「『キヨハル』……?」 その名を呟いて、ヒカルはすぐにはっとする。 数日前のアキラとの会話を思い出した。 ――俺、この名前どっかで見たことあるなーって思ったんだけど ――ボクも見覚えがある。……誰だっただろうか ――社だよ。社清春…… 「社!」 ぱっと頭に浮かんだ飄々とした社の顔。 叫んだヒカルは、慌てて通話ボタンを押した。ヒカルがこの世界に来てから、アキラ以外に連絡をくれたのは社が初めてだった。 「もしもし?」 『もしもーし。おう、元気か?』 受話器から聞こえる声は、まさしくヒカルの知る社の声だった。 のんびりした、ちょっとおどけるような声。何か大事な用事があってかけてきた、という様子はなさそうである。 ごく普通に話しかけてくる社に、どのように返答したものか迷う。 これまで、元の世界では親しかったはずの和谷や伊角に、随分な態度をとられてきた。和谷なんて出会い頭に有無を言わさず殴りつけてきたくらいだ。 社はどうなのだろう。携帯電話に「キヨハル」なんて登録をしているくらいだから、親しくないわけではなさそうだが…… ヒカルは社の反応に怯えながらも、なるべく平静を装って返事を返した。 「げ、元気だよ。な、何?」 『なんや、用がないと電話したらあかんのか』 社の声はヒカルをからかっているようだった。 人が対応に困ってるってのに! ――ヒカルはやや自分勝手な憤りを感じて頬を膨らませるが、当然電話の向こうの社にそれが見えるはずはない。ヒカルは不貞腐れながらも、言葉を濁しながら場をごまかし続ける。 「そ、そうじゃないけどさあ」 『相変わらず素っ気無いやっちゃな。俺が心配しなくて、誰がヒカルの心配するんや』 突然社の口から出てきた「ヒカル」の響きに、どきっと脈が乱れた。 『ちゃんと飯食っとるか? お前ほっといたら超アウトローな生活送るからなあ、俺も定期コールやめるわけにいかんやろ』 「あ、あの、社」 『あん? なんや、急に他人行儀な呼び方して』 「え? い、いや、その……俺、社のこと何て呼んでる?」 『はあ? お前頭でも打ったんか? 小さい頃からずっとキヨハル呼んでたやないか。何を今更言っとんのや』 「小さい頃から?」 お互い語尾を上げ調子の会話は酷く奇妙なものだっただろう。 どうにも噛み合うはずがない。 どうやらこちらの社もまた、ヒカルの知る社と少々違う関係にあるらしい。 アキラにでさえ下の名前を呼ばれるのは……アノ時くらいなのに、社に「ヒカル」なんて呼ばれるとなんだかむず痒い。その上、自分も社をキヨハルと呼んでいるなんて。 思った以上に社とは親しくしているらしい。ひょっとしたら、この世界のヒカルにとっての唯一の友達なのかもしれない。 それにしても、小さい頃からというのはどういう意味だろう。 この世界では、十五の時に初めて会ったというわけではないのだろうか…… 『なんや、様子おかしいな。ヒカル、大丈夫か?』 「だ、大丈夫、たぶん」 『たぶんって何や。お前ほんまに何か変やで。さっきから何どもっとんねん』 「う、うーんと……何て説明したらいいか……」 ヒカルはすっかり困り果てた。 うまくやり過ごそうにも、どうやって話を終えたらよいのか分からない。 どうやら社はヒカルと親しくて、たまにこうして電話をかけてくるのだということは予想できた。 彼らは普段どんなふうに話すのだろう? 周囲の評判がすこぶる悪いこの自分が、社とどんな会話をするのが想像もつかない。 こんな時アキラなら、うまく相手から必要な情報を聞き出したりするのだろうか。 (アイツは口がうまいからなあ) しかしこうしていつまでも黙っているわけにもいかないと、ヒカルは意を決して社との会話を試みた。 とにかく、聞けることは聞いてしまったほうがいい。多少怪しまれても仕方がない、どうせ説明下手な自分が何をどう取り繕うとしたって最後は結局怪しまれるだろうから。 「あ、あのさ。最近……変わりないか?」 『……まあ、ぼちぼちやな。』 「お、お前って今何やってんだっけ?」 『何って?』 ああもう、ツッコんでくるなよ! ヒカルは案の定上手く話を運べない自分に地団太を踏みつつ、それでも諦めずに会話を続けようとした。 「その、ほら、学校とか。……囲碁とか、やってる?」 そうヒカルが尋ねた瞬間、ふいに受話器の向こうが静まり返った。 あれ?と耳を澄ますが何も聞こえない。思わず携帯を耳から離して画面を見た。別に電波状態が悪いわけでも、電源が切れたわけでもない。 とすると、向こうの電波が悪いのだろうか? ヒカルは首を傾げながら、小さくもしもし、と社の反応を伺ってみた。 ひゅっと、息を飲むような音が聞こえたような気がした。 (なんだよ、ちゃんと通じてんじゃねーか) 何黙ってんだよ、と口にしようとした瞬間、 『……お前、誰や』 押し殺したような低い声が、ヒカルの耳を静かに切り裂いた。 ヒカルはごくりと唾を飲み込む。言われた言葉の内容がすぐに飲み込めず、「……え?」と聞き返した声に、社は今度は即座に切り返してきた。 『お前誰や。……ヒカルやないな』 「え、な、なんで……」 『ヒカルがそないなこと聞くかい』 ヒカルは目を見開く。 ――ヒカルやないな―― 胸の高鳴りが、ドクドクとその勢いを増して行く。 何故だかかあっと頬が紅潮してくるのを感じて、ヒカルは薄ら笑みさえ浮かべて携帯電話を握り締めた。 ……否定してくれた。 このおかしな世界に迷い込んでから、友人も、母親でさえも自分を「ヒカル」だと思い込んで厳しい視線を向けて来た。ヒカルの変化に驚いたふうだった和谷たちでさえ、ヒカルが別人だとは思っていなかったようだった。 それが、電話で少し話しただけで。同じ声のはずのヒカルの言葉を読み取って、社は「ヒカルじゃない」と言ってくれた。 受話器越し、恐らく大坂の空の下に、初めてヒカルがこの世界のヒカルと別人だと断定してくれた人間がいた。 |