Maybe Tomorrow







「理由聞いても笑ってはぐらかすだけで、教えてくれへん。分かったのは、アイツがほんまに突然碁にハマり始めたっちゅうことだけや」
 どこか懐かしむような目でぼんやりと語る社の話を、ヒカルは真剣な表情で聞いていた。
 隣のアキラもまた、少し険しい眼差しながらじっと社の話に耳を傾けている。
 社は時折目を細めて、遠い昔に記憶を馳せているのだろうか。




 ***




 ――キヨハル! 俺、碁やり始めたぜ!

「なんやねん、俺がなんべん言ってもやらへん言うてたくせに! なんでいきなりやる気になったんや?」
『へへ、ちょっとな。それでさ、碁会所ってとこ行って、子供と打ったんだ。お前、知ってる? 塔矢アキラって!』




 ***




「……それがヒカルと塔矢の最初の出会いやと思う」
 ヒカルは眩しいものを見るように瞼を狭め、眉をぴくりと揺らした。
 アキラにちらりと横目を向けると、アキラは静かに目を伏せていた。穏やかなその様子は、かつての自分達と同じ巡り会いの場面を頭に思い描いているのだろうか?
 蘇るかつての日々。佐為がヒカルの身体に宿ったあの時から、ヒカルの運命は変わった。
 佐為にせがまれて気まぐれに打った一局。――そうとは知らず、ヒカルを追って来たアキラ。
 あの運命的な出逢いがなければ、今の二人がここにこうして並んでいることはなかったかもしれない。
 社に見えないテーブルの下で、二人はそっと指を絡めた。温かい店内で、暖かい指が触れあい、気持ちがじんわり解れていくのが分かる。
 二人でいれば、何があっても大丈夫。――これまで、何度も呪文みたいにお互いの心で確信してきた言葉。
 その気持ちは、今も変わらない。
「驚いたで。塔矢アキラっつうと、あの塔矢名人の息子やないか。俺も名前くらいは知っとった。まあ、塔矢は棋力はいまいちやったから、あんまり大会とかで名前は売れてへんかったけどな。」
 社の言葉にぎょっとしたヒカルは、思わずアキラに顔を向けた。
 アキラの頬が薄ら赤く染まっている。一瞬眉間に深く刻まれた皺を見のがさなかったヒカルは、アキラが何か不平を言い出すのでは無いかと心配そうに見張るが、アキラは黙って話の続きを聞くつもりのようだった。
 ほっとしつつも、少し悔しくなる。
 アキラ相手に「棋力がいまいち」だなんて、冗談にしても笑えない。
「その塔矢名人の息子と、一局打って友達になったって言うんや。それまで碁になーんの興味もなかったヒカルが、なんでやろって思ったけど。俺の予想に反して、飽きっぽいアイツが碁に夢中になってたみたいやし。おまけに誰に習ってるか知らんけど、めきめき強なってくし。俺がたまに東京遊びに行く時、塔矢も一緒に三人で打ったりしたんや。互い戦やると一人必ずあぶれるから、もう毎回早碁やで。……楽しかったわ」
 社の口元が優し気に綻んだ。
 ヒカルもアキラも、自分達の知る現実とは違う、子供の頃の三人を想像して、少し表情を緩めた。
 今までの世界ではあり得なかった光景。きっと、この世界で小学生だった自分達は、先のことなんて考えずにころころと笑っていたのだろう。
 身体こそ大きくなったけれど、北斗杯の合宿のような光景だったのだろうか――ヒカルはそんなことを考えていた。
 ……友達、だなんて。初めてアキラと出逢った時に、そんな関係になる余裕すらなかった……。
 お互いに追い、追われて、認めあった今ではかけがえのない唯一の存在になっていた。
「それから、塔矢がプロんなって、俺も関西棋院でプロんなって、一年遅れてヒカルもプロんなって。俺らはそれぞれの場所でそれぞれ頑張ってた。たまに連絡取り合ったりしてな。せやけど……、ヒカルがプロになって半年くらい経った頃……、ヒカル、急に手合いサボり始めたんや」
「!」
 ヒカルもアキラも、傍目にも分かるように身体を強張らせて社を見た。
 そのあからさまな様子に、社も怪訝そうに眉を寄せるのが分かる。
「……、なんや?」
 首を傾げる社にヒカルは咄嗟の一言が出ず、代わりにアキラが軽く首を横に振る。
「いや、何でもない。続けてくれ」
 ヒカルは飲み込んでしまった呼吸を宥めようと、なるべくゆっくり息を吐き出す。
 覚えのある時期の、長く続いた不戦敗。
 アキラがそのことについて社に深く追求しないことが、ヒカルにとっての救いだった。
 社はまだ落ち着かなく視線を巡らせるヒカルを不思議そうに見ていたが、やがて表情を戻して更に声を一段低くし、辛い記憶を呼び起こすかのように目を細めて口を開いた。
「電話しても出えへん。塔矢も事情を知らん言うてる。俺もそれなりに忙しくて、直接ヒカルを捕まえられれば良かったんやけど……それも出来ず仕舞いで、ヒカルの不戦敗が続いたある日……俺の携帯に、塔矢から電話が来たんや……」





 ***




 ――社! 頼む、知っていたら教えてくれ……!


「なんやて? ヒカルのじいさん家?」
『ああ、今すぐ知りたいんだ。知っているなら教えてくれ。頼む、急いでるんだ……』
「なんや急に、焦った声出して。アイツのじいさん家に何かあるんか?」
『確証はないけど、進藤はきっとそこにいる。……以前、彼の口から聞いた……進藤はきっとそこにいる!』
「な、なんやよう分からんけど落ち着け。俺かて住所説明できるほどしっかり覚えとらんわ。ガキの頃一、二回遊びに連れてってもらっただけやさかい、おぼろげにしか……」
『なんでもいい、何でもいいから教えてくれ! ……間に合わない……!』




 ***





「無茶苦茶切羽詰まった声して、あんな余裕ない塔矢初めてやったわ。俺の知っとる塔矢は、どっちかっつうとぽーっとして鈍臭いイメージやったんやけど……」
 社はそう言いながら、ちらりと目の前のアキラに上目遣いを寄越した。
「……案外、そうでもないんかな」
「どういう意味だ」
 むっと目を据わらせたアキラの腕をヒカルが強く引く。
「もう、そんなのはどうでもいいから、その電話の後どうなったんだよ」
 焦れて続きを促すヒカルに、社はああ、と頷く。
「そん時、俺の覚えてる範囲でヒカルのじいさん家を教えてやったんや。確かお前んとこの実家から近かったやろ? 俺、ガキの頃にヒカルと一緒に庭で遊んで、盆栽倒して怒られたことあるねん」
「盆栽はいいから、それで?」
 話が横道に逸れるのを許さないヒカルに社は肩を竦め、再び真顔に戻ってきっと口唇を引き締めた。
 何か、覚悟を決めたような顔だった。
 ヒカルとアキラも思わず身構える。社が何か大事なことを言おうとしているのは、その真直ぐながらどこか躊躇いの色がちらつく目を見れば明らかだった。
「それでな……。その数時間後、また塔矢から電話が来た」
 社はちらりとヒカルを見て、それから視線をテーブルに落とす。
「……ヒカルが……手首切った……って」
 言葉を失ったヒカルは、顔を強張らせて――身体の一部がずくりとうねるような違和感を感じ、ゆっくり、ゆっくりと黒目を動かして自分の左手首を見下ろした。
 深く傷つけられただろう過去の傷痕。
 思わず手首を右手で押さえ付ける。……とうに塞がっているはずの傷が疼いた気がした。