Maybe Tomorrow





 病院から連絡がいったのだろうか、程なくして迎えにきた芦原に支えられ、アキラは病室を後にすることとなった。
 痛むところはないか、無理するなよ、おんぶしてやろうか。およそ冗談とはかけはなれた口調でそんなことを言う芦原に、アキラは戸惑った。
「自分で歩けますから」
「本当に? 大丈夫?」
「大丈夫ですよ。痛みも歩けないほどじゃない」
「でも、無理するなよ。お前くらい背負えるぜ。おんぶしなくていいのか、おんぶ」
 おんぶおんぶと連発されて、さすがにアキラもうんざりしてくる。
 まるで腫れ物に触るがごとく、芦原は自分より背の小さなアキラに上目遣いで何かと世話を焼こうとする。
 ボクはもう十八歳ですよ。口に出しかけて、やめた。
 やはり何かが変だった。いつもの芦原ではない。

 病院の駐車場まで歩いて行くと、後ろから和谷と伊角が駆けてきた。
 やはり歩けるか、大丈夫かを連発される。アキラは苛々した様子をだんだん隠し切れず、「大丈夫ですから!」と思わず声を荒げてしまう。
 和谷、伊角、芦原、三人とも目を丸くして、口を半開きにした同じ顔で固まった。
 まるでスロットマシーンの絵柄が揃うがごとく鮮やかな様子に、アキラも声を失って彼らの様子を凝視する。
「塔矢……」
「塔矢が……」
「アキラが怒鳴るなんて……」
 呆然と呟く彼らを前に、アキラの混乱はすでに最高潮を振り切っていた。
 ――何かがおかしい。
 やはりこれは夢なのだろうか。古典的とは思いつつ、頬をつねってみたが痛いだけだ。目なんか覚めやしない。
 それにはっきりとした地面を踏み締める足の感触が、これは夢ではないとアキラを諭しているようだった。夢の中の覚束ない感覚とは違う。現実だが、何かが違う。
 混乱したままのアキラは芦原の車に押し込まれ、彼らに口々に「お前は疲れてる、早く休め」と余計なおせっかいの言葉を投げかけられ、心身共に疲弊しながら渋々シートベルトに手を伸ばしたのだった。
 何がなんだか分からない。
 芦原の運転する車の助手席で、流れる景色を追う。アキラは口を開かなかった。何か話すと、また酷い違和感に悩まされるだけのような気がしたのだ。
 迷いなくハンドルを切る芦原は、どうやらアキラの実家に向かっているようだ。
「芦原さん、ちょっとボクの家に寄ってくれませんか?」
 ヒカルのことが気になって、そう頼んだ。
 すでに病院を出たというヒカルが、どうしているかの情報は遂に聞きだせないままだ。
 無事だと分かって安堵したものの、顔を見るまでは心から安心できない。
 何より、周りの様子がおかしすぎる。和谷といい、伊角といい、今隣にいる芦原といい。
 そんなはずないと分かっていても、なんだか自分の知っている彼らとは違うような気がするのだ。
 とにかく、ヒカルに会って確かめたかった。
 自分たちは階段から落ちたのではない、子供を庇って車に接触したのだ。和谷が言う言葉の意味も理解できない。伊角の涙だってありえないものだ。
(だけど)
 だけど、もしも。
 ヒカルでさえ、自分の知っているヒカルではなかったら。
 ……その時は、本当にどうしたら良いのか分からない……
「何言ってんだアキラ、お前の家に向かってるよ」
 芦原の間の抜けた声がどうもしゃくに触る。
「向かっているのはボクの実家でしょ。マンションのことを言ってるんです」
「マンション? マンションって、誰の?」
「だから、ボクのマンションですよ」
 赤信号で車が停車中だったのは幸いだった。
 芦原は呆けた顔で、運転席に座っているというのに前を見ず、助手席のアキラを見つめてぽかんと魂の抜けた目を向けていた。そのあまりの抜けた表情にアキラがぎょっとするほど。
「……マンションなんて、お前いつ買ったの?」
「え? ……何言ってるんですか。芦原さんだって引越しの手伝いに……」
 言いかけたアキラは、頭の奥で何かが囁いた警告に口を噤む。
 ――待て、と。
 目の前の彼はやはり自分の知っている芦原ではない。
(いや)
 それだけではない、それでは何かが足りない。
(もしかして……逆、なのか……?)
