Maybe Tomorrow







「……マケマシタ……」
 驚愕に目を見開き、口唇をワナワナと震わせて、消え入りそうな声で社は呟いた。両膝を掴む指先は力が入って白くなっており、怒り肩がかえって社の大きな身体を小さく見せている。
「聞こえないね。もっと大きな声で言ってもらおうか」
「〜〜〜、負けました! 満足かっ!」
 ぎりりと歯軋りする社に、アキラは軽く背を反らせて婉然と笑みを浮かべた。
 二人が囲む碁盤の行方を傍らでじっと見守っていたヒカルは、社に同情の目を向けてため息をつく。
「だから、こいつはあっちの世界じゃ名人様なんだってば。絶対根に持ってるんだぜ、お前が棋力はいまいちなんて言うから」
 社の部屋に着いてからというもの、ヒカルに有無を言わせず社を捕まえて碁盤に向かったアキラは、容赦なく社を打ちのめした。普段のアキラの碁をよく知っているヒカルが呆気に取られるほどだったから、社にとってはたまったものではないだろう。
 社は碁盤の上の石をぐしゃりと崩して顔をぐしゃぐしゃに顰めた。
「あ〜〜、悔しい〜〜!! 俺が塔矢に負けるなんて〜! もう一局、もう一局やっ!」
「おい、いい加減俺とも打てよ! 塔矢ばっかりずるいじゃん!」
 アキラに食い下がる社に対して、それまで蚊屋の外だったヒカルがここぞとばかりに立ち上がった。
 やかましい二人を遠巻きに眺め、アキラはようやく腹の虫が収まったというように優雅に肩を竦めて、今し方座っていた場所をヒカルに譲ってやった。
 ヒカルは喜んで碁盤を挟んだ社の向かいに座り、いそいそとニギろうとしている。
「お願いしま〜す!」
「おし、ヒカルには負けへんで! お願いします!」
 そうして腕まくりをしてヒカルと社は対局を始めた。
 気合い充分のヒカルと社に苦笑しつつ、アキラはふっと肩の力を緩めて少しだけ足を崩す。
 二人の様子を傍らで見守りながら、目だけは盤上に向けているものの、アキラの心が僅かに違うことを考えようと黒と白の世界から逸れ始める。
 社の話が頭の中で何度も繰り返される。
 小さな頃、何の疑問もなく共に遊んでいた自分たちが、ある日を境におかしくなってしまった。
 何があったのかは、「ヒカル」と「アキラ」だけが知るのみ……
(社には辛い話をさせたかもしれないな)
 今はこうして明るい表情で自分達につき合ってくれているが、姿格好は同じなれど、彼が親しくしていた二人とは確かに違う自分達を目の当たりにするのは複雑な気持ちだっただろう。
 しかし、社の話を聞くことができたのは良かったと思う。
 強引なヒカルの行動が多少不安だったが、ここに乗り込んできたのはきっと正解だったのだ。
 何しろ、先程聞いた話は社でなければ分からないものだったのだから。
 社の話を整理すると――
 全ての発端は、やはりヒカルが突然手合いに出なくなったことにあるようだ。
 ヒカルは隠そうとしていたが、その話が出た時明らかに動揺していた。
 今回だけではない、こちらの世界に来てから何度かこの話題に触れることがあったが、ヒカルは決してその原因をアキラに話そうとはしていない。
 ――何故手合いに出なくなったのか、その理由が分かればもう少し真実に近付けるかもしれないのに――
(……)
 アキラはふっと小さなため息をつき、苦い笑みを浮かべた。
 ――やめよう。
 言いたくないのは何か訳があるはずだ。
 ならば無理に聞き出すようなことはすまい。
 かつて聞いた『いつか』が、訪れる時をじっと待てばいい。
(……無条件で人を信じられるというのは、幸せなことだったんだな……)
 つくづく、この世界に一人で放り出されたのではなくて良かったと実感する。
 アキラはヒカルの強さを信じられる。ヒカルもまた、アキラを信じているから強いままでいられるのかもしれない。――それが当たり前だと思っていたなんて、自分たちがいかに恵まれているかをこうまで思い知らされるとは。
 恐らく、自分達がやってきたのはこちらの二人にとって精神がピークに達する頃だろう。それは偶然だったのか必然だったのか分からないけれど、自分一人ではどうにもならない状況だったのは間違いない。
 それにしても、とアキラはぎゃあぎゃあ喚きながら対局を進めるヒカルと社を見つめながら僅かに表情を険しくした。
 一体、タイムリミットはあとどのくらいなのだろう。
 ヒカルもアキラも、身体から今の心が離れたことが紛れもない事実と分かった今、この世界にいつまでもいられる訳ではないことも予想できる。
 本来の持ち主から押し出された後はどうなるのか……元の世界に戻れるだけならいいが、この心の行き場が何処にもないのだとしたら?
 考えたくはないが、いよいよ考えておかなければならないのかもしれない。
 残された時間がどれだけあるのかは分からないが、その中で自分達ができること。
「ぐああああ、負けました!」
「おっしゃー! 勝った〜! 社に勝った〜!」
「納得いかーん! もう一局やー!」
「おうよっ!」
 賑やかな声に思わず目を丸くしたアキラは、それからふっと表情を和らげた。
 ――今だけは、考えるのはよそう。
 ずっと気を張っていただろうヒカルは、ここに来て酷く喜んでいる。懐かしい顔に会えたためか、それとも社が自分達の事を受け入れてくれたためか……
 今は、あの笑顔を守ることだけを考えよう。
 辛い現実には嫌でも立ち向かわなければならない時が来るのだから。
 ――立ち向かう時は、二人で、だけれど。
 アキラは四つん這いで二人の傍に近寄り、碁盤の傍らに正座して不敵に笑った。
「手持ち無沙汰だから、早碁にしてくれないか? 一手十秒。負けたほうが交代。どうだ?」
 アキラの提案にヒカルも社も目を輝かせた。
「望むところや! 面白そうやないけ!」
「なんか合宿思い出すなあ〜! よっしゃ、行くぞ社!」
 一気にヒートアップした三人は、それから数時間早碁に没頭した。
 様々な問題を頭の片隅に追いやって。