『声が似てるから騙されたわ。お前誰や? ヒカルの携帯で何しとる』 「俺が……違うって、分かるのか……?」 『当たり前やろ! 今のヒカルが囲碁の話なんてするはずがないんや。お前ほんまに誰や。そっくりな声しよって』 ヒカルは微かに震える指に力を込め、改めて携帯電話を握り締める。 囲碁の話なんてするはずがない――社は今そう言った。 社は何か知っている。ヒカルは今まで自分に関して得られなかった情報の糸口を、初めて社から得たような気がした。 『おい、答えんかい! お前は、誰や』 「……俺は……」 ヒカルは一旦言葉を区切り、それから大きく息を吸い込んで、吐き出すと共に肩の力を抜いた。 いい問いかけだぜ、社。そんなふうに笑ってやりたくなる。 「俺は、進藤ヒカルだ」 『嘘つけ!』 間髪入れずに帰って来た怒鳴り声に、ヒカルは苦笑した。 「嘘じゃねえよ。俺は進藤ヒカルなんだって」 『まだ言うか! ヒカルから囲碁の話を俺に持ちかけるなんてありえへん!』 「嘘じゃねえけど……、お前の知ってる進藤ヒカルとはちょっと違う」 『……は?』 「どうも俺、こっちの進藤ヒカルの身体を乗っ取ってるみたいなんだ」 『な、何言うとんのや? お前、頭おかしいんか? 変質者?』 失敬な奴だと、ヒカルは笑った。 なんだか身体がむずむずしてきた。社は自分をヒカルじゃないと信じて疑っていない。そのことがこんなに嬉しいなんて! じっとしていられない。こんな、間怠っこしい電話でのやりとりではもう我慢できない。 「なあ、社、お前今大阪? 家?」 『……そうやけど、それよりもお前は――』 「もういいって! 俺はヒカル! その証拠を見せるよ。俺、今からそっちまで行くから、お前大阪駅まで迎えにきてくれ」 『はあ!? な、なんで俺が……』 「知りたいだろ? 俺の声、進藤ヒカルだって分かるだろ? でも俺はお前の知ってるヒカルじゃないんだよ。こんなめんどくさい説明なんかより、見たら俺の言ってる意味が分かるから! 待ってろ、塔矢も連れて行く!」 受話器越しでも、はっきりと息を飲む音がヒカルの耳に届いた。 『と……うやも……?』 「ああ」 酷く躊躇いを見せる社の問いかけにも、ヒカルは力強く頷いた。 今、遠く離れた空の下で社はどんな顔をしているのだろう。塔矢、と名前を出した途端にまた色を変えた社の声の続きを、ヒカルは辛抱強く待った。 『塔矢も……、ヒカルと、塔矢が一緒に……?』 「……そうだよ」 『お前……、ほんまに誰なんや……』 社は夢見がちに呟いて、深い吐息をヒカルの携帯に届けた。 『やっぱり……嘘や……。ヒカルと、塔矢が一緒になんて……そんなの……』 戸惑う社の声を受け止め、ヒカルは目を閉じる。そうして口元を僅かに緩めた。 ……俺らって、こっちの世界でもお前にメーワクかけちゃうんだなあ…… そんなことをひっそり思いながら、ヒカルは新たに生まれた希望を静まらない鼓動に委ねた。 知りたい。この世界の訳を。 知りたい。ヒカルとアキラが、こんなふうになってしまった訳を。 社なら、きっと助けになってくれる。ヒカルは暖かな確信を感じて、挨拶もそこそこに通話を切った。 出かける準備はすでに整っていたので、ヒカルはそのままアパートを飛び出した。 目覚めた時のどんよりとした身体の重さは、今はなくなっていた。シャワーを浴びたせいだろうか。それとも…… (……この身体に慣れたから?) それは奇妙な感覚だった。 なんだか、目が覚めた直後は、自分の身体がまるで借りもののような、そんな違和感があった。 着慣れない服を着たみたいに、窮屈で居心地が悪かった。 (嫌な予感がする) 全てを急がなくてはならないような気がした。 早くアキラに会って、早く社に会って、今まで知らなかったことを少しずつ紐解いていって……、 それから……、それから……? (それからどうしたらいい?) ――それはその時に考えればいい―― ヒカルは塔矢邸への道のりを急ぐ。 相変わらずの立派な門構え、ヒカルは恐る恐る玄関のチャイムを押した。 アキラの母が出て来たら、少し気まずいなと思う。昨日……、いや日付け的にはすでに三日前になるが、あれだけ大騒ぎした元凶が自分にあるのだから。 突然門前払いされてしまったらどうしよう。ヒカルがびくつきながら玄関で背中を丸めて立っていると、引き戸を開いて出て来たのは…… 「塔矢!」 アキラだった。思わず顔を満開に綻ばせたヒカルを前に、アキラは驚いた顔をしながら、ふっと優しく目を細めてくれた。 「進藤、来てくれたのか」 「うん、急にゴメン。今から出かけられる?」 「今から?」 「うん、今から」 アキラは少し考え込む仕種を見せて、しかしそれはほんの僅かな間で、すぐに頷いてくれた。 「分かった。支度するから、入って」 アキラに促されて、ヒカルはお邪魔しますと玄関の中に入り込んだ。 「連絡をくれれば準備して待っていたのに」 財布や携帯電話をジャケットのポケットに突っ込みながら、そう言ったアキラの言葉にヒカルは曖昧な笑みを返した。その表情が気になったのか、アキラが少し眉を寄せる。 「うーん……、連絡、したくてもできなかった」 「え?」 「……お前の携帯番号、消された」 アキラの目がひと回り大きくなる。 「消された……って、誰に」 アキラの問いにうまく答えられず、ヒカルは苦笑する。 部屋にあった様々なキーワード。それらを繋げて行けば、自ずと答えは出るような気がするが、はっきりした結論を出すのが怖かった。 「……俺、さ。この前、この家を出てから……それから今まで……記憶がないんだ」 本当は蔵に行った後だから、僅かな嘘はついてしまったが。それでもおおむね本当のことだ。 この三日間、何も覚えていない。目が覚めた後の身体の違和感。自分と違うニオイの残るあの部屋。確かに、誰かが生活していた痕跡。 それはつまり…… ヒカルは口唇を噛む。その後を続けることが躊躇われる。 ふと、アキラが何も言わないことを不審に思い、ヒカルは顔を上げた。アキラはヒカルを見つめたまま、少し強張らせた表情を動かさずにじっと立ち尽くしていた。 「……塔矢……?」 ヒカルの声に、ぴくりとアキラの眉が動く。 アキラは少しはっとして、何だか気忙しく視線を彷徨わせてから、何かを決意したようにふっと息を吐き出した。 「……記憶がないって?」 「……、ああ……」 「……ボクもだ」 今度はヒカルが目を見開く番だった。 二人は硬い表情に緊張を走らせて、しばし何も言えずにお互いを見つめていた。 |