 逆。
 逆とは、まさか。
 ――自分が、彼の知っている塔矢アキラではない……?
 アキラは一気に背中を滑り降りた血の感触に目眩を感じた。
「芦原さん……ボクは、塔矢アキラですよね……?」
 思わずそう尋ねずにはいられないほど、自分の存在が不安になっていた。
 目の前の人は確かに芦原と同じ姿形をしている。しかし何かが決定的に違う。
 彼だけではない、病院で目覚めてから見るもの聞くもの全てがおかしい。
 何よりヒカルがいない。
 ヒカルに会いたい。彼に会わなければ、どんな答えをもらってもこの胸の不安は拭えないと分かっていた。
「アキラ、お前頭でも打ったのか? あのヤブ医者、大丈夫だなんていい加減なこと言って……!」
 ハンドルに拳を叩き付ける芦原に、アキラは口唇を噛んだ。
 ――今のボクがおかしいのか?
 一瞬現実に飲み込まれそうになる。しかし精神力がそれを拒否した。
 ――いや、そんなはずはない。
 意識ははっきりしている。ここ一週間の食事のメニューだって覚えているのだ、今の自分のほうがおかしいはずはない。
「芦原さん、ボクは大丈夫です。ただ、ちょっと混乱してて」
「本当に大丈夫か? お前は昔から我慢ばっかりしてるから」
「ボクが我慢を?」
「そうだよ。お前、怪我しても病気になっても誰にも何にも言わないじゃないか。誰かにひどいことされてもじっと一人で耐えてたじゃないか。俺たちがいるんだ、もっと頼ってくれ。俺たちはみんなお前の味方なんだから」
 ――俺も、和谷も、芦原さんも、緒方さんも……みんな、お前が幸せになることを願っているんだ……
 伊角の言葉が脳裏に蘇る。
 アキラは目を閉じ、そして自分を信じた。
 こうなったら、とことんこの状況を分析するしかない。
「心配してくれてありがとう、芦原さん。でもボクはもう十八歳です。プロの棋士だ。みんなに助けられてばかりでは前に進めません」
 芦原の表情がみるみる驚愕を表し、すぐに泣き出しそうにぐしゃりと崩れたのを見て、アキラも引きつったような笑いしか返すことができない。
「アキラぁ……、お前、大人になったんだなあ……」
「い、嫌だな芦原さん……泣かないでくださいよ」
「そうだよなあ、お前ももうプロなんだもんなあ。この前三段に昇段して、みんなでお祝いやったばっかりだもんなあ」
「三段!?」
 突然目を剥いて叫んだアキラに、芦原の丸くて大きな目から涙が引っ込んでしまったようだ。
 しかしアキラはそんな間抜けな芦原の表情をいちいち観察する余裕はなかった。
「……三段って、どういうことですか」
「どういうこともなにも……、お前、昇段しただろ? 念願の昇段だぞ。忘れたのか?」
 念願の昇段だと? ――思わず低い声を出しそうになるのを堪えるのが辛い。
 自分はつい先月名人のタイトルを獲得したばかりだ。他でもない、芦原にとっても兄弟子である緒方からそのタイトルを奪った。芦原はどっちを応援したらいいのか分からない、なんて言いながらも、軍配の上がったアキラに対して手放しで喜んでくれたのだ。
 それなのに、未だ三段という低い数字が飛び出そうとは。十八歳という年齢に芦原は何ら疑問を持っていない。十八歳で三段。通常のプロ棋士なら順当の数かもしれない、しかし自分は塔矢アキラである。
「芦原さん……、ボクは、いくつでプロになったんでしたっけ……」
「アキラがか? おい、本当に大丈夫か? しっかりしろよ、十三の時にプロ試験合格したじゃないか。ギリギリで最終戦の不戦敗もらって、運も実力のうちって俺が励ましたの覚えてないのか?」
 十三で合格して未だに三段?
 ギリギリで不戦敗?
 運も実力のうち!?
 アキラはガンガンこめかみを叩く酷い頭痛に顔を顰める。
 ――やはり、おかしい。
 ここは自分の知っている世界ではない――認めたくはないが、そう思わざるを得なかった。
 彼らは自分の知っている彼らとは違い、自分もまた、彼らの知っている塔矢アキラではないのだと。
 認めざるを得なかった。