Maybe Tomorrow







 手合いをサボり続けていたヒカルが、突然予選に参加するために棋院へ直談判したというのはちょっとした噂になった。
 それまでの素行があまりにも目に余るため、棋院側は国際棋戦の、たとえ予選ですらヒカルを参加させるのは如何なものかと随分渋ったらしい。
 長い検討の末、最終的にヒカルは参加を許可された。……社は今でも、アキラが影で口添えをしたのではないかと思っている。事実の程は分からないままだけれど。
 そうして、アキラ、社と共に北斗杯の出場権利を得た。
 それなりに定評のあった社はともかく、普段あまり成績の芳しく無い二人が勝ち上がったのは、何か裏で工作があったのではと口汚いことを言う連中もいた。
 しかし、社は予選での二人の碁を見ていた。
 地味ながら確かな碁を打っていたアキラ。基礎のしっかりした揺るぎない碁は、それまでの不安定なアキラの評価とは違い、彼の隠れていた本当の力が顔を出していたようだった。
 そして、神がかったように相手の手を全て読み切り、一刀両断するヒカルの碁の鮮やかさ。誰も見たことのない強気の打ち回しに、対局相手が戦意を喪失するほど。
 人々は目を見張り、手合いをサボり続けてたヒカルがこんな碁を打つことができるという事実に驚嘆していた。
 社も知らない二人がそこにいた。


 北斗杯本戦、相変わらずヒカルとアキラは、いや、アキラは社とさえも口を聞かない。
 チームワークは最悪だった。
 初日の中国戦、苦戦しつつもなんとか三勝をもぎ取り、翌日の韓国戦で、突然ヒカルが大将を申し出た。
 中国戦では社が大将を任されていた。アキラが副将、棋院の上層部に良い印象のないヒカルは三将だったが、その時は黙ってその位置を受け入れたヒカルが、韓国戦では社が驚くほど大将に固執した。
 日本チームの団長だった倉田の反対を、今にも憤死しそうな勢いで押し切ったヒカルは、まるで何かに取り憑かれたような目をしていた。
 韓国チームの大将は高永夏。すでにトップ棋士の仲間入りを果たしているアジアでも有名な選手だった。
 社は、あの時のヒカルの剣幕を見て、ヒカルが無理に北斗杯へ出て来たのは彼と戦うためではないか、とぼんやり考えたことがある。
 その理由は分からないが、そう思ってもおかしくないほどヒカルは高永夏との対局に執着していた。
 そしてヒカルが、高永夏との大将戦に半目で破れた時、全てを失ったような脱力の表情を見せ、その様子を少し離れたところで見ていたアキラもまた同じような表情をしていたのを、社は今も覚えている。




