身体が、怠い…… 「うー……ん」 瞼を通してもはっきり眩しい日の光が、どろどろに溶けたヒカルの身体を覚醒させる。 酷く頭が重かった。目を開けるのが億劫でたまらないが、この眩しさは朝が来た証拠だろう。 腰が痛む。まだ二晩しか経っていないというのに、この固いベッドは本当に寝心地が悪い。 元の世界なら、アキラと一緒に寝ても充分広さのある、スプリングが自慢のダブルベッドがあるのに…… ヒカルは目を擦りながら、ふわあとあくびをした。 朝かあ、と小さく呟き、軋む身体を起こそうとして、傍らに寝ている熱の塊に気がついた。 何の疑問も持たず、アキラだと思い込んだその肌に触れて、触り慣れないおかしな感触にヒカルは手を引っ込める。 ぱっちり開いた目で、隣に眠る物体を見下ろした。 柔らかな肌と、長い巻き毛の茶髪。 「え……!?」 ヒカルはその女性を凝視する。 見たことのない女だった。身体をヒカルに向けて横たえ、未だすやすやと眠っている。シーツを胸の下辺りまで引き寄せて、覆われていない身体は……どう見ても、何も身に着けていないように見える。 もしや、巻き毛がくるんと丸まってよく見えないが、あの腕の間にくっきり線を描いているものは、豊満な胸の谷間ではないだろうか。ヒカルは全身からどっと噴き出す汗に寒気を覚え、思わず自分の身体を抱き締めて―― 「うお!?」 自分もまた、素っ裸であることに気づいた。 慌てて辺りを見渡す。見覚えのあるこの景色は、淋しい世界でのヒカルの殺風景な部屋だ。カーテンのかかっていない大きな窓から、ひょっとしたらもう昼近くになるのだろうか、青い空が広がっている。 間違いなく自分の部屋であるこの場所で、固くて小さなベッドの上、裸の女が眠る横に同じく裸の自分が寝ていた。 「ま……まさか……」 ヒカルがワナワナと震えていると、騒々しさに目を覚ましたのか、小さな唸り声を漏らして女が身を捩った。 (うわ、む、胸が見える……!) ヒカルは思わず腕で目を覆う。 これは夢だろうか。だとしたらあまりに刺激が強すぎる。おまけに夢だとしたら大問題だ。自分にはこんな願望があるのだろうか? アキラという恋人がありながら。 そんな、ヒカルのささやかな現実逃避も、ふいに腕を掴まれたことで呆気なく終わりを告げた。 ぐいっと引かれた腕の向こう、悪戯っぽく口唇を吊り上げて笑う美人を目の前にして、ヒカルの顔が真っ赤に染まる。 「オハヨ」 「あ……あ、あの……」 「なあに、寝ぼけてるの?」 女が口唇を寄せてきたので、ヒカルは慌てて仰け反った。 その反応に女はむっと口唇を尖らせたが、すぐに興味を失ったようで、しなやかな身体を翻してするりとベッドを抜け出す。 (うわっ……!) 全裸だというのに恥じらいもなく、女は堂々と部屋の中央に立つ。ヒカルは目のやり場に困り、真っ赤な顔で視線を逸らす。 年はヒカルより随分上に見える。派手な顔立ちの、長い髪がよく似合う美人だった。しかし、当然ながらヒカルには全く覚えのない女性である。 そんなことより、何よりも、この状況は、紛れもなく。 (……塔矢、ゴメン……) さっぱり覚えていないとはいえ、明らかな過ちの痕跡。 (全っ然思い出せねえ) そう、思い出せない。 自分はいつ部屋に帰ってきたのだったか? ヒカルはまとまらない頭を少しずつ整理しようとする。 ――祖父の家に行き、蔵に行った。そこまでは覚えているのに…… そこから先が思い出せない。確かに碁盤があったのを見た。そして不可思議なシミ…… (そうだ……あのシミを見てから) なんだか、身体が怠くなって…… (……と、まず、今の状況を何とかしないと) ヒカルは裸でうろつく女性に向かって、意を決して声をかけた。もちろん、目は逸らしたままだったが。 「あ、あの、すいません」 「なあに?」 「その……帰ってもらってもいいでしょうか」 女が振り向いたのが気配で分かった。 突然怒鳴り出されたらどうしよう――ヒカルはさっきから流れっぱなしの汗を背中に感じて肌寒さに震えた。 「いいわよ」 ところが、意外にあっさり答えた女性は、床に散らばっていた服をひょいひょいと拾い集め始めた。 かさかさと衣擦れの音が聞こえてくる。ヒカルは顔ごと視線をぐっと逸らしたまま、早く服を着てくれと念仏のように唱え続けた。 音が静かになり、恐る恐る顔を向けると、丈の短い黒のワンピースを纏った女性が腰に手を当てて立っていた。 改めて顔を見て、その気の強そうな上がり調子の目と、一晩過ごしたと思われるのに化粧崩れのしていない肌にヒカルは圧倒された。 