Maybe Tomorrow





 なぜ? 問いかけを言葉に出すことが躊躇われる。
 何故、彼は自分のために涙まで見せているのだろう。さっぱり分からない。先ほどの和谷の台詞と同じだ、なんのことか検討もつかない。
 アキラははっきりと戸惑いを表情に乗せ、恐る恐る口を開こうとした。和谷のように激昂されるならまだしも、こんなふうに声を殺して泣かれては下手なことが言えない。
 ところが、アキラよりも先に言葉を繋いだのは伊角だった。
「軽い打撲で済んだそうだよ。でも……なかなか目が覚めないからみんな心配していたんだ。もうすぐ先生が来るから、きちんと診てもらうといい。階段がそれほど高くなくてよかった。頭でも打っていたら大変なことになっていたかもしれない」
「階段?」
 不自然な単語にアキラは眉を潜める。――何の話だろう?
 いや、それよりも。何より聞きたいことがある。和谷は答えてくれなかったが、伊角なら。アキラは顔を引き締めて、改めて伊角に尋ねる。
「伊角さん、進藤は」
「……」
「進藤は……無事、なんです……か……」
 アキラの言葉が終わらないうちに、伊角の表情がみるみる強張っていく。そのあからさまな様子に、思わずアキラも語尾を弛めてしまう。
「……塔矢、お前……」
 伊角の厳しい表情がアキラを見据えたと思った直後、伊角はすぐにその眉を辛そうに垂らした。
「お前……、やっぱり、忘れることができないのか……」
「忘れる?」
 何の話です、と食らい付く前に、伊角はアキラから目を逸らしてしまった。
 重い空気が二人の間に流れて行く。
 何か言わなくては。アキラは必死で頭を整理しようと努めた。しかしまとまらない。分からないことばかりで、何から口にすべきか判断に迷う。
 いや、本当は何より聞きたいのは、ヒカルのことだけなのだ。それさえ分かれば、後はもうなんだっていい。ヒカルは、ヒカルは無事なのか。
「伊角さん、教えてください。進藤は、無事なんですか。それだけでいいから、お願いします。お願いです」
「塔矢……」
 悲し気に目を細める伊角の態度に、アキラはだんだん苛立ちを隠せなくなってきた。
 この男とこれ以上意味の分からない問答をする必要があるだろうか?
 いっそ、このベッドを抜け出して自ら彼を探しに行こうかと身を捩らせた時、ようやく伊角が
「進藤は、無事だよ」
 聞きたかった言葉を落としてくれた。
 アキラは深い安堵の息をついた。――無事だった。
 全身の緊張が緩み、胸を締め付けていた不安の影が薄らぐ。
 明らかに安心したアキラの様子を見たのか、伊角は少しの間黙っていたが、やがて聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟くようにアキラに告げた。
「……俺たちは、お前の決めたことに無理に反対するつもりはない。でも……これだけは分かっていてほしい。俺も、和谷も、芦原さんも、緒方さんも……みんな、お前が幸せになることを願っているんだ」
「え……?」
 伊角の口から飛び出した意味不明な言葉に、アキラの目が訝し気に歪んだ。
 それは、どういう意味ですか。そう尋ねる前に、病室のドアが開き、看護士を連れた白衣の男が入ってきた。伊角は医師に一礼し、よろしくお願いします、と病室を出て行く。
 アキラは何がなんだか分からないまま、医師の触診を受け、もう帰っても大丈夫ですよと告げられた。
 しかしアキラは、その後に信じられない事実を耳にしたのだ。

 ――棋院の階段から落ちたそうですね、もう一人の男の子と一緒に。
 その子? その子は目が覚めたのが早かったので、もう帰宅しましたよ。
 そう、進藤という子です。大きな外傷はなかったので、安心して良いですよ。



 これは……夢……?
 ボクは、車に轢かれて……長い、長い夢を見始めているのだろうか……