 ***




「……これが、俺の知ってるほとんど全部や。俺もこっちでそれなりに忙しくしとるさかい、たまにヒカルに連絡とるくらいでいっぱいいっぱいや。正直……あいつらに何があったか俺には分からん。ヒカルがなんであんな無茶なことしたのかも」
 思いつめた表情で昔語りを締めくくった社は、ふうと大きな息をついてテーブルに両肘をつき、垂れた手の甲に額を乗せた。
 ヒカルは眉を顰め、悲し気に目を細める。
 社にとって、辛いことを思い出させてしまったかもしれない。
 ヒカルとアキラの知る世界での過去に、僅かに触れていながら全く違う二人の歴史。
 社の話通りなら、もう四年も前の古傷のはずなのに、ヒカルは今感じている左手首の疼きを気のせいだと笑い飛ばすことができなかった。
(――何故、こんな傷をつけた?)
 祖父の蔵で見た碁盤を思い出す。
 佐為が宿っていた頃とは違う、新しい血の跡。表面にこびりついたあのどす黒い赤は、恐らくこの手首から流れたもの。
 この世界にもきっと佐為がいたのだ。そして自分と同じタイミングで失った。
 佐為が消えた後、「ヒカル」の心の何かが壊れて、あんなことをしてしまったのだろうか……
(じゃあ、何故塔矢と離れたんだ?)
 ヒカルを助けたというアキラ。社が来るまでの間に、何があったのだろう。
 その日から二人の関係が壊れ、ヒカルは荒れ、アキラは口を噤み、しかし他人の知らないところで二人は繋がっていた。
 アキラはヒカルを好きだったはずだ。そしてヒカルもきっとアキラを。
 それがどうしてここまでこじれてしまったのだろうか?
(……分かんねえ……)
 恐らく、北斗杯での一件は例の高永夏の秀作に対する暴言のせいだろう。
 当時のヒカルは北斗杯への出場権利を手に入れてからその話を聞いたが、こちらのヒカルは予選前にどこからか耳に入れたのかもしれない。
 そして、佐為の代わりに打って……破れた。
(佐為が消えたせいで俺がおかしくなったのは分かる。永夏に突っかかる理由も。でも、何故塔矢まで?)
 ヒカルが手首を切った後に、ヒカルとアキラの二人だけのやりとりがあったはずだ。
 それを、知りたい。
 どんな言葉を交わして、どんな目で見つめあったのか。
 ……知りたい。
「……どや。なんか参考になったか」
 気付けば、すでに顔を上げていた社が、苦笑いのような笑みを浮かべてヒカルとアキラを見ていた。
 恐らく渋い表情をしていただろう、想像の世界に没頭しかけていたヒカルがすぐに反応できずにいると、先程と同じくアキラが代わりに社に礼を言っていた。
「ああ、ありがとう。いろいろ聞くことができて感謝している」
「役に立ったんなら良かったわ。……随分長居したな。そろそろ出よか」
 社が時計をちらりと見て言った。気付けば、このファミリーレストランに入ってからゆうに二時間は経過している。
 二人も同意して、慌ただしくレストランを後にすることとなった。



「……で、これからどうするんや、お前ら。」
 レストランを出たところで社に尋ねられ、ヒカルもアキラも言葉に詰まる。
 正直なところ、考え無しにここまで来てしまった。もう終電もない時間だ。
 言葉通り、どうしたものかと二人で睨み合っていると、社が思わぬ提案をしてくれた。
「行くとこないなら、うちに泊まるか?」
「え?」
「いいの?」
 ほとんど間髪入れずに聞き返した二人に、社が苦笑する。
「ああ、まあ狭いとこやけどな。男二人くらい何とか寝れるやろ」
「って、社一人暮らしなのか?」
 ヒカルの質問に、社は不思議そうに頷いた。
「今年からな。なんや、そっちの俺は違うんか?」
「うーん、あいつ親に反対されてるから、意地でも家出ないって頑張ってるよ。碁で有名になって見返してやるって」
 それを聞いて、社は大口に白い歯を覗かせて笑った。
「なかなか根性あるやん!」
 ヒカルとアキラも微笑む。
 豪快な笑い方、二人をすんなり受け入れてくれた社は、自分達の知っている社と何ら違いがないように思えて来た。
 でも、今ここにいる自分たちは、彼が親しくしていた「ヒカル」と「アキラ」ではない。
 その事実が重くて、切なかった。
「よし、そうと決まったら俺ん家行くで。お前らも碁打ちやろ? せっかくや、一局打ってけ」
「マジ!? やったあ、俺しばらく碁石触ってなくてうずうずしてたんだよ〜!」
 威勢良く二人を誘導する社の後を、ヒカルは喜びに両手を上げてついていく。その後ろを、肩を竦めて苦笑しているアキラがついてくる。
 ヒカルは笑いながら、頭のどこかで先ほどの社の話を整理しようとしている自分を感じていた。
 仲が良かったはずのヒカルとアキラ。佐為を通じて碁に触れ、その佐為が消え、ヒカルは手首を切り、アキラとの間に何かが起こった。
 それが分かれば、きっと――
(……何か、変わるのかもしれない)
 左手首が疼く。






また苦しい時の社頼みにしてしまいました。
社ホントこき使い過ぎでごめん……
しかもこれだけ話使ってほとんど進んでいない!
牛歩小説まだもうちょっと続きます……
(2007.01.27/28〜36UP)