芦原に送られて帰り着いた我が家は、アキラの知っている実家と何ら変わりがない。 出迎えてくれた母も、言葉少なに座っている父も、アキラの敬愛する両親と何の違いもないように見えた。 当たり前のようにあるアキラの部屋。必要な荷物が揃っているこの部屋で、「塔矢アキラ」が日々を過ごしていることは明らかだった。 アキラは先程自分が出した結論を覆すものを発見できず、一人落胆した。 それだけではない。 「お父さんが名人!?」 両親と向かい合って茶を飲む芦原の口から出たその言葉に、アキラは思わず反応した。 三人は驚いた様子でアキラを見ている。 「……そうよ。どうしたの、アキラさん」 「アキラ、お前やっぱり頭でも……」 芦原がまた泣き出しそうな顔になったので、アキラは慌てて首を横に振る。大丈夫です、大丈夫ですとまるで呪文のように唱える言葉は、自分自身に言い聞かせているようだった。 父が日本棋院から引退し、フリーの棋士として世界中を飛び回るようになってからもう何年になるだろう。 その間に空白の名人位を兄弟子の緒方が獲得し、そしてそれをアキラが奪った。父がかつて保有していたタイトルを、是非とも手にしたかった。 それなのに、こちらの世界では未だに塔矢行洋が名人として君臨しているらしい。いよいよ訳が分からなくなってくる。 「なんだかアキラ、階段から落ちてちょっと変なんですよ。急に怒鳴り声あげたりして」 「まあ、疲れてるのかしら。アキラさん、もう休みなさい」 「そうだアキラ、もう休むといい。明日の手合いは無理することはない」 アキラは思わず息を飲む。 「……明日の、手合いは……無理をするなと……?」 聞き返した言葉に対して、父は黙って頷いた。 アキラは天を仰ぐ。――この人は自分の知っている父ではない。間違いない。 父なら、こんなふうに自分を甘やかしたりするものか。 そうなのだ、病院からずっと感じている違和感。どうも彼らはアキラを妙に甘やかそうとする。芦原だけではなく両親もまたそうなのだと知って、驚きよりも悲しみが強い。 「……分かりました。休みます」 アキラは彼らに一礼し、居心地悪くその場を後にした。 部屋に戻り、襖を閉めると、脱力感が全身を襲う。 そのまま畳に座り込んで、しばらく空を見つめて呆然としていた。 ここは何なのだろう。何故自分はこんなところにいるのだろう。 車に撥ねられた時、何か空間でも捩じれてしまったのだろうか? ――馬鹿馬鹿しい、アキラは自分がリアリストだとよく分かっていた。 心も身体も疲れて、涙さえ出て来ない。なんでこんなことになってしまったのか。自分の知っている大切な人たちはどこへ行ってしまったのか。 (――進藤) アキラの目に光が戻る。 そうだ、ヒカルだ。ヒカルはどうしたのだろう。 アキラのマンションはこの世界にはない。ではヒカルもまた実家にいるのだろうか? (進藤まで、ボクの知らない進藤だったら?) それを怖れないはずがない。 しかし怖れていたって何も始まらない。 アキラは自分の持ち物を片っ端からひっくり返した。何か手がかりは見つからないかと。 そうして棋譜の詰まったバッグの内ポケットから転がり出てきた携帯電話に、まさしく縋るように飛びついたのだ。 電話帳を開き、名前の一覧画面を下へ下へと送り続けてまた驚愕する。 なんとまあ、今の自分との交友関係に差があるのだろう。 病室で付き添ってくれていたらしい和谷や伊角の電話番号やメールアドレスも当然のようにあった。しかも着信履歴を見るからに、頻繁に連絡をとっていることは間違いない。実際のアキラの携帯電話にも彼ら二人の名前は登録されているが、それは時折ヒカルが彼らと遊びに行くことがあるからだ。ヒカルの遅い帰りを心配し、一、二度電話をかけた程度のものである。 そして全ての名前を確認し、アキラは愕然とする。――ヒカルの名前がない。 「そんな……まさか……」 もう一度最初から見るが、「進藤ヒカル」の文字はどこにもない。 この世界の自分と彼は何ひとつ交流がないというのだろうか? 「そんなはずは」 もう一度見る。もう一度。……名前が、ない。 アキラは深く嘆息し、力の抜けたその手のひらから携帯電話が転がった。 「進藤」 名前を呼ぶと胸の中にどうしようもない思いが広がって弾けて行く。 そんなはずはない、そんなはずはないのだ。 自分がどんな人間であろうと、塔矢アキラである限り、彼との繋がりがないはずがないのだ。 目を閉じて、闇にやり場のない思いをぶつける。誰か答えて欲しい。誰でもいい。自分の知っている誰かと話をしたい。 「……」 そうしてアキラは、和谷と伊角の言葉を思い出す。 ――あんなヤツのことはもう忘れちまえよ! ――お前……、やっぱり、忘れることができないのか…… アキラは目を開いた。 彼らの言葉は……自分とヒカルに繋がりがないと判断するには、あまりに不自然だ。 アキラはもう一度携帯電話を手にした。注意深く見ていた画面に、先程はやり過ごした奇妙なアルファベットを発見する。 『S』 「……S……」 他の人間が全てフルネームで登録されている中、あまりに違和感のあるアルファベット一文字。 見るとそれ以外の全ての人間がきっちりグループ分けされているにも関わらず、唯一何のグループにも属していない、それが「S」だった。 アキラは確信した。番号を表示させる。この数字は携帯電話の並びだ。迷わず発信ボタンを押した。 携帯電話を耳に当て、ゆっくりと深呼吸する。 もしも、この電話の向こうに出る人の声が望んだ人のものではなかったら。 望んだ人だったとしても、アキラの知っている彼のものではなかったら。 (その時は、その時だ――!) 永遠に続くかと思われたコール音が、ふいに途切れた。 『……もしもし?』 アキラは潰れそうな胸を必死で支え、込み上げてくるものを堪えようと空いた手で口元を覆う。 間違いない。ヒカルの声だ。何度も聞いた、アキラが誰よりも愛しているヒカルの声。 『もしもし? ……だれ?』 「しんどう……」 『……塔矢?』 受話器の向こうの震える声が、アキラの声もまた震えていることを気付かせる。 『塔矢? 塔矢なのか? 本当に? 俺の知ってる塔矢アキラ?』 アキラのしおれかけていた心がみるみる精気を取り戻す。 「進藤……進藤なんだな? ……ボクの、恋人の?」 『塔矢!』 ヒカルの悲痛な叫び声がアキラの耳に、胸に刺さる。 『塔矢、助けて。何これ。訳わかんない。俺らどうしちゃったの? ここって一体なんなの?』 「進藤、落ち着いて。大丈夫、すぐに行くから。何処にいるんだ?」 『早く来て、塔矢。俺おかしくなりそう。早く』 「分かった、今すぐ行く! キミの居場所を教えてくれ!」 ――神様、感謝します。 アキラはその夜、産まれて初めて信じてもいない神に感謝を捧げた。 この境遇もまた、神の悪戯であるかもしれないことなど頭の中から抜けてしまっていた。 |