――塔矢、おい塔矢! 「おい、落ち着いて話せ。ヒカルが……ヒカルがなんやて!?」 『進藤が……手首を切った。頼む社、今からこっちに来られないか? ボク一人では……』 「今から……って、阿呆、新幹線飛び乗っても三時間はかかるで!? お前、手首って、病院は!」 『……病院はダメだ。騒ぎになると、彼の棋士生命に関わる。止血は終えた。今から彼の自宅に運ぶ。幸い御両親は留守にしているらしい』 「塔矢、お前の言ってることがさっぱり分からへん! 頼む、俺に分かるように説明してくれ!」 『だったら急いで来い! ……ボクでは、彼の心のケアまではできない……』 酷く早口で一方的な説明はそれで途切れた。 切れた携帯電話を手にしながら、呆然と空っぽになりかける心を必死で奮い立たせ、社は震える足で支度を始める。 適当な金があれば、東京まで行くのは容易い。幸い今日の仕事はすでに終えている。 行かなくては。頭では分かっているのに、身体がうまく動かない。 (……塔矢は何を言ってた?) ――ヒカルが手首を切った。 (それって……まさか……) 焦りの隠せない口調で告げられた言葉の端々が、何かのキーワードのように思考をひらひらと巡る。 ……病院はダメ……棋士生命……止血…… (落ち着け、落ち着け俺!) 今分かるのは、自分は東京へ、ヒカルの元へ行かなければならないのだと言うこと。 ……その他は考えないようにしよう。 社は乾いた口唇を何度も舐めて、僅かな荷物を背負って家を飛び出した。 アキラに告げた時間より一時間遅い四時間後、社は降り出した小雨に髪を濡らしたままヒカルの自宅へと辿り着いた。 ここまで来る途中、何度もヒカルとアキラの携帯に電話を入れた。しかし二人とも全く出る気配がない。 焦りだけが、胸の中を鬱陶しく這い回っている。 チャイムを押そうとした右手の人さし指が震えている。ここに来るまで、余計なことを一切考えないように努めたが、それでも限度がある。 右手首を左手で握り締め、突き出した人さし指で強くチャイムを押し込んだ。ドア越し、室内にチャイムの音が響いているのが分かる。 やがて、中から鍵の外れる音がして、青白い顔をしたアキラがドアの隙間から現れた。 「……よく来てくれた」 「塔矢……。ヒカルは……?」 「彼の部屋だ。さっき、目を覚ました」 曇った目を伏せがちに、アキラは淡々と答える。 その冷静な様子に、社の胸がむかむかと渦を巻き始める。 「……お前、なんでそんな落ち着いてる」 「落ち着けと言ったのはキミだ」 「阿呆! お前、ヒカルが何したか分かって言っとんのか!」 社が声を荒げると、アキラは伏せていた目を長身の社に合わせて見上げ、微かに眉を顰めた。 その、蒼白と表現してもいいような、透き通る程白い頬の色に社ははっとする。 「……彼に会ってやってくれ。キミなら彼も安心するだろう……」 「……どういう意味や……」 「別に。ボクはこれで帰るから」 「帰るって、おい、塔矢!」 玄関での押し問答を嫌ってか、アキラはドアの前で突っ立ったままの社の横をすり抜け、代わりに社を玄関の中へと押し込んだ。 ドアが閉まる寸前、隙間から見えた無表情に近いアキラの青い顔―― 社はしばらく誰もいない玄関で立ち尽くし、それから思い出したように靴を脱いで、上がり込んだヒカルの家の階段を駆け上がった。 「ヒカル!」 ノックもせずに開いたヒカルの部屋のドア。 社は、見慣れたヒカルの部屋の中、ベッドに上半身を起こして立てた片足の膝の上に肘を置いた、ヒカルの姿を認めてほっと息をつく。 投げ出されたヒカルの左手首に、過剰なほどの包帯が巻かれている。曇った空のせいで部屋は薄暗く、ヒカルの顔色も同じように影を落として見えるが、こうして起きていられるということはもう身体に心配はないのだろう。 発見が早かったからか、傷が浅かったからか。 どちらにせよ、ヒカルが自ら自分の手首を傷つけた事実に変わりは無い。 「ヒカル……」 社は情けなく眉を垂らして、よろよろと覚束ない足取りのままヒカルの傍へと近付いた。 ヒカルは社の声にも反応せず、髪の毛一本揺らさない。ただ、時折不規則に瞬きをする瞳のおかげで、社はヒカルが生きていることを確信できた。 「ヒカル、お前……」 ベッドの傍らに膝をついた社がヒカルを見上げると、ようやくヒカルは僅かに視線を社へと向けた。 一枚壁を隔てた、ガラス玉のような黒い瞳。 その暖かさの見られない色に、社は息を飲む。 「……塔矢は」 ぼそりと呟いたヒカルの声は、寒気がするほど暗かった。 社は一瞬躊躇って、「帰った……」と答える。 ヒカルは再び視線を社から外し、どこを見るでもなくぼんやりと彷徨わせる。 「そうか……」 その時、ため息ともつかない相槌が漏れたヒカルの口唇がきつく結ばれた瞬間、社はヒカルが全ての感情を閉ざしたのを見たような気がした。 何も映さない瞳。傍にいる、社の存在も、今はヒカルの世界には存在しない。 それからヒカルの生活は荒れた。 突然家を出て一人で暮らすアパートを借り、手合いだけではない、棋院から依頼された仕事も勝手に休むような日々が続いた。 社が時折電話すると出るには出てくれるが、乾いた声には以前に比べて極端に抑揚がなくなっていた。 ヒカルのアパートを訪ねてみれば、ビールの缶が転がり、灰皿にはいつも吸い殻が溜まっている。 まるで別人のようだと、ヒカルに対する中傷は関西棋院にまで響いて来た。 ヒカルが自殺を謀ったという噂はどこからも聞こえてこなかった。 社は誰にも話していない。アキラもまた、誰にも告げていないのだろう。 あの日のことを知っているのは、社と、アキラだけ。 アキラの言葉が頭を巡る。――「彼の棋士生命に関わる。」 それがなんだと、社は胸を詰まらせて髪を掻き毟る。 ヒカルの祖父の家で、アキラはヒカルを見つけたのだろう。そこから病院にすら運ばず、素人の手当てだけを施して、後の事を社に任せて立ち去るとは一体どういう了見なのだろう。 友達じゃなかったのか。何故ヒカルがあんなことをしたのか、相談にのってやれなかったのか。憤りをぶつけたくても、あれから社はアキラと個人的に連絡をとることができなくなっていた。 アキラの携帯に電話が繋がらなくなった。着信を拒否されているのだと気付いた時、心が空っぽになったような気がした。日本棋院での手合いの成績を見ると、不戦敗だらけのヒカルに続き、アキラの不調もはなはだしくなっている。 二人に何かあったのは間違い無い。そう思って、ヒカルにそれとなくアキラの話題を持ちかけようとすると、冷えた目で射抜かれて黙らざるを得なくなる。 ヒカルは、アキラと、囲碁に関する全ての話題を拒否していた。 かつては競いあって碁を楽しんでいた三人が、理由の分からないきっかけでバラバラに離れ、そして再び顔を合わせることになったのは、ヒカルの自殺騒動から一年近くも経った北斗杯の予選会場である日本棋院でだった。 |