒカルははっとして振り返った。 買物袋を下げて、そこに立っていた祖父は、ヒカルの知る祖父の姿よりも幾分小さく見えた。 「ヒカルか……? お前、来てくれたのか……」 「……じいちゃん……」 祖父は皺くちゃの顔をなんだか泣きそうに歪めて、見ていると辛くなるような笑顔を浮かべてヒカルを見ていた。その表情に、ヒカルの胸がじんわり痛む。 祖父が自分を疎んじていないことが分かって、嬉しくて切なくなった。まるで何十年も会っていなかったかのように、優しい目が酷く懐かしく感じる。 「お前が来てくれるなんてなあ。元気にしてたのか、ヒカル……」 「……うん、元気だったよ」 ヒカルが微かに笑うと、祖父もまた笑顔を更に和らげた。 「そんなとこに立ってないで、中に入ってくれ。ああ、お前が何か食べれるものはあったかなあ……」 「いいよ、そんなの。……じいちゃん、俺お蔵見たいんだけど……」 行ってもいいかな、とヒカルが言いかけたとき、祖父の笑顔が僅かに曇った。 その変化にヒカルがはっと目を留める。 祖父はしばらく黙ってヒカルを見つめ、そしてふっと目を逸らした。 「ああ……お蔵だな。お前に言われた通り、アレはそのままにしてある……」 「……アレ……?」 「お蔵を覗いたら、中に入ってこい。大したもんは用意できんが……」 祖父は曲がった腰に手を当てながら、ゆっくりゆっくり玄関へと向かっていった。 ヒカルはその後姿をしばし見送り、そして蔵の方角に目を向ける。 ――アレ。 (……やっぱり、あるんだ) ヒカルは確信を胸に抱いて、蔵へと足を向けた。 蔵は、ヒカルがよく見知っている世界の蔵と何ら変わりがなかった。 閂を外して重い扉を開き、開いた扉の隙間から差し込む光を背に浴びて、暗い中へと足を踏み入れる。 埃と、湿ったカビの臭いが鼻を撫でた。 ヒカルは迷わず二階に続く階段へ向かい、その軋む板に足をかける。一段一段、昇るごとに胸の鼓動が速さを増していく。 昇りきった二階に備え付けられた小さな窓が、暗い室内に暖かな光を差し込ませていた。 その光に目を細めながら、浮かび上がるように置かれた四角い輪郭のものへゆっくり近づいていく。 脛にも満たない高さの、足つきの古い碁盤。 ヒカルは深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようと一度目を閉じた。 懐かしいあの碁盤は、やはりこの世界にもあった…… (佐為) ならば、きっとこの世界にも佐為がいたはず。 佐為がいなくなって、その辛さに「ヒカル」は負けてしまった。 おまけに、アキラを引きずりこんで…… ヒカルは目を開き、覚悟を決めたように顎を引き締めて、碁盤へと一歩一歩歩み寄った。耳元に心臓があるみたいに、ドクドクと脈打つ音がうるさい。カラカラの口唇をぺろりと舐める。 窓から入る光の中で、埃がキラキラと舞っている。 その下にぽつんと残された碁盤の前で、ヒカルは愛しいものを見るような眼差しを落とし、その場に屈みこもうとした、その時。 「――……!」 ヒカルの目が、じりじりと見開いていく。 少し埃の被った碁盤に、……薄らシミが見える。 向かって右上、薄らと、赤黒いシミ。 佐為と共に、消えてしまったはずの…… 「そんな……!」 ヒカルは碁盤に掴みかかるように膝をつき、埃を払った。シミが確かに残る。咄嗟にヒカルは空を見た。 天井の四方を仰ぎ、目をくまなく走らせる。 闇の中に、ぼんやり輝く懐かしい影がないかどうか。 優しくて穏やかなあの声の響きがどこからか聞こえてこないかどうか。 (佐為) 巡る視線は空回りする。 (佐為――!) ヒカルは大きく天を仰いだまま、彷徨う視線をそっと細めた。 「……佐為」 ここにあるのは、ただの碁盤。 囲碁を愛した魂は、やはり天に還ったのだ。 では、このシミは? ヒカルは頭を下げ、恐る恐る碁盤を見下ろした。 確かなシミがこの目にはっきりと見える。……しかし、よく見ると、ヒカルが過去に見たシミとは色や形が違って見える。 「え……」 ヒカルは顔を近づけた。 シミと思われたそれは、指先で触ると僅かに擦れる。 きつく擦れば落ちてしまうかもしれない、つまりこれは碁盤の表面に後からついたもの。 ドクン、と心臓が揺れる。 シミに触れた指先が震え始めた。 息が、苦しい。 身体が、酷く怠い。そして重い。 (……痛い……?) ヒカルは左手首に鈍痛を感じて、思わず右手で強く握り締めた。 (これって……あの、傷痕……?) 古い傷痕が、何故こんなに痛むのだろう? 痛みの波が、脈打つように激しさを増す。 鼓動と痛みが一体化していく。 ……息が苦しい……。 ヒカルは目を見開いた。 「まさか」 この碁盤の赤黒いシミは――…… その瞬間、ヒカルは、自らの左手から流れる血の朱を見たような気がした。 意識が急速に闇に引きずり込まれていく。 身体が重い。頭が痛くて、息が苦しい。 (塔矢) どこからか、アキラの声が聞こえたような―― ……どう……進藤……進藤…… お願いだから、逝かないで。 キミは必要な人間だから。 キミに碁を打ち続けて欲しいから。 ……ボクのために生きてなんて、言わないから…… |