どこでこんな女性を拾ってしまっただろう。全く記憶にない。 「じゃ、帰るわ。またね」 「え……あ、あの!」 「なあに?」 今度の「なあに」は面倒くさそうに、すでに玄関に向かいかかっていた女性はあまり機嫌の良くない顔で振り向いた。 ヒカルは内心ビクつきながらも、覚悟を決めて口を開く。 「その、……もう来ないでくれますか」 「……」 女が少し目を丸くして、ヒカルをまじまじと見た。 ヒカルはやや上目遣いで、何を言われるものかと女の様子を伺う。 何を言われても仕方ない。何も覚えていないとはいえ、行きずりでおかしなことになってしまったのは間違いないのだろう。 しかし、自分には心に決めた恋人がいる。つい昨日も人前で盛大に愛を誓い合ってしまったくらいに大切な人がいるのだ。 (……で、なんでこうなっちゃったのかは分かんねえけど) ところが、身構えるヒカルの覚悟に反して、女は突然けたけたと笑い始めた。 「やーだもう、ハイハイ、珍しく真面目な顔すると思ったら。いつもの台詞じゃないの、分かってるわよ」 「え……?」 「また淋しくなったら呼んでちょうだい」 「え、いや、あの、その」 「バイバイ」 ヒカルが慌てて手を伸ばすが、彼女はひらりと薄いドアを潜って外の世界へと消えていった。 一人取り残されたヒカルは、ベッドの上に素っ裸で呆然とする。 「これ……どういうことだ……?」 まじまじと身体を見る。 左手首の傷痕も変わらず残っている。ここは確かにあのおかしな世界だ。 蔵で碁盤を見つけた、そこまでは覚えている。なのにどうやってこの部屋に戻って来たのか、あの女性と何処で知り合ったのか全く分からない。 まるで何度も会っていたかのような口ぶり。 ヒカルは部屋を見渡し、息を飲んだ。 小さなガラステーブルの上の、缶ビールの空き缶に灰皿。灰皿には吸殻が何本もねじ込まれている。 このガラスで出来た四角い灰皿は見覚えがあった。初めてこの部屋に訪れた時、やはりこんなふうに吸殻が溜まった状態でテーブルに置いてあったのを、ヒカルはこっそり片付けたのだ。 吸殻を捨てて、灰皿を台所シンク下の戸棚に隠して。 そう、あの日も今みたいにビールの空き缶が転がっていた。 「なんだ……これ……」 まるで誰かがここでビールを飲み、煙草を吸ったような…… ざあっと血の気が引いていく。汗ばんだ身体が一気に冷えて、ヒカルは小さなくしゃみをした。 思い出せない。自分が何をしていたか思い出せない。 あれから、どのくらい時間が経ったのだろう? ヒカルはテーブルにぽつんと置かれた携帯電話を見つけて、飛びついた。 二つ折りを開いた画面に表示された、今日の日付を見て愕然とする。 「おい……嘘だろ……」 蔵に向かったあの日から、すでに三日が経過していた。 慌てて着信記録やメールをチェックする。アキラから何か連絡が来ているのではないかとくまなく探すが、見つからない。 それどころか、登録したはずのアキラの番号がすっかり消えていた。 「マジかよ……」 頭が真っ白になる。 何も思い出せない。思い出せない間に、何があったのだろう。 この部屋の有様を見て、まさか、とは思う。ではしかし、今ここにいる自分は何なのだろう。 もう一つくしゃみをして、ヒカルはベッドから這い出た。なんだか身体が気持ち悪い。狭いシャワールームに飛び込んで、頭から爪先まで念入りに洗う。 (塔矢) アキラはどうなったのだろう。この三日、自分から全く連絡が入らないで心配しているのではないだろうか。 (塔矢) こちらから電話をしようにも、登録が消されてしまってはどうしようもない。直接逢いに行かなくては…… (塔矢……) 誰があの登録を消した? 「塔矢」 口に出すと、何故だか酷く懐かしい名前のように耳に触れる。 逢いたい。この部屋は寒くて怖い。 逢いに行かなくては。早く、アキラに。早く…… シャワールームを出て、ヒカルはもどかしく散らばった服を着た。 数日前に着ていた服とは違うものだとすぐに気づく。 無性に悔しくて、再び灰皿の中身を捨て、灰皿を隠してやった。缶ビールの空き缶も全てゴミ箱に突っ込んで、部屋から今のヒカルと違う臭いのするものを全て始末した。 そうして相変わらずの殺風景な部屋にふうっとため息をつき、携帯電話を手にして部屋を出ようとしたその時。 手の中の携帯電話が震えた。 「!」 反射的に画面を開き、着信している電話番号に目を走らせる。 アキラだと、そう思ったその画面には、 『キヨハル』 その名前が表示されていて、ヒカルは一瞬呼吸を忘れた。 |